土屋智哉のMeet The Hikers! ♯2 – ゲスト:勝俣隆さん
■ボルダリングとハイキング
土屋 じゃあべぇさんのなかでどこでULにシフトしていったの?
勝俣 そのあとサンフランシスコに転勤になって、最初の半年間は真面目に仕事してたんで泊まりで山へ行くってのはできなかったんだけど、でも山には行きたいよね。で、サンフランシスコにはキャッスル・ロックっていう有名なボルダリング・スポットがあったんで、ボルダリングを始めたの。僕、実はメキシコのときに土屋さんの顔と名前をはじめて拝見しているんですよ。
土屋 どこで!?
勝俣 ロクスノ(山と渓谷社のクライミング雑誌『Rock & Snow』)で。
土屋 あ、やべぇ(笑)。
勝俣 ボルダリング特集で、当時の平山ユージさんなんかも含む有名どころのクライマーたちが、ボルダリング・ファッションを着て、ファッション・ショーのように写真を撮っているなかに、上半身がやたらマッチョな土屋さんがいたんですよ。身体が逆三角形でキングコングみたいな(笑)。
土屋 当時はクライミングに入れ込んでいた時期だから。でも、あれは俺が出ちゃいけなかったやつなんだよ…。その号はクライミング系ブランドのタイアップで自社がサポートしているクライマーを使ってクライミング・アパレルのファッション・ページを作るって企画だったんだけど、そのなかでバーブにはサポートしているクライマーがいなかったらから、モデルとして出てくれって。ただ撮影行ったら嫌だったよ。(小山田)大ちゃんとか(平山)ユージさんとか松島(暁人)くんとか(渡辺)数馬とか、そうそうたるメンバーのなかで、俺がいちばん「おみそ」だったから。そういえばスカイハイ・マウンテンワークスのタクちゃん(北野拓也氏)も出てたよ。タクちゃんはそのときパタゴニアのスタッフだったから、パタゴニアのウェアを着て出てた。
勝俣 だからそこに名を連ねてるってことは、もうすごい人なんだって(笑)。だから初めて会ったときは、感覚的には平山ユージさんに会うような感じですよ。「こんな庶民が会っていいのかしら」って(笑)。まあ、そんな感じでボルダリングを始めたんです。ジョシュア・ツリー(*1)に通ったりして。でも、ボルダリングってやっぱり身体痛めるじゃないですか。
土屋 故障との戦いだよね。
勝俣 指と肘を痛めて。で、つまんないし身体鈍るのもいやだからハイキングに行こうと。『San Francisco Bay Area Hiking Guide』みたいなガイドブックを買って、コース1から毎週末に全部歩いてみることにしたの。最初は日帰りのハイキングって、得られるものが少ない気がして、あまり乗り気じゃなかったけど。
土屋 ぶっちゃけ最初は日帰りなんてちょっとバカにする気持ちってあるからね。
勝俣 ただ歩いてみたら楽しい。なにが楽しんだろうって考えてみると、ボルダリングってずっと集中しているじゃないですか。でもハイキングはぜんぜん集中していない。でも心がなんだか解放されるんだよね。ボルダリングは同じ岩に何度も挑戦してやっと登れたっていう達成感を味わうアクティビティだけど、ハイキングはおもに解放感のアクティビティだなって。
土屋 ボルダーやっててすっと登れるときって、禅的な感覚というか、陳腐な言い方かもしれないけど自分と岩が同一化する感じがあるよね。サーフィンもそれに近い感覚がある。自然を「味わう」とか「感動する」よりもっと踏み込んだ領域に入っていけたりすると、すっと岩の上に立ててるときってのがあるんだ。
勝俣 自分はボルダリングうまくなかったけど、下手なりにも登れるときもあるし、油断があったり甘えがあったりすると簡単なのに落ちるときもあるんですよね。そこで瞑想とかして……クライマーってよく瞑想するんですけど……心を落ち着けるとスッと登れたりする。自分が謙虚になると見えてくる、できることがあるっていうことをボルダリングから教わって、その姿勢であらためてハイキングしてみると、見えてくるものがたくさんあった。
土屋 ボルダリングとかサーフィンって自然と一体化する感覚を味わいやすいアクティビティで、かつ道具が少ないじゃない? ボルダリングってシューズとチョークだけだし、サーフィンは板だけ。その感覚でハイキングを見直したとき、俺には道具の少ないULがすごくスッと入ってきたんだよね。
■2005年のハイキング・カルチャー
勝俣 それで改めてバックパッキングを見直してみると、バックパッキングもそれに近いなと。頂上に登るためでなく、自然と結びつくために歩くっていう。それからバックパッキングでヨセミテやシェラ・ネヴァダを歩き始めたんだけど、最初はULを意識はしていなかった。僕はJMTを3年にわけてセクション・ハイクで歩いたんだけど、最初はシェルターがMSRのミッシング・リンク(*1)でザックがゴーライトのガスト(*2)だったんだ。
土屋 すでにULだと思うけど(笑)。
勝俣 でもそれからUL化を突き進んでいくにつれて、なんて重いものを持っていたんだろうって思ったけど。次の年の2回目はザックがゴーライトのブリーズでシェルターがインテグラル・デザインのシル・ポンチョ(*3)。3回目行ったときにはザックは140gのウィスパーでタープは持っていってたけどほとんどカウボーイ・キャンプ(*4)。だからどんどん軽くはなっているんだけど、最初歩いたときからそんなに重量は意識していなくて。
土屋 ただのバックパッキングよりULに自分の気持ちがいくようになったきっかけって何だったの?
勝俣 ちょうどアメリカのハイキング・カルチャーでも急速にUL化が進んでいた時期なんだよね。
土屋 そう考えると2000年前後にゴーライトや『Beyond Backpacking』(*5)が出てきたけれど、実際にアメリカでもULが急速に加速していくのは、やっぱり2005年くらいからなんだ。
勝俣 そうだね。Backpacking Light(*6)がちゃんと機能し始めてから。
土屋 『山より道具』(*7)もその時期からだしね。もしかしたらアメリカでも日本でも同じ2005年前後っていうのがULがいちばん発展していた時期だったのかもね。今日あらてめて思ったけど、アメリカの文化を見ているときって日本人の常として「日本は遅れてる」って思いがちなんだよね。。もうJMTのハイカーはULでしか歩いていないとか思っちゃってるわけですよ。もうアメリカではULは当たり前なんだ、みたいな(笑)。
勝俣 僕はJMTを2005~2007年に歩いているんですけれど、2006年に歩いたときに、2005年に会ったレンジャーにまた会って、僕のこと憶えていてくれたんですよ。「おまえは荷物がすごく小さかったから憶えてる」って。それだけ軽量な荷物で歩く人をレンジャーも知らなかった。2005年のハイキング・カルチャーってまだそんなくらい。
土屋 ウチの長谷川(晋氏。ハイカーズ・デポのスタッフでTRAILS刊『LONG DISTANCE HIKING』の著者)がパシフィック・クレスト・トレイル(PCT—*8)を歩いた2010年も、ULハイカーはぜんぜんいなかったっていうんだよね。ゼロじゃもちろんないんだけど。でも去年歩いたハイカーに聞くとすごく増えたっていっていて。だからそういうの聞くと日本とアメリカって同じような歩調だったんだなって改めて思うよね。当時は日本も早く追いつかなきゃって思っていたんだけど。
勝俣 ULザックを使ってスルーハイクすることって珍しいことだったんだよ。だからウィスパーでJMTを歩いたときもグレン(*9)からよくそれで歩いたなって。グレンの発想ではウィークエンドのハイキングに使うものであって、2週間の荷物を持って歩くようには作っていないって。我々が日本でULで歩けるんだろうかって不安だったとき、アメリカ人も同じように疑問視はしていないけど不安視はしてたんだよね。
土屋 だからそれくらいアメリカでもULが浸透するのには時間がかかったんだよね。いま考えると2008年に俺がJMTをULでスルーハイクしたのだって、すごく早かったんだよ。たぶんアメリカの状況をリアルに理解していなかったからそんなにゴリゴリな感じで行けたんだと思うけど(笑)。当時は「すさまじくULに振り切ったハイクをしないと日本は世界に追いつけない」くらいに思ってたもんね。べつに追いつく必要はないんだけどさ。
(*1)MSR ミッシング・リンク:タープ状のひさしのある非自立式シングルウォール・テント。約1.3kg。(*2)ゴーライト ガスト:62Lの容量のある初期ゴーライトでは最も大きなザック。約540g。(*3)インテグラル・デザイン シル・ポンチョ:タープとしても使用できるシルナイロン製ポンチョ。当時のULを代表するアイテムだった。約250g。(*4)カウボーイ・キャンプ:テントやタープを使わずに野宿すること。(*5)Beyond Backpacking:冒険家レイ・ジャーディンによるULハイキング/バックパッキングの方法論にフォーカスした世界で初めての本。その後のシーンの礎となった。(*6)Backpacking Light:ULハイキングの情報を発信するウェブサイト。ハイカーが集うフォーラム・ページも充実している。(*7)山より道具:寺澤英明氏によるULギア系ブログ。当時のシーンで絶大な影響力があった。(*8)パシフィック・クレスト・トレイル:メキシコ国境からカナダ国境までアメリカ西海岸の三州を縦断して伸びる超ロングトレイル。(*9)グレン:ゴッサマー・ギアの創設者グレン・ヴァン・ペスキ氏のこと。2010年に来日しハイカーズ・パーティで講演をしたり土屋さんを始めとする日本のULハイカーと共に奥秩父ハイキングを行った。
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