Crossing The Himalayas #2 / トラウマの大ヒマラヤ山脈横断記#2
文/ジャステン・リクター 写真/ジャスティン・リクター ショーン・フォーリー 訳/大島竜也 三田正明 構成/三田正明
第二回目となるCrossing The Himalayas。狂乱のカトマンズを抜け出し、いよいよトラウマとペッパーはヒマラヤを歩き始めます! ですが、旅の始めからトラブルの連続だったようで…。
■悪夢のドライブ 【Section1 : Taplejung to Tumligtar, 275km, 10 Days.】 僕たちが乗り込んだバスの運転手がまさかラリー・ドライバーだとは、思ってもみなかった。崖沿いのでこぼこ道のドライブを楽しんでいたのは、おそらく彼だけだったろう。地元のネパール人たちでさえ手にした紙袋に嘔吐したり、窓から首を出して犬のように舌を垂らしている。狭いジープの車内に10人以上がひしめく悪夢のような16時間を過ごし、ようやくこの旅の東側の起点であるタプレジャン(Taplejung)の村に到着した。僕は久しぶりに首を伸ばし、もはや永遠に折れ曲がってしまったかのような脚を座席前の金属バーからひっぺがした。「標準的な依頼人」ではないことを自覚しているので、僕は普段できる限りガイドとは距離を保つようにしている。だが、ロビン・ボーステッド(GHTの発起人)にはガイドを雇うことを強く薦められた。たしかに僕たちは地元の言葉もわからないし、慣れぬ土地で危険を伴う高所の峠をいくつも越えなくてはいけない。最終的に僕たちは旅の始めの三週間だけガイドを雇うことにした。
僕たちが雇ったガイドは英語があまり堪能でなかったけれど、難易度の高い峠越えの経験があるといい、1日に僕たちが歩く予定の距離を伝えても尻込みしなかった。だが当初の予定では全行程の10分の1である200マイル(約160km)を彼と歩くはずが、実際に彼と歩いたのは100マイルだけだった。
■Sherpa Shakedown
僕たちは初日から彼に譲歩する羽目になった。事前に旅のスケジュールと、3時間歩いては45分の休憩を取り、それを日暮れまで繰り返す僕たちのルーチンについては伝えていた。だが言葉の壁なのか、生来の頑固さから来るものなのかはわからないけれど、彼は僕たちにまったく合わせようとはしなかった。
僕たちのバックパックには10日分の食料が入っていたけれど、それは日ごとに軽くなっていく。一方、彼のバックパックにはたくさんの装備が詰まっているものの、食料は持っていなかった。つまり彼のバックパックはずっと重いままで、僕たちの歩くペースは食料が減るとともに徐々に速くなっていくのに、彼はそうではない。これが徐々に問題になっていった。
彼のバックパックにはスエット・パンツやジーンズや替えのショーツや、この旅では到底使われなさそうな服や装備が満載されていた。ともあれ、一応はプロのガイドである彼に持ち物を置いていくよう頼むことは道義的な躊躇があり、僕たちは彼に“Sherpa Shakedown(シェルパ流のならし運転)”を与えるしかなかった。
さらに食料を持たない彼のために、僕たちは予定外の休憩を取る必要があった。ネパールの食事時間は西洋とは異なり午前10時、午後2時、午後7時で、そのあたりで民家を見つけると彼は立ち止まっては食事を作ってくれるよう頼み、食事にも1時間以上を要した。そのたびに僕たちの休憩時間はずらされ、歩くための時間がどんどん削られていく。彼はその日まだ歩く予定があるのに休憩した民家で泊まっていくことを提案することもしばしばあり、それにもイライラさせられた。
■雪男騒ぎ
こうして予定が大幅に遅れざるをえなかった。おまけに標高4,700mの峠を越えているときのことだ。僕たちは膝下まで雪にはまりながら数kmを歩き、ホワイトアウトした状況のなかで道を探していた。彼がこの峠を越えたことがないことは明らかで、それどころかずっと僕たちの踏み跡を歩いていた。リード役を買って出ることもなかったし、トレイルを切り開くこともなかった。自分たちがいまどこにいるのかまったくわかっていなかったし、地図の読み方すらわかっていなかった。地図をみるとき、峠にいるのに川を指したり、昨日通り過ぎた村を指すこともあった。
標高5,150mのルンバ・サンバ峠(Lumbha Sambha La)を越えるときには、彼は手前の村で道先案内に村人を自費で雇った。それまでも僕たちは自分たちで地図を読んで行き先を把握していたので道先案内はまったく必要なかったが、おそらく彼はネパール人の仲間が欲しかったんだと思う。峠越えの前夜は高所でキャンプする予定があり、彼はテントでひとりで寝ることをとても怖がっていたのだ。
ルンバ・サンバ峠越えはふたたび膝下まで雪にはまりながらの行程になった。スケジュールが遅れたため翌日も高所キャンプをすることになり、このときは僕が彼のテントを立ててやった。午前3時に突然彼の叫び声がして、僕たちは飛び起きて何が起きたのか尋ねたけれど、彼のブロークン・イングリッシュはうまく理解できなかった。僕たちはふたたび寝ることにしたが、彼のヘッドライトは一晩中ついたままだった。
翌朝、ふたたびいったいなにが起きたのか尋ねると、イエティ(雪男)が突然彼のテントのジッパーを開け胸の上に乗って首を絞めてきたという! 僕たちは信じなかったけれど、彼は断固として譲らなかった。彼によればあたりにイエティが何匹もいて、僕たちが寝たあとも何度か戻ってこようとしていたが、彼が夜通し起きてイエティたちを怖がらせていたので近寄ってこなかったのだという。イエティがどんな姿だったのか聞くと、黒い毛むくじゃらの身長2フィート(約60cm)ほどの生き物で、二本脚で歩いていたという。
それから数日、村を通過するたびに彼は村人たちにそのことを話していた。そのたびにペッパーと僕は大笑いさせてもらった。
■“Double-Doubles”
さらに悪いことに、彼の身体はバックパックの重さに耐えきれなくなってきた。なにかと理由を見つけては休憩するようになり、僕たちが荷物を持ってやることもあったし、自分の荷物を運ばせるために地元の人間を雇うこともあった。いつのまにか僕たちが彼のガイドとポーターになっており、安全のためにも彼をバックカントリーから脱出させなくてはならないことは明らかだった。
遂に僕たちは彼をカトマンズに送り返すことにした。すると、すべてがスムーズに進みはじめた。「伝統的なネパールのしゃっくり(Classic Nepali Hiccups)」を除いては。ネパール政府は2011年を観光の年として位置づけ、“0Strikes in 2011”のスローガンを掲げていたものの、すでにそれは果たせそうもない状況だった。僕たちの2ヶ月間の滞在中、すくなくとも3回から4回のストライキがあり、カトマンズでの補給後、街から出られず時間を無駄にすることがしばしばあった。ネパールの横断には47日間を要したが、さらに補給や入域許可証の発行待ちやストライキの終了を待つために21日間を費やした(僕は普段の旅では月に一日の休息日しか取らない)。
これからもストライキなど不測の事態が起こりそのたびに時間をロスすることを考えると、僕たちはもういちどハイキング計画を練り直し、さらにペースを上げる必要があった。ガイドと別れて以来、僕たちのペースは上がり、一日22マイル(35km)を進むことができるようになっていた。連日2,000m以上、時には3,000m以上の標高差を登り下りし、そんな日を僕たちは夢に見るほど恋いこがれていたIn-N-Out Burgers(カリフォルニア州を中心に展開するハンバーガー・チェーン)にちなんで“Double-Doubles”(チーズとパティが2枚づつ入ったIn-N-Outの人気メニュー)と呼ぶことにした。
■初めて食べ物を見た人
【Section 2 : Tumligtar to Namche Bazaar to Berhabise, 322km, 11 Days.】
カトマンズでの一度目の補給を終え、間髪いれず有名なエベレスト・ベースキャンプ・トレックへと向かった。僕たちはエベレスト・ベースキャンプの“Tent City”を訪れたあと、GHTの本来のルートとは少し外れるものの、どうしても歩いてみたかったエベレスト山域の気絶するほど素晴らしいいくつかの峠を越えた。エベレスト、ローツェ、ヌプツェ、チョラツェと、景色は進むごとに素晴らしくなり、僕はまるでノース・フェイスのカタログを歩いているような気分だった。その製品の多くはこれらヒマラヤのアイコンたちにちなんで命名されているのだ。
だが、この旅で初めて標高4,200m以上で6日間を過ごしたことで、僕たちはひどく消耗してしまった。険しい地形と高所で長期間過ごしたことの影響で、ふたりとも頭痛や腹痛や筋肉疲労を抱えていた。タフなセクションだったけれど、最後の峠を越えれば1,000mほど標高を下げることができ、次の補給までは標高3,500m以下に留まれることを知っていたのでなんとか乗り切ることができた。
何千mもの累積標高を登り下りした10日間のあと、僕たちがこの旅で出会った唯一の舗装道路に出て、バスでふたたびカトマンズに戻った。山の村で手に入る食材はすべて低カロリーで、高低差の激しい長距離を歩くハイカーの求める高カロリー食品は手に入らないのだ。
カトマンズに戻った僕たちは、まるで初めて食べ物を見る人のように食べまくった。ピザ、冷たい飲み物、アイスクリーム! 山の村で冷蔵庫にお目にかかることは滅多にない。街で僕たちが当たり前のように享受していることの多くが、そこではとても贅沢なのだ。
それから数日間はネパールでの残りのセクションで必要な入域許可証を取ったり、靴を履き替えたり、必要でなくなったクライミング・ギアをダッフルバッグに戻したりして過ごした。この機会は僕たちにとってダッフルバッグから補給をして装備の入れ替えをし、都会の空気に振れる最後のチャンスだった。
またもや当然のようにストライキがおこり、バス網がストップした。街でやるべきことを済ませた僕たちは、数日後ふたたびトレイルに戻ることにとても興奮していた。
(♯3に続く。英語原文は次ページに掲載しています)
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