Crossing The Himalayas #8 / トラウマの大ヒマラヤ山脈横断♯8
写真/文 ジャスティン・リクター
訳/構成 三田正明
第8回目となるCrossing The Himalayas。長きに渡るトラウマの旅にも、いよいよゴールが見えてきました。今回は知られざるインドのトレイルフード事情や燃料事情(というかそれにまつわるトホホ話)、モンスーン前の強烈な大気、インド・パキスタン国境地帯の緊張状態などが語られます。そしてトラウマに、予想もしなかった再会の時が…。
■インドのトレイルフード
街での補給は数時間で済ませた。なにせこの旅の最後の2週間半は、僕がインドでいちばん楽しみにしていたセクションへと足を踏み入れるのだから。
補給のたびに大都市に飛ぶ必要のあったネパールと違い、旅はとても楽に、ペースも速くなった。インドではルート上の町で補給できるのだ。僕はポテトチップスやインスタントラーメン、チョコレートバー(残念なことにアメリカのものよりとても小さかった)、インスタントパスタなどを買い込み、好運にも、小さな食料品店の棚の埋もれたコーンフレークを見つけることもできた。
よく目を凝らさなければ、埃まみれの棚の奥になにがあるか、絶対にわからなかっただろう。何年もの間そこにあったであろうコーンフレークの箱は、厚い塵の層に被われていたけれど、僕は満足だった。手に入る食料の選択肢が少ないとき、砂糖をかけたコーンフレークは簡単に素早く食べられるハイカーズ・ブレックファーストだ。
ネパールと違い、インドにはトレイルフードになるインスタント食品がたくさんあった。ほとんどがおいしいとはいい難かったけれど、あのネパールの後では文句はいえない。
■ライター問題アメリカの町外れのガソリンスタンドで給油をするように、インディア・オイル(インドのガソリンスタンド)を見つけては給油ポンプからガソリンを燃料ボトルに補給していた。燃料用ガスもエタノールも手に入らなかったので、数日置きにマルチフエル・ストーブを洗浄するという腹立たしい仕事があるにも関わらず、燃料にはいつもガソリンを使っていたからだ。
さらにアメリカから持ってきていたビックのライターが空港で没収されてしまったことは、インドでの旅の間ずっとつきまとう問題になった。ストーブの点火にライターが必要だったので、僕は町に着くといつもライターを買った。けれどインドのライターは、2~3日ですぐ壊れてしまう。せめて次の町までは持つようにライターをふたつ買うようにしていたけれど、たいした意味はなかった。大抵の場合ひとつめのライターは不良品で、ふたつめもすぐに壊れてしまったから。その晩は運良くふたつめのライターが壊れる前にストーブを点火できたけれど、次の晩はもっとクリエイティブにならなくてはならなかった。僕はライターから火打石を引き抜き、岩にこすって出た火花で点火した。
ところが次の晩からしばらくは、僕にそんな幸運は訪れなかった。コーンフレークを食べ尽くしたあと、僕の主食はインスタントラーメンだったので、3日間、1日2回の食事のうち、1食はラーメンをそのまま食べ、もう1食は水に浸したラーメンを食べた。これには食欲をそそられなかった……というのは、かなり控えめな表現だ。まったく喰べれたものじゃなかったけれど、僕には他の選択肢はなかった。
■モンスーン前の湿った大気原生林で被われた尾根を登り、国道の通る谷底へと下った。シングルトラックのトレイルはあまり踏まれていなかったけれど、とても歩きやすかった。天気は日を追うごとに悪くなっていった。モンスーンの湿った大気が、すぐ間近までやって来ていることを感じた。もはや時間の問題だった。
午後になると、雲はビルのようにそびえ立った。あと少しで午後には雨か雪が降りだすようになるだろう。地元の人々は、モンスーンはデリーまですでに数100kmの距離にあり、それが北インドに達するまで2週間もかからないだろうといっていた。モンスーン前の湿気は、窒息しそうなほど濃かった
高地では朝に雲が高く昇り、それはしばしば雪に変わり一日中降り続けた。谷の底で国道を渡ると、急登が始まった。僕の東側の山と渓谷は、地図には立ち入り禁止と書かれていた。中国とインドの国境は外国人には閉じられており、ときには国境線から50kmもの範囲が立ち入り禁止地域地域になっている場合もある。インドとその隣人の多くは境界紛争の真っ最中にあり、領土の境界線について絶えず論争が続いているのだ。
なかでも、特に活発な論争の元になっているインドとパキスタン国境にあるシアチェン氷河は、世界で最も標高の高い戦場だ。伝え聞くところでは、インド・パキスタン両軍は毎日午後に出撃しては数ラウンドの砲火を交えるというが、実際の死者は砲火によるものよりも、標高と寒さによるものの方が多いのだという……。バブ峠を越えながら、そんなことを僕は考えていた。急峻な峠は断崖になり、いつのまにかトレイルは消え、あたりは雪に覆われていた。
下りも谷底まで急斜面が続いたが、ナビゲーションは難しくなかった。峠は稜線の明らかにいちばん低い場所にあり、越えられる箇所も2~3ありそうだった。雪に埋もれながらのろのろと進み、峠への最後の断崖を登った。
峠からの眺めは素晴らしく美しかった。眼下には巨大な扇状の圏谷が広がっていて、右手には暖かく乾燥した土地が、左手は雪に覆われた頂と氷河があった。僕は迷わず左へ行くことにした。
■圏谷の先の沼地渓谷を素早く下り、雪と氷河に覆われたパールバティ峠の西側を直登した。あたりの山々は標高6,000~7,000mはあったけれど、ネパールのヒマラヤとは大きな違いがあった。標高は全体的に低く、有名な山もなく、峠も低めで、氷河も少し短い。特に大きな違いは、かつての氷河によって作られた圏谷があることだ。基本的に圏谷は広く平らなため、とても歩きやすかった。
モンスーン前の湿気のなかで、あたりを春が支配しはじめていた。平地では草原に花が咲き乱れ、頂上を雪に覆われた峰の斜面を赤や黄色や紫が染まっていた。雪に被われたパールバティ峠を越えるには、長い時間がかかった。峠に着く頃には雲がかかり、景色はなにも見えなかった。雲は真っ白な世界をもっと白くして、ナビゲーションは難しかった。西へ向かって雪に覆われた斜面を急いで降りた。断崖を45分ほど下り、標高4,500mのあたりで雲の下に出ることが出来た。
雪原を離れるとところどころにケルンが現れ、複雑な地形の氷河の上を下っていくのにとても役に立った。そこから一時間ほどは氷河のモレーン(氷河によって運ばれて堆積した岩屑によってつくられた堤防状の地形)の上を上がったり下がったり、まるでジェットコースターのようだった。ついに僕は氷河の合流点にあるモレーンを横切り、広々とした沼地の平野を見た。直径1.5kmほどの沼地は最近まで湖だったようで、おそらくモレーンが決壊して水が溢れ出し、沼地になってしまったのだろう。沼地の対岸にはヒンドゥー教の神像とチベット仏教の経文旗が雪に埋もれていた。それは僕が体験したここ数ヶ月でもっとも平穏なハイキングだった。遠くに何者かが現れるまで。
■バックカントリーでの再会「彼」はとても親しげだったので、思わず僕は振り返った。そして僕たちはお互いに驚いて駆け寄った。彼はネパールのグレート・ヒマラヤ・トレイル(GHT)の発案者であり、ガイドブックを書いたロビン・ボーステッドだったのだ!
彼がGHTをインドへと繫ぐトレイルを探るために、インドへ来ることは知っていた。ペッパーと僕は、GHTを歩いたことのある人間に旅立つ前の最後の質問をしたかったので、カトマンズに住む彼と何度かお茶をしていたし、補給でカトマンズに帰った際も、旅の進捗を知らせるために会っていた。
多くの人が、僕がモンスーンが来る前の3ヶ月でネパールとインドを歩ききることは不可能だと考えていた。ロビンもとても親身になってくれたけれど、僕らが1シーズンでこのルートを歩ききろうとしていることや、僕たちのウルトラライトな方法論やメンタリティに懐疑的だったことはわかった。彼はふたつのハイキングシーズンで147日間を使ってネパールのGHTをハイクした。彼は重いに荷物で数人のシェルパやポーターや調理人と旅をする、伝統的なバックパッカーなのだ。
バックカントリーで出会ったとき、彼はとても興奮していた。僕のウルトラライトな方法論が有効で、ゴールを間近に控えていることに驚いていた。彼は数日後に友人の誕生日を祝うため、マナリーへ行くという。マナリーはこの地域の主要な街のひとつで、僕はマナリーが次の補給地だと彼に告げた。そして予定通りに行けば、誕生日パーティの午後に街につけるだろうと。
人里から遠く離れた場所で、予期しなかった社会的な繋がりを味わえたことが僕はとても嬉しかったし、数日後のディナーが楽しみでしょうがなかった。新しいゴールを目指して、僕は渓谷を降りていった。地形は平坦で、ゆるやかに下っていった。もうひとつの峰を越え、マナリーを目指してふたたび下った。ディナーの前にホテルを見つけ、シャワーを浴びるために。
(♯9に続く。英語原文は次ページに掲載しています)- « 前へ
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