Crossing The Himalayas #10 / トラウマの大ヒマラヤ山脈横断♯10(最終回)
全10回でお送りしてきたCrossing The Himalayasも、遂に最終回。ネパール〜インドのヒマラヤ山脈をワンシーズンで横断するというトラウマの驚くべき旅が、いよいよゴールに辿り着きます。思い起こせば無能なガイドに悩まされたり、雪男騒ぎがあったり、オサマ・ビン・ラディンの暗殺事件に遭遇したり、原野での奇跡的な再会があったりと、様々なことのあったこの旅。3220kmを歩ききったトラウマの胸中に去来するものとは…!?
■ダムに沈む谷
この旅で最後から2番目の峠、標高5100mのシンゴ・ラはインド/パキスタン国境までで最も高い峠だったけれど、トレイルは歩き易く、素早く登ることができて、通過は簡単だった。もっとも、過酷な状況下での数ヶ月に及ぶ奮闘が僕を成長させたので、楽に越えることができたのかもしれない。峠には雪が少し積もり、小さな雪原と薄く氷の張った湖があった。僕の身体には力がみなぎり、そこから見えた行く手の地形も簡単に越えられそうだった。数日後には国境に辿り着き、無事ハイキングをフィニッシュできることは確実に思えた。僕がシンゴ・ラ越えのルートを取ったのは、近い将来インド政府がそこに道路を通すという噂を聞いたからだった。ウィルダネスが永遠に失われてしまうその前に、シンゴ・ラの手つかずの自然を味わっておきたかったのだ。
それまでのインドでの旅のなかで、僕はすでにいくつもの地域で環境破壊の現場を目撃していた。人里離れた峠を下っているとき、巨大なダム湖に出たことがある。けれど、その湖は地図に載っていなかった。インドは発展する経済が必要とする電力を賄うため、多くの谷を水没させてきた。彼らは情熱を持続可能な発電方法や水力発電政策を転換することに向けず、それどころか次々とダムを作り、手つかずの場所を水没させている。さらに建設のための道路が作られ、それがバックカントリーの環境を孤立させてしまっている…。これはとても難しい問題だ。僕も経済発展の必要性はわかっているし、電気が行き渡ることで人々の暮らしが楽になることは尊重する。けれど、ジョニ・ミッチェルの言葉を借りるなら、『彼らは楽園を舗装して駐車場を置いている(訳注:ジョニ・ミッチェルの代表曲”Big Yellow Taxi”の一節)』。発展途上国にあるヒマラヤの多くの場所で、僕は同じようなことを感じてきた。国立公園に指定された場所のなかにも人々が住み続け、放牧をし、薪のため木を伐採している。先進国の多くの国立公園とは、定義の面でも保護の面でも異なっているのが実状なのだ。
■驚くべき肉体の適応能力僕は渓谷を下っていった。徐々に景色はこれまで通過してきた地域よりも乾燥してきて、ネパールのドルパ地域を思い起こさせた。ドルパがダウラギリの雨陰にあるように、ザンスカール山脈は多くの人がヒマラヤの主稜だと考える稜線の背後にある(訳注:雨陰とは山の風下の地域が山のおかげで雨雲が遮られ、乾燥することを指す。ザンスカールもヒマラヤの稜線の風下なので乾燥しているということ)。植物はほとんど生えていなかった。数時間後、僕は未舗装路に辿り着き、僧院のある小さな村を越えた。僕の行進を遮る者はなにもなく、ゴールへと駆ける競走馬のような気分だった。インド/パキスタンの国境に辿り着き、スルーハイキングを達成するまで、同じような未舗装路を1日半ほど歩き、いくつかの街を抜け標高4,200mほどの低い峠を越えるだけだった。景色は広大で印象的だった。パキスタンとの国境に近くで、僕はふたつの8,000m峰、ナンガパルバットとK2を見ることができた。
国境の街、カーギルに辿り着いた瞬間は、ほろ苦い気分だった。肉体的にも補給面でもこれまでで最も困難だったハイキングを達成し、家に帰り家族や友達と会い、ハイキングの間に逃したすべてを取り戻すことに、僕はとても興奮していた。もう毎朝早く起きてパッキングしたり、2,000mを登らなくても良いのだ。この3ヶ月食べたくてしょうがなかったもの……ベン&ジェリーのアイスクリームにありつくのが待ちきれなかった。ビッグ・サイズのベン&ジェリー、ヨーグルト、ダーク・チョコレート、サラダ、チーズ、チョコレート・ソイミルク……。僕はやせ細り、すこし体重を戻す必要があったけれど、肉体は人生でも最高の状態だった。身体の順応能力というものは、本当に驚くべきものだ。自分が標高3,200mでも心拍数が46でいられるようになるとは、思ってもみなかった。僕の足は1日2,000mを登っても疲れなくなっていた。数百メートル程度の登りでは苛立つこともなかったし、僕にとって登攀は数千メートル以上にならない限り、「登攀」ではなかった。
■旅の終わりにもしも国境線がなければ、僕はもっと歩き続けることができたろう。当初の計画ではパキスタンも240kmほど歩く予定だったけれど、旅の間にオサマ・ビン・ラディンが暗殺されてから、政治的に難しくなってしまった。けれどパキスタン国境に着いた時、やはりハイキングをここで終える決断は正解だったと思わされた。国境の警備はあまりに厳重で、正直恐ろしかった。
カーギルの街に入ると、至る場所に兵士がいた。写真を撮ろうとしたけれど、すぐにそれで悩まされることになった。3,220kmを歩いた3ヶ月の旅の最後に、僕は写真を撮ることすらできなかったのだ。肉体的には快調だったけれど、国境の街はすぐに僕を家に帰りたい気持ちにさせた。僕はひどく空腹で、早く兵士のいない安全な場所で落ち着きたいと思った。翌朝、すぐにレー行きのクルマに乗ってデリーへと飛び、その翌日にはアメリカ行きの飛行機に乗っていた。
僕は飛行機の座席に座り、窓の外を見ながらこの旅を思い返していた。ネパールにいたことさえ、もう何年も昔のことのように思えた。体験したことや目にした出来事、訪れた素晴らしい光景が走馬灯のように浮かび、発展にまつわる複雑な事情、官僚主義、発展途上国の抱える問題について思いを馳せた。ヒマラヤの景色は衝撃的なほど美しく、人々の文化も素晴らしかった。そしてこの旅は僕に政治的な面への目を開かせてくれたと思う。いらいらする瞬間も挑戦的だった瞬間にも等しく価値があり、ハイキングの陰陽となり、それぞれが冒険に挑戦と興味深さを与えてくれた。そこから僕は多くのものを学び、人として、ハイカーとして、ひとまわり成長することができた。僕はこの旅を忘れることはないだろう。
(英語原文は次ページに掲載しています)
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