NIPPON TRAIL #04 富士講 〜【後編】高尾山から富士山へ
文:根津貴央 構成:TRAILS
富士講・後編は、5泊6日の旅のストーリーをお届けする。かつての江戸から富士山を目指す旅の熱量に魅了されたTRAILSクルーは、自分たちならではの富士講として、高尾山から富士山までを山と町をつなぎがら歩く旅に出た。【前編の内容はコチラ】
現在の江戸(東京)を代表する高尾山を出発し、相模原の山々を越え、道志山塊を抜け、富士山周辺の山を巡りながら富士山へ。普段の登山ならば歩かないようなルート。日を追うごとに大きく見えるようになる富士山の姿。ロングハイクならではの町や集落の人々との出会い。そして現在も富士吉田の町に残る、かつての富士講の足跡。
約90km、6日間の “TRAILS的な富士山への旅=富士講ロングハイク” のはじまりはじまり。
高尾山を西に抜けると、そこには心躍る茶屋と町と山々があった。
高尾山山頂を出発し、城山へ。ここから相模湖へと降りていく道は東海自然歩道と重なっている。あたりは高尾山周辺とは思えないほど人が見当たらず、木漏れ日の差し込むとても静かで緩やかなトレイルだ。
気分よく軽快にくだっていくと、登山口の目の前に富士見茶屋というこぢんまりとした茶屋があった。コーヒーや甘酒などを飲むことができ、自家製の梅干しも売っている。「おつかれさ〜ん」と笑顔で迎えてくれたのは、ご主人のおじいさん。
聞けば、この相模湖側ルートは、バスがたくさん運行していた頃は多くのハイカーでにぎわっていたが、本数の減少とともに来る人もめっきり少なくなってしまったとのこと。でも、足を運んでくれる人とのふれあいを大切にしながら、代々つづくこの茶屋を切り盛りしているそうだ。「まあウチのばあちゃんのやる気があっから、オレもまだやってる感じだな。ばあちゃんがそうでなければ、この茶屋もたたんでいたと思うよ」。
いやいや、ここが無くなってしまったらこのルートの大きな楽しみが減ってしまう。相模湖駅まで歩いたってたかだか1時間なんだから、みんな来たほうがいい。高尾山横断をもっとみんな楽しむべきだ!と、ご主人の話を聞いて急に鼻息が荒くなってしまった。ちなみに僕たちは、少し前にこの茶屋を訪れたことがあって、「また歩きに来るよ!」とここのおばあちゃんと話をしていた。それをちゃんと覚えていたらしく、「富士山まで歩くなんてすごいねぇ」と言って手づくりの大福を用意してくれた。まさかこんなお土産を手にできるだなんて!僕たちはこのステキなおやつをバックパックにしまって、相模原の町へと向かった。
ここからは、江戸時代の富士講の旅人も歩いた甲州街道に降りて、街道沿いにあるかつての宿場町(小原宿)を辿りながら、初日は相模湖駅近くの旅館に投宿した。翌日は、相模原の山々を越え、道志渓谷東側の入口にあたる青根キャンプ場を目指す。嵐山〜石老山は、展望の良い場所からは江戸・東京の町が目に映り、まだまだ東京近郊という印象だ。でも一度、舗装路に降りてから石砂山(いしざれやま)に入っていくと、次第に東京の町は山に隠れ、道志渓谷が近づいてくる。
相模原エリアの三つの山を越え、青根キャンプ場に着いたのは夕刻。受付締切の17時ギリギリに滑り込み、みんなで宴会、というか忘年会。朝まで飲んでやるぞ!という勢いは気温の低下とともに衰え、早々にそれぞれの寝床へと戻っていった。夜中には0℃を下まわったくらいだから、道志の寒さをあなどってはいけないのだ。
道志山塊は隠れた名ルート。僕らにとっての富士道(ふじみち)を感じさせてくれた。
さて、今回のお楽しみのひとつ、道志の道である。道志といえばキャンプ!そんなイメージが一般的だろうか。道志の山を歩いてきたよ!なんて人に出会うことはめったにない。まあそもそも交通の便が悪いってのもある。北側の上野原や大月界隈の山は中央線から行けるし、南側の丹沢は小田急線からのアクセスがいい。しかも日本百名山の丹沢山まである。
でも、だからといって他の山域に劣る、なんてことはない。絶対に他にはないなにかがあるはずだ!僕たちはそんな根拠のない自信を持って歩きはじめた。
まず感じたのは人の少なさ。とにかく歩いている人がいない。だから誰に気をつかうことなく自由に山歩きを楽しめる。さらに基本的に稜線歩きなので気持ちがいい。とはいっても、日本アルプスのような大パノラマだとか、雲海だとかがあるわけではない。道志山塊の稜線は樹林帯だ。でも冬場は落葉するので視界は良い。何が見えるかといえば、北側には上野原市や都留市の町並み、南側には道志村の集落。特に後者は東西に長く約28㎞もあることから、昔から道志七里と呼ばれている。だから歩けども歩けども、眼下には点在する村落があるのだ。
それがどうした?と思われるかもしれないが、これなのだ。ここがポイントなのだ。なぜって、あたかも町のなかにいながら富士山へと続く特別な道を歩いているかのようだったのだ。モーゼの十戒、御神渡り、といった例でもあげればイメージできるだろうか。知られざる富士道(ふじみち)を歩いているというか、富士山トレイルを発見してしまったというか。僕たちは秘密の隠れルートを歩いている気分だった。
出会い、おもてなし、猟師料理。道志村での最高の夜。
3日目の目的地は、山の宿・日野出屋。明治頃に創業した木造建築の宿で、囲炉裏もある昔ながらの佇まい。かつて旅籠(はたご)として、旅人や村人たちの日用品なども売っていたそうである。
このエリアの人たちは、道志山塊の里山と渓谷を流れる道志川をはじめ、豊かな自然と密接に関わりながら生活を営んできた。この日野出屋旅館の人も、そんな暮らしを続けてきたそうだ。宿のご主人である佐藤光男さんは、山をつないで歩いてきた僕たちをとても歓迎してくれた。
「あんたたちは、本当にいい遊びをしているな」と嬉しそうに言い、女将さんは「普段は年配のお客様が多いから、若い人が来てくれて嬉しいんですよ」と言った。
ご主人は元猟師。道志や丹沢の山のガイドもしていたらしく、このあたりの山のことを知り尽くしている。道志山塊の植物のこと、イノシシを興奮させないコツなど、いろんなことを教えてくれた。僕たちが、明日以降もしかしたらビバークしなくてはいけないかも、と相談をすると、それならここらへんを目安にしたらどうか、水が必要ならナントカカントカ(名前は忘れた)という蔦(ツタ)を切れば、切り口から水がしたたるから鍋をその下に置いておけばいいとか、この山域に暮らす人ならではのアドバイスをくれた。さらにご主人はかなりの釣り好きでもあり、その昔、某釣り雑誌の10ページぶち抜きの特集記事に登場したこともあるほど。それくらいの入れ込み様だった。だから、道志の山のことも、川のことも、とにかく詳しい。僕たちが前のめりで聞いていたこともあってか、ご主人のトーク&おもてなしはとどまることなく、あれも喰うか?これも喰うか?と、お手製の馬もつの煮込みやら、猪肉の焼肉やら、鹿肉のにんにく醤油漬けやらと、ご馳走がどんどん出てきた。
「牛や豚の肉は焼いてすぐ口に入れるとやけどするだろ?でもイノシシだけは大丈夫なんだ」というので、あきらかに脂身が高温になってそうな一枚を箸でつまみ、騙されたと思って口に入れてみた。すると……熱くない。しかも脂身が甘くて美味しい。猪肉の焼肉がこれほどウマイとは!僕たちは、一年分のジビエをたいらげたのではないかと思うほど食べまくった。これこそが、まさにロングハイクの愉しみではないだろうか。山を降りた町や集落で、人と出会い、語らい、地元の食を味わう。自然のなかを歩いてきたからこそ話も弾むし、おもてなしのありがたみも感じる。山に登るだけでもなく、町に観光で来るだけでもない。山と町をつなぎながら歩く。それが旅を豊かにしてくれるのだ。
遥か彼方にあった富士山が、刻々とその存在感を増していく。富士山を目指す旅の楽しさとは。
高尾山から見た富士山は遥か彼方に見えていて、とてもじゃないけど歩いてたどり着ける気がしなかった。相模原を抜け、道志山塊の東端に来たときもそうだった。富士山、遠いなあ……と。
でも、道志山塊の西側、菜畑山(なばたけうら)山頂で目にした富士山は、その3日前に高尾山から見たものとは別物だった。明らかに巨大化していて(僕たちが近づいただけなのだが)、もはや目と鼻の先という感じがした。
目的地が目に見えてわかる、近づけば近づくほどその存在感が大きくなってくる、その嬉しさというものを初めて知った。たとえば登山の場合、麓にいるときはその山の全景をとらえることができるけど、登れば登るほどその姿は見えなくなる。国内外のロングトレイルだって、ゴール地点の道標は直前にならないと目にすることはできない。そう考えると、この富士山を目指すというロングハイキングは、とても珍しくとても興味深い行為に思えてきた。
道志山塊を越えてからは、石割山、そして扚子山とつないで歩いたのだが、そこからの富士山の大きさ、美しさたるや、想像を超えるレベルだった。特に夕刻、山中から見た妖艶な富士山のシルエットは、瞼の裏に鮮明に焼きついている。東京からはるばるここまで歩いてきたんだ……そう思うとなんだか胸がいっぱいになった。
富士吉田には、今もなお御師町の歴史と文化が生き続けていた。
今回の旅のハイライトのひとつ、それが御師の町・富士吉田での滞在だ。前編でも触れたように、御師(おし)とは、富士山に登拝する人々のお世話をする人のこと。この町は、江戸時代に御師と富士講の人々で賑わっていた。
上吉田には、いまでも御師の家の名残りがある。その特徴には、石柱の門とそこから母屋へと延びる細長い道(タツミチ)、屋敷内を横断して流れる川(ヤーナ川)などがある。
現在も宿泊業を営んでいる筒屋(づづや)さんは、400年以上続く御師の家で、現在20代目とのこと。今もなお現役の富士講の人を受け入れ、御師料理(予約制)も提供しているそうだ。建物のなかには、版木や行衣、マネキなど、昔から富士講の人々が使っていた貴重な物が多く残っている。「あなたたちも、どうぞ」と、女将さんからここの版木で刷った布をいただいた。
大鴈丸(おおがんまる)さんも同じく400年以上の歴史がある御師の家で、現在はカフェを備えた複合型のゲストハウスになっている。10年前に先代が宿泊業をやめたのだが、孫夫婦が御師の文化を残したいという想いからリニューアルオープン。若い世代の感覚と富士講の歴史がミックスされた居心地のいい空間で、僕らは同世代のオーナー夫妻と意気投合し、しばらく話し込んでしまった。ご存知のとおり、2013年に富士山は世界遺産に登録された。そのおかげで富士山に登る人は増えたみたいだが、富士山はあくまで世界文化遺産であって世界自然遺産ではない。富士山信仰をはじめとした文化を知ること、それを知るために登ることこそが、本来の楽しみ方なのではないだろうか。
僕たちが今回の旅のモチーフとした富士講の歴史や文化が、この富士吉田の町には今も多く残っていた。富士講の今と昔が重なり合い、僕たちは翌日の富士登山に向かう気持ちをあらたにした。
旅のラストを飾る、僕たちなりの富士登山。
最終日、僕たちは標高1,430mの馬返しから標高2,220mの5合目・佐藤小屋まで登ることにした。まずは北口本宮冨士浅間神社で安全祈願。ここには、富士講の記念碑も数多くあり、富士山信仰に深い関わりのある神社ということがうかがえる。また石碑に刻まれた文字をよく読んでみると、品川、調布、三鷹、船橋など、東京に住む僕たちにとって馴染みのある地域にもたくさんの富士講があったことがわかる。
馬返しからすぐのところにある登山口には、大きな鳥居と禊所(みそぎじょ)と書かれた案内板。そこにはこうある。「古来よりここから先は、富士山の聖域とされていました。これより先へ向かう道者は大正期頃よりここでお祓いを受け、身を清めてから山頂を目指しました」。
観光登山ではなく富士山を拝みに来た僕たちは、襟を正して歩みを進めた。道中には、小屋や茶屋の跡、神社など、往時を偲ばせるさまざまな建物があり、あらためてここが信仰の道であることを実感した。
5合目の佐藤小屋に着き、なかに入ると大勢の人だかり。なんの騒ぎかと思ったら、元旦を富士山で迎える人(初日の出登山をする人)が続々と集まってきていたのだ。厳冬期の富士山に登る人がこんなにもいるとは思ってもみなかった。
しかも話を聞くと、山に人生を捧げてきたような山ヤさんばかりで、未踏のルートを初登した凄腕の方々もたくさん集まっているとのこと。とんでもないところに来てしまったな……と内心思っていた。すると小屋の人から「どこから来たの?」と聞かれたので、「高尾山からずっと山を歩いて来たんです」と答えたら、「アンタたちもバカだねぇ(笑)」とひと言。ちょっとだけ仲間入りをさせてもらえた気分になった。
小屋の女将さんのお心遣いで、泊まりの人にしか出さないはずのカニ汁をご馳走になった。身も心もあたたまった僕たちは、ありがとうございました!とお礼を述べ、外に出た。小屋の前に立つと、遠くに富士吉田の市街が見えた。「高尾山から富士山5合目まで、オレたち、よく歩いてきたよな」。そう思うと、ちょっとだけ泣きそうになった。
民俗学者・宮本常一の言葉である。今回、トレイルを歩いていてふと思い出した。
高尾山から富士山までの行程は、ずっと里山だ。視界のなかにはつねに町や村があり、見渡す限りの大自然だとか、自然にどっぷり浸かるだとか、ウィルダネス感だとか、そういうものは存在しない。
人間の手が加わった自然に触れ、味わい、旅をする。これを楽しいと思うか思わないかは人それぞれ。でも、僕は大好きだ。道志の宿で元猟師のご主人からこの山域の話を聞いたとき、この山々と地元の人とのつながりを感じ、親近感がわいた。そんな感情を抱いて歩くと、おのずと歩く側と自然の距離感や関係性が変わってくる。それがおもしろかったりする。
そういえば、アメリカのトレイルを歩いていた時、メンテナンスクルーによく出会った。整備するようになったきっかけや整備の内容、やりがい、苦労などを聞いたりもした。すると、それまでなんの気なしに歩いていた道が、別物のように思えてきたりする。
ロングハイキングっていうのは、いたずらに長い距離や長い時間を歩くものでもなく、人里離れたウィルダネスを歩き生き抜くようなものでもなく、人の手が加わったあたたかな自然を旅すること、それを楽しむ行為だと僕は解釈している。
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