LONG DISTANCE HIKER #01 日色健人 | 日本人初のPCTスルーハイカー
話・写真:日色健人 取材・構成:TRAILS
What’s LONG DISTANCE HIKER? | 世の中には「ロング・ディスタンス・ハイカー」という人種が存在する。そんなロング・ディスタンス・ハイカーの実像に迫る連載企画。
何百km、何千kmものロング・ディスタンス・トレイルを、衣食住を詰めこんだバックパックひとつで歩きとおす旅人たち。自然のなかでの野営を繰りかえし、途中の補給地の町をつなぎながら、長い旅をつづけていく。
そんな旅のスタイルにヤラれた人を、自らもPCT (約4,200km) を歩いたロング・ディスタンス・ハイカーであるTRAILS編集部crewの根津がインタビューをし、それぞれのパーソナルな物語を紐解いていく。
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第1回目に紹介するロング・ディスタンス・ハイカーは、日色健人 (ひいろ たけと) さん。
日色さんは、2003年に日本人初のPCT (※1) スルーハイカーになった人だ。当時、日本においてPCTの情報はほとんど存在しなかった。
そんな時代に、彼はどんなきっかけでPCTを目指し、そしてスルーハイクを成し遂げたのか。日本におけるロング・ディスタンス・ハイカーのパイオニアに、当時のリアルを赤裸々に語っていただきます。
※1 PCT:Pacific Crest Trail (パシフィック・クレスト・トレイル)。メキシコ国境からカリフォルニア州、オレゴン州、ワシントン州を経てカナダ国境まで、アメリカ西海岸を縦断する2,650mile (4,265㎞) のロングトレイル。アメリカ3大トレイルのひとつ。
PCTのナイフエッジと呼ばれるハイライト。正面に見えるのはマウント・レーニア。
スルーハイキングへの序章「アメリカの旅」
24歳の時の日色さん。かなり大型のバックパックでハイキングをしていた。
—— 根津:まずは当時、日本人で誰も歩いていなかったPCTをスルーハイクするに至った背景から教えてください。日色さんは、もともとボーイスカウトをされていましたが、そういったアウトドアの経験がきっかけだったりするんですか?
日色:「1990年代後半に、ボーイスカウトの先輩がロサンゼルスに赴任していたんです。その方が、アメリカにはすごいトレイルがいっぱいあってそこをバックパッキングをしている人がいる、と教えてくれたのが大きいですね。それで1998〜2000年にかけて、3回シエラネバダに行きました。
日本での山岳縦走だと3泊4日くらいはできますが、たとえば6泊7日とか、リサプライ (補給) が必要になるとかなり難しいだろうなと。それまで長距離、長期間のバックパッキングの経験がなかったのでどこまでできるかはわかりませんでしたが、少しずつ遠くへ行ってみようという感じでした」
—— 根津:日色さんは、2000年にJMT (※2) をスルーハイクしましたよね? 前年の1999年に、加藤則芳さんの「ジョン・ミューア・トレイルを行く」(平凡社) が出版されましたが、こういった人や本の影響も受けているのでしょうか。
日色:「加藤さんの本は、僕がはじめてアメリカを6泊くらいした翌年に出ました。この人すごいなと思いましたね。それで、いつか僕らも行こうという話を先輩たちともしていました」
※2 JMT:John Muir Trail (ジョン・ミューア・トレイル)。アメリカ西部のヨセミテ渓谷から米国本土最高峰のホイットニー山まで、シエラネバダ山脈を南北に貫く211mile (340㎞) のロングトレイル。ハイカー憧れのトレイルで、「自然保護の父」として名高いジョン・ミューアが名前の由来。
当時24歳だった日色青年のスルーハイキングの旅がはじまる
自分の責任のもとで旅をする楽しさを味わう日色さん。PCTの北カリフォルニアにて。
—— 根津:2003年の時点では、まだ誰も日本人でPCTをスルーハイクした人はいませんでした。ある意味で、日色さんから日本のロング・ディスタンス・ハイカーの歴史が始まったとも言えます。当時、どのようなきっかけでPCTを知り、そして歩くことにしたのですか?
日色:「JMTを歩いた時にビジターセンターに行ったのですが、そこにPCTのパンフレットがあって。それがいちばん最初のきっかけです。
バックパッキングというのは、自然のなかで生活をする非常に自立性の高い遊びじゃないですか。ソロの場合はなおさらです。どこで寝ようが食べようが休もうが自分次第。すべて自分の責任で旅をする。そのスタイルがその時の僕には必要で、やってみたかったんです。
衣食住のすべてを自分でかついでトレイル上で生活をする。それが心地良かった。
当時24歳の僕は、いままで親が敷いてくれたレールに乗って、学校に行き就職もして。まだ自分の力でなにもしてない不安があった。そんな僕の目の前にあったのがPCTというフィールドでした。
そこにあったのはストイックな登山ではなく、4,000kmという長い距離と時間を、自分のペースで自分の責任で歩いていく旅。そこに惹かれたんです」
当時開催されていたPCTのキックオフパーティーの風景 (2003年)。たくさんの人と出会い、アメリカのハイキングカルチャーを体感する。
「9.11で亡くなった弟の勇気が詰まっている」 と夫婦から手渡された形見
—— 根津:PCTの魅力といえば、西海岸の広大な大自然や、トレイルエンジェル (※3) をはじめとしたハイキングカルチャー、トレイル沿いのトレイルタウン、ハイカーとの出会いなどさまざまあると思うのですが、日色さんがもっとも印象に残っていることはなんですか?
日色:「特にトレイルエンジェルには、あちこちでお世話になりました。自然の景色よりも印象に残りますよね。当時から有名だったカサ・デ・ルナやアグアドルチェのハイカーヘヴンにも行きました。
※3 トレイルエンジェル:ハイカーに対してボランティアで宿泊場所や食事を提供してくれる人のこと。アメリカのハイキングカルチャーを象徴する存在でもある。
トレイルエンジェルであるカサ・デ・ルナのテリー&ジョー・アンダーソン。
トレイルエンジェルであるハイカーヘヴンのジェフ&ドナ・サーフリー。
なかでもいちばん印象に残っているのは、北カリフォルニアのセイアドバレーに立ち寄った時のこと。後ろからピックアップトラックが来て、『ハイカーか?』と聞かれて『そうです!』って答えたらじゃあウチに泊まりにこいって言われて。年配のご夫婦でした。
ピックアップトラックの運転席に乗っていた彼が、日色さんに声をかけた。
家に行くと、テレビのわきに消防士のヘルメットが置いてあったんです。『おじさん消防士だったの?』と聞くと、オレじゃなくて弟だと。しかも、2000年のニューヨークのテロで殉職したと。
そのあとビデオで、ニューヨークレスキュー24時みたいな番組を見せてくれて、これが弟なんだと説明してくれました。当時、世の中全体がピリピリしていたし、戦争反対のムードでした。そして目の前にはテロで亡くなった方の遺族。複雑というか、すごく印象深い夜でした。
翌日、僕がトレイルに戻る際に、おばちゃんがお守りをくれたんです。『これなに?』と聞くと、ニューヨークのビルで拾ってきた瓦礫だと。弟さんは見つからなかった。でもここに弟の勇気が詰まっていると。それをあなたにあげるからと渡してくれたのです。おばちゃんも話をしながら泣いていて……すみません、思い出したら自分も泣けてきてしまいました」
—— 根津:今と比べればPCTスルーハイカーは10分の1程度の数だったはずです。そのなかで日本からわざわざ旅しにきた青年を、応援したかったのでしょうね。
日色:「これは、たんに泊めてもらってごはんをご馳走になっただけじゃなくて、向こうの人と自分がつながったというか、ものすごい印象深い出来事だったんです。僕に対して、何かを感じてくれたのかもしれないですし。一瞬の出会いですけど、こちらもご夫婦の気持ちを受けとれたこともあって、今でも忘れられない思い出です。久しぶりに話して、感情の箱があいた感じがしました」
誰の勧めでもアドバイスでもなく、自分がやりたいと思って自分で決断できたこと。それが自信になったという。
This is LONG DISTANCE HIKER.
『 スルーハイクを通じて
出会った夫婦の思いをつなぐ 』
日色さんが、セイアドバレーという田舎町で、たまたま出会い、お世話になったトレイルエンジェルのご夫婦。
消防士の弟さんを9.11で亡くしたご夫婦は、形見でもあるビルの瓦礫を、「弟の勇気が詰まっているから」と言ってスルーハイク中の日色さんに託した。
偶然だろうか? いや、僕は必然だと思う。誰でも良かったわけじゃない。日色さんだったからこそ、日色さんに何かを感じたからこそ、ご夫婦は託したくなったのだ。
日色さんはただの旅行者ではなく、強い意志と情熱を携えたロング・ディスタンス・ハイカーだった。それが必然を生み出したのだ。
根津貴央
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