信越トレイルクラブ × アパラチアン・トレイル・コンサンバンシー 友好トレイル協定レポート #01
話:佐藤有希 写真:佐藤有希, 信越トレイルクラブ 構成:TRAILS
信越トレイルがつくられた際、日本におけるロングトレイルの大きな課題のひとつに、継続的な維持管理体制がないことが挙げられていた。
そこで信越トレイルは、アメリカで最も歴史あるロングトレイルのひとつであるATをモデルとして、その官民連携の運営体制や、ボランティアをベースとした維持管理の仕組みを取り入れて、2008年の開通以来、15年以上運営されてきた。
今回の友好トレイル協定の締結を機に、今後の信越トレイルに、どのようなアップデートがあるのかが期待される。
今回の記事シリーズでは、信越トレイルクラブとATCとの友好トレイル協定の締結までの道のりを、Lost & Foundに語ってもらう。
第1回は、どのような思いを持ったハイカーが、信越トレイルとATの友好トレイル協定に関わっていたのか。また友好トレイル協定が、どのようなきっかけからスタートしていたのかというエピソードを紹介したい。
またATは2024年9月末のハリケーンで甚大な被害を受けており、信越トレイルクラブが中心となり「#AT復興支援金プロジェクト」(※3)を立ち上げ、募金を呼びかけている。TRAILSのGARAGEでも募金を受付しているので、賛同いただけるハイカーはぜひサポートを!
ATスルーハイカーの映像をきっかけに、加藤則芳さんにたどり着く。
—— TRAILS編集部:現在は、信越トレイルとATにとてもコミットしている有希ですが、そもそも何をきっかけにロング・ディスタンス・ハイキングの世界にのめり込んだのですか?
佐藤:きっかけは2008年のことでした。家でテレビを見ていたら、NHKでたまたまATのスルーハイカーを追うドキュメンタリーが放映されていたんです。薄汚れた姿のハイカーたちが、みな人生にそれぞれの想いを持ちながら、衣食住のすべてをバックパックに詰め込んで、3,500kmという途方もない道を、2本の脚で歩くという行為に驚愕したんです。
—— TRAILS編集部:テレビで見たATのハイカーの姿が、初期衝動だったと。
有希:この衝撃の熱は、その後しばらく忘れていまして。それから5年ほど経った2013年頃、山登りにハマったことがきっかけでふと思い出し、パソコンの検索バーに「Appalachian Trail」と打ち込んだんです。そこから、まるで何かにとりつかれたようにATの情報を検索し続けました。
—— TRAILS編集部:何か感じるものをキャッチしたんですね。
佐藤:そうですね。ひととおり英語での情報を収集した後は、今度は日本語の情報もあるかな?と思い、試しにカタカナで「アパラチアン トレイル」と入力してみました。すると加藤則芳さん (※4)という男性が2005年にATスルーハイクに挑戦する記事を見つけました。それを読んでみたら、あのドキュメンタリー番組で見た、あの薄汚れたロング・ディスタンス・ハイカーたちの姿を思い出したんです。
そのときに、ロング・ディスタンス・ハイキングという旅が、自分にとって大切な何かをもたらすのではないかと、根拠もないのに強く感じたのを覚えています。
加藤則芳さんの、自然保護や国立公園の理念が注ぎ込まれた信越トレイル。
—— TRAILS編集部:加藤則芳さんについては、どんな思い入れがあるのですか?
佐藤:最初は日本人のATハイカーとして知ったのですが、その後、作家であることを知って、加藤則芳さんの著書や関連本を調べ、近所の書店やネットショッピングで手あたり次第入手しました。
加藤さんの本は、貪るように読みました。どれも惹き込まれるもので、こんなに何冊もの本をまとめて読んだのは、一生のうちでこれが最初で最後かもしれません。
—— TRAILS編集部:有希は、加藤則芳さんの影響が強いんですね。一番ハマった本は?
佐藤:一番、気に入ったのが『森の聖者―自然保護の父ジョン・ミューア』でした。ジョン・ミューアが提唱した、自然保護の重要性や、今日まで存続し得るようなアメリカの国立公園のシステムの成り立ちとか、その内容にとても臨場感と熱量を感じたんです。何度読んでも飽きることがありませんでした。
ウィルダネスの魅力や、長く歩く旅の醍醐味。また我々人間が元来持ち得たはずの自然との一体感とか、加藤さんの言葉を通じて、ロング・ディスタンス・ハイキングの魅力にどんどん惹き込まれていきました。
—— TRAILS編集部:理念を言葉にしてくれる部分なんですかね。自然保護の思想や、ウィルダネスの価値や楽しみ、またそれを国立公園というシステムで将来に残していくビジョンとか。
佐藤:でも加藤さんの本を読むなかで、彼がALS(筋萎縮性側索硬化症)を患い、思うように活動ができなくなっていることを知りました。「もしかして・・」と思い、恐る恐るネット検索すると、加藤さんは既にこの世を去っていました。
加藤さんに、一歩、届かなかったという悔いを感じたんです。もうどんなに本を読んだって、ネットで情報を漁ったって、加藤さんのアップデートはそこにはないとわかって。でも、それであれば、彼が礎 (いしずえ) を作り、命を吹き込んだ信越トレイルを、この目で見て、歩いてみようと思ったのです。
—— TRAILS編集部:加藤則芳さんを通じて、ATと信越トレイルに興味を持っていったのですね。その経緯を聞いて、自然や景色の良さはもちろん、理念を強く持って生まれた信越トレイルに、有希が強く惹かれる理由がより見えてきた感じがします。
佐藤:そうですね。実際に2016年に信越トレイルをスルーハイキングしたときも、加藤さんが本を通じて伝えてくれたことを、体験できたという思いがありました。
信越トレイルとATのつながりを、再び強くしたいと思った。
—— TRAILS編集部:信越トレイルを歩いた後、2018年にATをスルーハイキングしましたね。
佐藤:ATを歩いて感じたことの1つは、ロング・ディスタンス・ハイキングは、トレイルタウン、トレイルエンジェル (※5) の存在なくして続けることはできないということです。
自分が驚いたのは、ハイカーとトレイルエンジェルの間には、暗黙の信頼が成立していることですね。それはハイカーとトレイルとトレイルタウンが、長い時間をかけてつくりあげてきた絆ですよね。
日本でも、トレイルタウンにハイカーが当たり前にいる風景があったらいいなと思いました。またロングトレイルが長くあり続けるための仕組があるからこそ、そこにトレイルカルチャーが育っていくことを感じました。
—— TRAILS編集部:ATをスルーハイキングしおわった後に、有希は飯山に移住して、信越トレイルクラブで働くことにしましたね。なんでそのような決断をしたのですか?
佐藤:ATを歩き終わって、帰ってきたとき、行き場を探していたんですけど、トレイルへの恩返しの思いもあり、なにかトレイルに関わることをしてみたいと思うようになっていました。
どこかATの続きを求めていたんですよね。ATも信越トレイルも、基本的に里山の森を行くトレイルです。植生も共通していたりするので、双方似ている景色が多いし、自分にとってとても心地よい環境なんです。ふたつの道を歩いてみて、どちらも「home」という感覚を持つようになりました。なので、自然と信越トレイルに「戻る」という選択肢を考えていました。
信越トレイルクラブには、その当時、自分と同じようにアメリカでロング・ディスタンス・ハイキングを経験した仲間のハイカーが何人か働いていました。今もそのハイカーたちは信越トレイルに関わり続けています。
—— TRAILS編集部:アメリカのトレイルを歩いた、リアルなロング・ディスタンス・ハイカーが、日本のトレイルの運営団体にいるというのは、とても価値のあることだと思います。
佐藤:そうですね。ハイカーと一緒にトレイルを運営する仕事をやってみたいなと思いましたね。他にもタイミングもうまくあって、2019年から地域おこし協力隊として信越トレイルクラブの事務局で働きはじめました。
—— TRAILS編集部:信越トレイルクラブで働くようになったときから、信越トレイルとATのつながりを改めてつくりたいと言っていましたよね。
佐藤:信越トレイルクラブへの着任の時、まだ漠然としていましたが、当初からもっと信越トレイルとATのつながりを強くできればいいな、という思いを持ってました。
信越トレイルは、加藤則芳さんの理念のもと、ATをモデルにして作られたトレイルです。信越トレイルクラブが設立した2003年、当時のメンバーが加藤則芳さんを伴いATへ視察に赴き、トレイルの運営や維持管理の仕組み、またボランティアによるトレイル整備の方法などを学びました。でもその後はATと主だった交流はありませんでした。
信越トレイルの魅力や、加藤則芳さんというATスルーハイカーの存在、そして彼が撒いたAT由来のロングトレイルの種が、おかげさまでようやくここまで育ったこと、また彼のスピリットが日本国内のトレイルに広がりつつあるということを、もっとAT界隈の人たちに知ってもらいたい、という個人的な思いもありました。もちろん日本でもっとATの良さを知ってもらうことも。
—— TRAILS編集部:実際にATを歩いたことで、交流のきっかけのようなものがあったりしたのですか?
佐藤:自分がATを歩いたときに、親日家のロジャーというトレイルエンジェルに出会って、その時に自分は「日本にはATをモデルにした信越トレイルというのがある。とてもよいトレイルなんだよ!」という話をしたんです。
とてもよい反応をしてくれて、実際にロジャーはその後に日本に来てくれたりしだんですよ。その後もずっと交流を続けています。もっと信越トレイルとATをつなげて、人の行き来が生まれるようにしたい、と思うようになりました。
ロジャーがつなげてくれたATC本部の人やトレイル整備団体の人たちが、その後のATCとの友好トレイル協定締結までのプロセスにおいても、キーパーソンになったんです。
この当時はまだそこまでイメージしていなかったですが、長く続くATを管理してきたATCと交流をまた深めることで、信越トレイルの維持管理の仕組みのアップデートについても、学べることがあればという思いも強くなっていきました。
新たにスタートした、信越トレイルクラブとアパラチアン・トレイル・コンサーバンシーの友好トレイル協定のレポート。
今回はトレイルにどのような思いを持ったハイカーが、協定締結の中心にいたのか。また協定締結の初期衝動的な思いについて紹介をした。
次回以降では、友好トレイル協定の締結まで道のりや、そのなかでATC視察へ行った際のエピソードを紹介したい。
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