Crossing The Himalayas #1 / トラウマの大ヒマラヤ山脈横断記#1
■僕が旅に出る理由
2011年3月、僕とクライミング・パートナーのショーン・フォーリー(“ペッパー”という愛称で知られている)は、世界で最も東に位置する8,000m峰カンチェンジュンガから最も西に位置する8,000m峰ナンガ・パルバットまで、大ヒマラヤ山脈を横断する総距離およそ3,000kmから4,150kmに及ぶハイキングを行った(正確な距離がわからないのは、地図が精密でないため地図上で計った距離と実際に歩いて計った距離に20~30%もの違いがあったからだ)。
遠征に出るときは、決まって「どうしてそんなことをやるの?」「どうしてそこに行くの?」と聞かれる。僕の答えはシンプルだ。僕はただ見たことのない景色を見て、行ったことのない場所を探検して、経験したことのない環境で自分の限界に挑戦してみたいのだけなのだ。だから遠征の目的地は変わっても、行く理由は変わらない。そして僕は今回の旅の行き先にヒマラヤを選んだ。
旅の計画を立てることは、ハイキングの大きな楽しみのひとつだ。いくつもの地図と戯れながらジグソー・パズルのようにルートを編み上げていくことは、これから始まる旅への期待と興奮を否が応でも高めてくれる。僕はいつもなるべく住む人が少なく舗装路の上を歩かなくて済む地域と、なるべく大きな山や深い峡谷のあるバックカントリーを繫ぎ合わせてルートを組む。ときには陶然とするほど美しいトレイルを歩くこともあるし、ときには車が猛スピードで行き交う焼けたアスファルトの上を永遠かと思うほど歩き続けることもある(そんなときは人生を呪いたくなる)。もちろん、実際に歩き始めれば計画の変更を余儀なくされることもよくある。それでも、自分が歩いている道や行き先を把握している気分が僕は好きだし、そんな試行錯誤のすべてが旅をより実りあるものにしてくれると思っている。
■ヒマラヤをウルトラライト装備で横断する
この旅の計画を始めたときは、ヒマラヤ山脈を横断するルートについては殆ど情報がなかった。そんな折、カトマンズ在住のオーストラリア人、ロビン・ボーステッドがグレート・ヒマラヤ・トレイル(GHT)のガイドブックを出版したことを知った。GHTはロビンがヒマラヤにある無数のトレイルを実地調査して設計した、ネパールを東西に横断する総距離1,500km~1,700km(距離は高地を通過するハイ・ルートと山麓を通過するロー・ルートで異なる)に及ぶロング・トレイルだ。ロビンと彼の本からは多くの有益な情報を得ることができけれど、当時の彼はまだネパール・ヒマラヤでのハイキング経験しかなく、インドやパキスタンのセクションについては自分たちで計画を立てる他なかった。僕たちはネット情報や『ロンリー・プラネット』(世界的に大きなシェアを誇る個人旅行ガイド)のハイキング・ブック(ロンリー・プラネットは一般の旅行ガイドの他、世界各地のトレイル・ガイドも多く出版している)や道路地図など、手に入れられる情報はなんでも集め、さらには古いイギリスやニュージーランドのヒマラヤ遠征隊の探検記録にも目を通した。
人があまり訪れない地域について調べていると、収集した情報が噛み合ないことがよくある。僕たちは越えるべきたくさんの峠について、それぞれがどれほどの難易度でどのような装備が必要なのか、様々な情報を組み合わせて検証する必要があった。最終的に、僕たちは考えうる限りの不測の事態に備える必要があるが、それらすべてに対応する装備を持ち歩くことは不可能だと判断した。だが、現地で必要な装備を手に入れることは困難だ。なので、いくつかのハイキング・セクションの始点に比較的近いネパールの首都カトマンズのホテルに食料や追加装備をダッフル・バッグに入れてデポしておく計画を立てた。
ヒマラヤを訪れる人の多くはアルパイン・クライマーやトレッカーだけれど、僕とペッパーはロング・ディスタンスをウルトラライト・スタイルで歩くハイカーだ。この世界で最も高い山脈をウルトラライト装備で切り抜けるためには、ひとつの道具にいくつもの役割を負わせなくてはならない。僕たちは装備を1gでも削ぎ落とすことに多くの時間を費やした。
旅の長大さに比べて、それが可能な季節はヒマラヤをモンスーン(雨期)の猛攻が襲う前の春の2~3ヶ月間と、冷たい大気が覆い被さる前の秋の2~3ヶ月間しかなかった。ネパールのモンスーンは6月に始まり、東から国中を蹂躙しながら西のインドへと移動していく。旅の時間を最大化してこのルートをひとつのシーズンで踏破するためには、モンスーンに先行して素早く移動を続ける必要がある。かつてこのルートを1シーズンで踏破した者の名は聞いたことがない。もしできるとしたら、ウルトラライトのスタイルで1日に45kmを移動できる僕たちのようなハイカーだけだろう。
■狂乱のカトマンズ
今回の旅の準備はこれまでのどの旅とも違っていて、まさに嵐のようだった。その冬は記録的な大雪で、出発の直前まで2~3週間に渡りまさに悪夢のような吹雪が吹き荒れ、旅の準備にも多くの時間がかかってしまった。たった1週間で4.5mもの雪が降り積もっては雪かきも追いつかず、クルマをガレージから出すこともできない。クルマまでダッフル・バッグを運んだり、近所にちょっとした用事を済ましに行くことですら大冒険で、出発当日に空港につけるのかでさえ定かでなかった。僕は3月21日にアメリカを出発したのだけれど、毎冬のあいだ働いているスキー・パトロールの仕事を直前まで続けて、ノルディックやバックカントリーやテレマークなど様々なスタイルでのスキーをして、ハイキングのトレーニングに充てた。
狂気じみた出発前の準備をなんとか切り抜け、カトマンズで飛行機を降りるときには無事到着したことに安堵したものの、緊張と興奮も感じていた。今度はこのカトマンズの狂乱を相手にしなくてはならないのだ。発展途上国でよくある光景……空港を出た途端に襲いかかってくる猛烈な客引きやタクシー・ドライバーたちが、僕はとても苦手だ。誰もが騙したりものを盗もうとしているように見えてしまう。けれど、これから始まる大冒険のための重く巨大なダッフル・バッグをふたつも抱えた僕はある種の興奮状態にあり、なんとか彼らに立ち向かうことができた。お決まりの値段交渉のあと、タクシーはカトマンズのツーリスト・タウンであるタメル地区へと向かった。地図や国立公園への入域許可証を手に入れたり、食料補給の選択肢を調べたり、ハイキングの出発前にカトマンズではいくつかやるべきことがあったのだ。
タメルの街は僕は震え上がらせた。もつれた蜘蛛の巣のように無秩序に交差する細い道は往来する種々雑多な人々で埋め尽くされ、さらにクルマやバイクやリキシャ(東南アジアでよく見られる3輪トラックのタクシー)がその隙間をすり抜けるように走っていく。そこら中から悪臭が漂い、僕の神経は限界を超えていた。タメルの道端に捨てられたゴミから漂う腐臭やその光景を、僕は忘れることはないだろう。
■「ネパール時間」
計画では僕が到着した翌日の午後に相棒のペッパーも到着する予定だったけれど、そううまくはいかなかった。彼は搭乗券の確認を怠り、なんと午前0時のフライトを午後12時だと勘違いしていたのだ! こうしてペッパーの到着が一日遅れとなったため、僕はひとりでカトマンズの街を地図や補給用の食料を探しに人ごみをかき分けながら歩いてみることにした。
ところが、すぐにこの街では食料補給をすることが難しいことがわかった。店先に並べられた鶏肉や豚肉はもう何日もそこにあるようだし、おまけにびっしりと蝿がたかっていた。肉も野菜も、すべての食料が強烈な陽の光にさらされて腐りかけている。午後の3時半になると、サンフランシスコからソウルとバンコクを経由して72時間もかかったフライトの疲れと時差ぼけが突然襲って来て、その日はホテルに帰って寝た。時差ぼけはその後3日間も続いた。
数日後、最初の数週間で歩く予定の国立公園の入域許可証が取れ、やっとハイキング出発の準備が整ったものの、ペッパーがカトマンズ到着後に食べたものにあたってしまい、出発を1日延ばすことになった。さらに翌日は政府がストライキを起こして行政機関がすべて閉まってしまい、さらなる足止めを食らった。ストライキはネパールではよくあることで、僕たちは同じような事態に旅の間に三度以上は出くわすことになる。
期待に胸を膨らませた数日の後、僕たちはやっとネパール東部へと向かう飛行機に乗込むことができた。ところが目的地の空港は滑走路を補修中のため使用できず、手前の空港で下りてそこからさらに長距離バスに乗る羽目になった。ネパールでは一時が万事この調子で、物事がまったくスケジュール通りに進まない。この「ネパール時間」を受け入れられるようになるまで、数週間かかった。
【次ページではトラウマのギア・リストを公開!】
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