Crossing The Himalayas #5 / トラウマの大ヒマラヤ山脈横断記#5
文/写真:ジャステン・リクター 訳:三田正明
5回目となるトラウマのCrossing The Himalayas。大ヒマラヤ山脈を一気に横断するという前人未到の試みに挑戦するトラウマとペッパーの旅も、いよいよ佳境に差し掛かってきました。ところがネパール最後の秘境とも呼ばれるドルパを旅するトラウマに、この旅でも最大の試練が襲いかかります。
■秘境ドルパへ
(Section 5 ; Jomson to Darchula, 453km, 13 Days.)
カトマンズで装備と食料を補給した僕たちは再びジョムソンへと飛び、アッパー・ドルパ地域を目指した。ドルパはネパールでも秘境とされ、外国人は7日間で500ドルという高額の入域許可証料金を払わなければ訪れることができない地域だ。
その日3つの峠を越えるため、町から着実に上がっていった。ひとつめの峠からは北に遠くオレンジとピンクと赤の色調の乾燥したムスタン高原の広大な景色が広がり、東にはアンナプルナ、南西はダウラギリというそれぞれ8,000m級の山々が見渡せた。その光景はまるでユタ州南部(訳注:主に荒涼とした砂漠地帯が広がっている)を一方に、もう一方に雪を纏った山々を眺めるような見事なコントラストで、8,000m峰の膝元を流れる急峻な川がこの標高の違いと鮮やかな景観を作り出していた。 すべての峠を越え、日が暮れる少し前にサンタという小さな村に下った。村は乾いた場所にあり、水場はそこからさらに下った谷底にあった。家々は草葺き屋根と日干しレンガでできており、有名トレイルで観光客相手に働くネパール人に比べて、この村の人々が貧しいことは明らかだった。僕たちは一軒の家の軒下で寝る許可をもらって夕食を作り、満月と強風にはためく経文旗の下で眠った。 ■最も困難なハイキング本格的な挑戦はその翌日に始まった。ここまでのネパ―ルの旅は比較的簡単だったけれど、ここからはそうはいかなかった。ドルパでの10日間は、おそらく僕がこれまで経験したハイキングのなかでも最も困難なものだった。10日間で10の峠を越えなくてはならず、おまけにそのうち8峠は標高5,000m以上なのだ。毎日標高差3,000m以上を登り、
膝下まで雪に埋まりながら永遠のような時間を過ごした。天気はまったく僕らの味方をしてくれなかったけれど、景色は驚くほど素晴らしかった。 標高5,000m以上でも雪が柔らかく膝下まで埋まることもあり、たった100m進むのに1時間以上かかることもあった。僕たちはとても疲弊していたが、このセクションの始めにバックパックが重かったときから限られた食料しか持っていなかった。毎晩雪が2~8センチほど降り積もり、困難さは増すばかりだった。僕たちは10日間でいくつかの村を通り抜けたけれど、どこも貧しく、自らの食い扶持を確保するので精一杯のようで、彼らに食料を分けてもらうことなどとても頼めそうになかった。 3日目から最終日にかけて、信じられない体験をした。その日僕たちはふたつめの大きな峠を越えようとしており、累積標高もいつも通り3,000mに近づいていた。峠の上にある懸谷(訳注:非常に急峻な渓谷)に行くため主流の渓谷を急登し、渓谷の支流まで登りきると地面は平らになった。ふたたび徐々に登り始めると次第に地面は雪に覆われていき、膝まで雪に埋まった。さらに雲がやってきて雪が降り始めた。 そのとき、僕たちは雪豹の足跡を見つけた。足跡は僕らの向かう方向と同じ方角に続いており、峠へと向かっているようだった。けれど雪が降り始め、降り積もると足跡を見失ってしまいそうだった。降雪と深雪に阻まれていつも足跡探査は中断されていたので、今度こそはと思っていた。しばらくしてようやくラッセル状態から抜け出し、僕たちは再び雪豹の歩いた道を歩いていることに気がついた。信じられないことに、雪豹は雪のどこの箇所が踏み抜くか、踏み抜かないのかわかるらしい。ようやく峠を見つけたが、そこへ辿り着くには雪の斜面を100mほど渡らなくてはならなかった。雪豹の足跡を見失い、標高5,200mの地帯で胸まで雪に埋まった僕たちに厳しかったそれまで7日間の疲労が重くのしかかり、たった100mを渡るのに2時間かかった。 文字通りでもたとえ話でも、トレイルには浮き沈み(High & Low)がある。最低がなければ最高もない。景色はセクションを通じて素晴らしく、間違いなくこの旅のハイライトだった。これは挑戦であり、これまで僕が歩いてきた場所と同じように価値があった。最後の峠を越えたとき、これまでのハイキングでも数回しか味わったことのないような圧倒的な歓びがこみ上げてきた。 ■吊り橋での事故
峠の下りはグリセードで500mを1分もかからずに降りてしまった。僕たちの足取りは弾んだ。この峠を越えて50kmを歩けばネパールでの最後の補給可能な村に着き、そこからは3日間ほどの面白みのないトレッキングでネパールとインドの国境に着くはずだ。僕たちは旅の成功を確信していた。けれど、ネパ―ルはそう簡単に僕たちを行かせてくれなかった。僕たちは熱く湿った空気のなか、たくさんの急で長い坂を登った。せめて国境近くではもう少し楽に歩かせてもらいたいと思っていたけれど、結局そうはならなかった。
国境まで半日ほどの地点で壊れかけの吊り橋を渡ったとき、ペッパーは僕の数分前を歩いていた。吊り橋に差し掛かったとき、大きな小麦の袋を背負った老女に追いついた。僕が木板でできた橋を見やった瞬間だった。「バン!」と音がしてて、気がつくと僕は橋に肘でぶら下がっていた。足下の橋板が壊れたのだ! 視界はぼんやり微かに見える程度で、僕の立っていた橋板は垂直になりふらふらと揺れ、10メートル下の激流の川へ落ちるのを防いでくれているのは脇の下の今にも割れそうな木の橋板だけだった。アドレナリンが吹き出し、なんとか腹這いになって橋板の上に立つことができた。足が震え、顔に手を当ててみると出血で暖かく濡れていた。 かけていたサングラスは壊れていまにも落ちそうなのに何かに引っかかっているようで、僕は手で顔を被いながら対岸へと歩いていった。手の間から血が滴り、僕の後ろには血の道ができていた。サングラスを取り外そうとしたが、眉にくっついて離れない。顔に水をかけ、もう一度サングラスを引っ張ったけれど、まだ外れない。事故の一部始終を見ていた地元の人が僕に駆け寄ってきてくれた。彼は英語を喋れなかったのでジェスチャーで鏡が欲しいと伝えると、桶に汲んだ水と手鏡を持ってきてくれた。 僕の眉はサングラスのレンズとフレームの間に突き出ていた。橋板が壊れて落ちそうになったとき、顔を激しく打ったのだ。顔は血まみれで出血も酷かった。レンズをフレームから外して顔から離し、すぐに裂けた傷口を洗い流しテープを貼った。気を落ち着かせるために数分間座り、吐き気を抑えながらふらつく足取りでペッパーを追った。そしてさらに6時間のハイキングの後、ついに僕たちはインドとの国境に着いた。 ■ネパールとの別れネパールでの最後13日間は、この旅でもっとも厳しい日々だった。秘境ドルパでの10日間を過ごした後、国境に着く3日前にガムガーディの村で手短かに補給を行ったけれど、体重を保つのに充分なカロリーのある食料を手に入れることはできなかった。ネパールの典型的な料理といえば米とレンズマメでできたダルバートで、ネパールの人々は基本的にそれを日に二回食べるだけで暮らしている。僕たちの胃袋はそれだけで満足できそうもないので、できるだけダルバートを避けていた。どちらにせよ痩せるのでそれほどの食料を持たなかった結果、僕の体重は中学生以来の65キロになっていた。もしもペッパーが映画『E.T』のように僕の背中越しに輝きながら脈打つ心臓が見えたならば、あの映画を再評価するべきだと僕たちは冗談をいいあった。
タフで疲れる旅だった。これまでのどのハイキングよりも体重を失ったけれど、僕は誠実な素晴らしい人々に出会うことができた。僕たちが困っている時、彼らは何でも差し出してくれた。彼らから僕は献身と機知と、シンプルな暮らしの尊さを学んだ。またときに僕は無作法さと強欲さも体験した。そしていま僕は謙虚さと感謝と、この上ない達成感……いや、そんな言葉では表せない何かを感じている。イエティを見たことも信じたいけどね。(♯6に続く。英語原文は次ページに掲載しています)
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