フォロワーゼロのつぶやき 中島悠二 #11 部屋の入り口
<フォロワーゼロのつぶやき> 中島君(写真家)による、山や旅にまつわる写真と、その記録の断面を描いたエッセイ。SNSでフォロワーゼロのユーザーがポストしている投稿のような、誰でもない誰かの視点、しかし間違いなくそこに主体が存在していることを示す記録。それがTRAILSが中島君の写真に出会ったときの印象だった。そんな印象をモチーフに綴られる中島君の連載。
#11「部屋の入り口」
初夏の低山の下りだった。
梅雨の湿気で空気はむんとしていてたくさん汗をかいた、汗は不快とは思わなかった。蝉が啼いている、ブィンブィンブィンと一定に、耳にリフレインするやわらかい倍音が、下できくのとはちがう、調べればなんの蝉かわかるだろうが調べない。蝉の声はバラバラでも、重なって混ざり合うとひとつの大きなリズムになって、全方位から空気を振わせて、自分の上にふってきた。
ブィンブィンブィンと自分。それだけの世界。
下っていく。下へ。足は何も考えなくて動いた。ザッザッザッと自動で。自分の意思ではなくて足がかってに動いた。木の根とか岩のかたちを読み取って微妙な傾きや凹凸にたいして的確に判断して足がでていた。いや、判断してる間はなかった、それらは一体に流れるように処理されていて、処理とかでもなく、とにかくもう足は前に出ていてそれが常に精確だった。すごい速さだった。この世界ではいちばんだった。オリンピック並だった。
下るというか落ちていた。足はかってに動くので、自分の意識はすることがなくなって、身体の中心から離れてすこし後ろから眺めるみたいに、他人事になった。下に下に。ブィンブィンブィンで、ころがり落ちた。何も考えていないし何も判断しなかった。楽だった。自分がまわりの世界に向かって拡散していくような気分だった。粉みたいになって光を反射させて広がった。音楽みたいになった。
でも同時にこの状態には終わりが近いこともわかっていた。残念だけどそういうものなので、できることは終わりを少しでも後ろに遅らせることだけだった。
足をとめると身体がじーんとした。水を一口飲んだ。水が喉を通った。それがきっかけになって、ドッと沢の流れる音が耳に入ってきたかと思うと、突然ドアがバタン!としまって別の部屋に放り出されたみたいにさっきまでの感覚はなくなった。
すごい汗、緑がきれい。もう蝉の声は沢の音のうしろに隠れていた。
さっきまで確かにそこにいたという感触が逃げていくのがわかった。
一度出てしまうとドアは片側からしか開かないようで戻ることはできない。もうこれは10年も前のことで、それからずっと、別の入り口は見つからない。
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