Crossing The Himalayas #4 / トラウマの大ヒマラヤ山脈横断記#4
文/ジャステン・リクター 訳/構成;三田正明
いよいよ旅も中盤に差し掛かってきたトラウマの大ヒマラヤ山脈横断記。今回、トラウマは世界を震撼させたあの事件のせいで、旅の計画の変更を余儀なくされます。
■オサマ・ビン・ラディンの殺害
(Section 4 ; Dhunchee to Jhomsom , 340km, 9 Days.)
ドゥンチェに着いたのは町の灯りが消える直前だったけれど、僕たちはすぐにホテルを見つけ出し、レストランで夕食にありつくことができた。ドゥンチェは山で補給を行える数少ない町で、僕たちはここでインターネットにアクセスできないかと期待していた。家族や友達に連絡をとりたかったし、ニュースも知りたかった。もしもここでネットにアクセスできなければ、20日間もオフライン状態が続いてしまうのだ。レストランでウェイトレスにたずねると、数ブロック先に小さなネットカフェがあるという。興奮してその店を訪れると苦痛なほど遅いダイアル・アップ接続だったけれど、文句はいうまい。少なくともインターネットにアクセスすることができたのだから。
その後小さな店を見つけ、向こう10日分の食料を手に入れることもできた。ともあれ、ここから先は比較的ポピュラーなトレッキング・ルートを行くので、ティーハウス(訳者注;宿と食堂を併設したネパールのトレッキング・ルートに点在する施設)で食事することができる。そのため多くの食料は必要なかった。ここまで僕たちは常に空腹だったので、暖かい作りたての料理ならばなんでもウェルカムだった。僕たちはビスケットやジュースや朝食用の食料を買い込み、ホテルに戻った。
ベッドに寝転んでいると、さっきネットで見かけたニュースの話題になった。パキスタンであのオサマ・ビン・ラディンが殺されたというのだ。友達や家族からも、たくさんのパキスタン入国に注意を促すメールが届いていた。僕たちはこの旅のゴールをパキスタンに設定していたのだ。なかでも、とても近しい友人から送られたメールが頭から離れなかった。彼は軍の特殊部隊のためのバックパックのデザインや製造を行っているのだけれど、特殊部隊で働く彼の友人によると、メディアが報じる以上にパキスタンではさまざまな事件が起こっているという。彼のメールにはこう書かれていた。「自殺願望があるのでなければ、パキスタンに立ち入るな。」
当初、僕たちは旅の最後にパキスタンに160kmほど入り、ヒマラヤのもっとも西にある8,000m峰、ナンガパルバットのベースキャンプまで行く予定だった。けれど、この新しいニュースにより計画の変更を余儀なくされた。そもそもパキスタン政府が外国人に対するすべてのビザの発給を停止したというのだ。さらにインドとパキスタンの軍事的緊張も高まっている今は、国境線まで近づくことすら危険だろう。僕たちはせめてインドとパキスタンの国境近く、ナンガ・パルバットの山容が見れるギリギリの場所までハイクする計画に変更した。
■ティーハウスとダルバート
翌朝、僕たちは早く起きて、ふたたびトレイルへと戻った。今回の町での滞在はアイスクリームにありつけなかったので満足とはいえなかったけれど、Eメールをチェックしてニュースを知ることができたのでまあよしとしよう。ドゥンチェの町外れの未舗装路はユタ州南部のバー・トレイル(The Burr Trail)を思い起こさせた。僕たちは谷底へと続くつづら折りの道を下り、川を渡ってもうひとつの小さな町、シャブルベシへと渡り、ふたたび登っていった。
その日はそれから渓谷の上へと続く細い未舗装路をおよそ45km歩いた。一日の終わりには標高も2,500mほど上がっていて、空気がまた冷たくなってきたことを感じた。暗くなってから古く小さなティーハウスに出くわし、僕たちは店先の木製のピクニック・テーブルでネパールの伝統料理「ダルバート」を食べた。米とレンズ豆と炒め野菜が粥状に混ぜられたそれは味気がなく、砂糖のたっぷり入ったミルクティーの方がよほどおいしいと思った。(訳者注:トラウマはこう記述しているが、米とレンズ豆の薄味のカレー、炒め野菜に漬け物などが添えられたネパールの伝統料理ダルバートは地域や部族ごとに様々な味があり、でたらめな西洋料理ばかりのティーハウスのメニューのなかではおいしい方である。かなりアジア的な料理なのでアメリカ人のトラウマの舌には合わなかったのかもしれない。プギョ(満腹)というまで何杯でもおかわりをくれるので、腹を空かしたトレッカーの強い味方である)。僕たちは木でできた小さな部屋に泊まり、薄っぺらいマットの粗末なベッドで寝た。
翌朝ティーハウスを出発すると、犬が後をついてきた。彼は町から8km離れた鞍部の尾根までぴったりついてきたけれど、いよいよ峠を越える段になってようやく村へと帰っていった。彼が家に帰れるか心配だったが、僕たちは曲がりくねった道を下っていき、小さな村をいくつか過ぎた。渓谷の上を9kmほど歩き、川へと下った。数時間後、暗くなる直前に村へと辿り着き、昨夜とまったく同じようなティーハウスでダルバートの夜を過ごした。
翌日も道が多少悪くなった以外は同じようなものだった。ところどころ地図とコンパスが必要だったけれど、そこを越えればもっと歩く人の多いマナスル・トレックへ合流する。僕たちは暗くなる前にマナスル・トレックに辿り着き、その夜もティーハウスで食事にありつきたいと思っていた。
だがその日の終わり、僕たちはメイン・トレイルへと渡る吊り橋への角を間違えてそのまま川の反対側を直進してしまった。5kmほど行くともうひとつの吊り橋が現れたけれど、そこまでは急斜面の道なき道を下らなくてはならなかった。とても急で滑りやすい斜面を800mも下り、1時間以上かかってようやく橋へと辿り着いた。濁流の流れる川を渡り、最初に見つけたティーハウスに飛び込むとすでにあたりは暗かった。標高差3,000mを登り、3,000mを下った長い一日だった。暖かい料理を食べてコカコーラを飲み(トレッカーの多いエリアに帰ってきたのだ!)、あとはぐっすり眠るだけだった。
■マナスル・トレック
それから数日間はトレッカーの多いトレイルで、大いに距離を稼ぐことができた。僕たちはティー・ハウスを出発してマナスル・トレックを登っていった。一日中登り続けたけれど、50km歩いてもまだ峠には着かなかった。標高差3000mを登り、峠まであと数kmの地点にやってきたところで暗くなり、タープを張ると雪が降り始めた。バーラルと呼ばれる野性の山羊がキャンプサイトのそばを取り過ぎていった。足跡以外ではこの旅で初めて出会った野性動物だった。
翌朝冷気に眼を覚ますと雪が5センチほど積もっていたので、僕たちは持っている服を全部来た。トレイルは曲がりくねりながら谷の北面のモレーン(氷河が堆積して堤防状になったもの)の終点へと続いており、右側には草に覆われた丘がマナスルの主峰を背景にそそり立ち、左側には荒々しい氷河が谷底へと続いていた。一時間ほどモレーンに沿って登っていくと雪原が現れ、その後すぐに標高5,100mのラーキャ・ラ峠を越えた。
峠を越えるとすぐに下降が始まった。トレイルがふたたび現れるまでいくつかの雪原をグリセードで下っていった。下方の氷河にはたくさんのクレバスにできた水たまりがあり、眺めは驚くほど素晴らしかった。巨大なカール(圏谷)が右側の切り立ったピークを取り囲むようにそそり立ち、カールから流れ出した三本の巨大な氷河が神秘的なほどの対称さで合流し、それをモレーンが美しく装飾していた。合流点ではサファイア色の氷河湖が陽に照らされて輝き、左側ではマナスルに神への捧げもののように雲が覆い被さろうとしている。氷河は岩壁へと注ぎ込み、はるか谷の下方では草原が陽に照らされて輝いていた。
僕たちは冷えた身体を暖めようと素早く下り、その日の終わりには標高差2,500m下にある谷底へと辿り着きたいと思っていた。渓谷の底まで行けばもうひとつの人気トレイルであるアンナプルナ・サーキットの出発点に辿り着くことができるのだ。その日は太腿を燃えるほど酷使しながらひたすら下り続けた。谷の底へ着く頃にはすっかり疲れ果て、空腹だった。日暮れまでにはまだ30分ほどあったけれど、僕たちは食事をするためにティーハウスを探すことに決めた。ダラパニの村で僕たちは薄汚れたティーハウスを見つけ、夕食を食べた。谷の底はとても蒸し暑く、僕たちは翌日ふたたび標高をあげて涼しい大気に戻り、有名なアンナプルナ・サーキットを訪れることが楽しみで仕方なかった。
■アンナプルナ・サーキット
翌日は実り多い一日になった。アンナプルナ・サーキットはやはり魅力の多いトレイルだった。事実として、アンナプルナ・サーキットの大部分はかつて一度(クルマも通れる道幅の)未舗装路になってしまった。だが今では未舗装路の一部は壊れており、歩く人が以前より少なくなった。このネパール政府のトレッキング体験の破壊のため、いまではエベレスト・ベースキャンプ・トレックがもっとも人気あるトレイルになっている。
僕たちは60kmを歩き通し、標高差2,500mを登りきり、その間にティー・ハウスで昼食を食べた。景色は素晴らしく、地形と地質はより乾燥しているドルパ地域に近づいてきていることを感じさせた。バックカントリーの山小屋よりはヒルトンのリゾート・ホテルを思い起こさせるような巨大なティーハウスで夕食を食べ、一夜を過ごした。
標高5,000m以上を誇るかの有名なトロン・ラ峠も、僕たちがこれまで歩いてきた距離と標高にすれば楽なものだった。ティー・ハウスと何重にも折り重なるように掲げられた経文旗が峠の頂上を区切っており、アンナプルナ山脈は風雨の防護壁となってこの地域と南側とを区切っていた。峠にはところどころ雪がつもり、土は他の山域より乾燥していた。僕たちは峠を越え、5時間で標高2,000m以上を下った。
その日の終わりには、僕たちの最後の補給地になるジョムソンの町に着いた。さらなる補給のため、僕たちは翌朝のポカラ(ネパール第二の都市)行きの飛行機を予約した。町にはインターネットが来ていなかったけれど、僕たちはレストランでくつろぎ、おのおの2~3品の料理を食べ、町を歩き回り、午後のひとときを過ごした。翌朝、僕たちはポカラへと飛んで2日間を過ごした。これから始まるネパールでもっとも遠く、チャレンジングなセクションのため装備の再編成とエネルギーの充電が必要だったのだ。
(♯4に続く。英語原文は次ページに掲載しています)
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