AMBASSADOR'S

土屋智哉のMeet The Hikers! ♯3(後編) – ゲスト:寺澤英明さん

2015.06.05
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取材:TRAILS 写真/構成:三田正明 写真提供:寺澤英明

日本UL史の奥の細道を行く土屋智哉さんの『Meet The Hikers!』。あの伝説的ブログ『山より道具』の寺澤英明さんを迎えた連載第3回の後編を公開します!

今回は毎回話題に上っている土屋さんの2008年JMTスルーハイキングの日本UL史における位置の話に始まり、ハイカーズデポにその後のシーンにおいて重要な役割を担う人々が梁山泊的に集まってきた時代の話、そしておふたりの著書『ウルトラライトハイキング』と『ウルトラライトハイキングギア』の裏話などなど、前編にも増して盛りだくさんな内容でお送りします!前編はこちら

対談はおふたりの地元・西荻窪のいきつけの沖縄料理屋さんで行われました。

■JMTを歩いた店主の店か、JMTを歩いていない店主の店か

寺澤 俺はJMT(ジョン・ミューア・トレイル)を2007年にセクションハイク(*1)したんですよ。その前にmixiで「ヨセミテ準備室」ってコミュニティを作って、そこにはべぇさん(勝俣隆さん)とか軍曹(前編参照)とか、あとJoxterさんっていうハンドルネームで呼んでいた友達がいたんだけど、彼らと歩いたの。行くと決めたのは5月とか6月くらいで、それから急速に準備して実際に歩いたのは7月。まあ、当時サンフランシスコに住んでいたべぇさんに全部かかりっきりで行ったんだけど。

土屋 俺はそれを見て、「もうこんなことやってる場合じゃないから店やめる!」って思ったんだ。

寺澤 それでヌラさん(土屋さん)が店の準備が始めるわけですよ。そしたら「店のオープン前にJMTを歩くかどうか悩んでいる」っていうのね。だから俺と軍曹でこういったの。「『JMTを歩いた店主の店』という看板を出すか、『JMTを歩いていない店主の店』という看板を出すか、どっちがいいんだよ?」って(笑)。

2007年、JMTを歩く寺澤さん(『山より道具』より)

土屋 最初にその話が出たときって、まだ物件が決まってなかったんですよ。ODボックスに退職願を出したのが2007年の暮れで、でも引き継ぎとかもあるからなかなか受理してもらえなくて、2008年の5月にようやく辞めて、平行して物件も探してたんだけどぜんぜん見つからなくて。

寺澤 俺と軍曹の思いとしては『JMTスルーハイカー(*2)の店』として出したほうがいいと思ったんだよね。それともうひとつあったのが、俺たちがJMT行った時点で、なんとかUL(ウルトラライト・ハイキング)で歩けるのはわかったと。だからヌラさんが行くときは、もうカリッカリの、当時最高に軽い装備で送り出したかったのね。「全部俺と軍曹が貸すから、世界で日本のULとして戦ってこい!」って。

土屋 厨二病だね~(笑)

ーー日本代表を送り出すみたいな(笑)。

寺澤 そうそう。まさに日本代表ですよ。

土屋 俺も一応道具は揃ってたんだけど「でもこっちのほうが軽いから!」って。

寺澤 俺と軍曹が許さなかったからね(笑)。

土屋 そういう話をしていたときに物件が決まっちゃったんですよ。これはもう、降りてきたというか(笑)。しかも5月に物件が決まって7~8月で自分たちで内装やって9月にオープンって決めてたから、6月が空いちゃったのね。「じゃ、もう行けるっしょ!」ってなって。で、べぇさんからどんどんメールで資料が送られてくるわけですよ。さらに荻窪の「かみや」って飲み屋で集まったときに、みんな道具を大量に持ってくるのね。「このザックを使えばいい」「これも使え」って。でも、あのとき実は実際に使ったのとは別の道具もアメリカまで持っていっていたんだよね。一応みんなの厚意は受けていくけど、ギリギリまで悩もうと思って。なかには使ったことのない道具もあったわけで。でもべぇさんちでパッキングするとき、「やっぱりみんながこれを渡してくれたからな」って思って、結局全部それにしたの。

ーーそれ悩むのも土屋さんぽいし結局それで行くのも土屋さんっぽいですね。
寺澤 あのときの装備表、俺のブログに載っているよ。

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2008年JMTスルーハイキング時の土屋さんの装備表(『山より道具』より)。土屋さんのJMT装備表はハイカーズデポのウェブサイトにより整理された表も掲載されています。

土屋 そのとき軍曹に「もし歩けなかったら店に『JMTセクションハイカーの店』ってスプレーで大書きしてやるから」っていわれて、「この野郎、絶対歩いてやる!」って思ったの憶えてる。(笑)

寺澤 たぶんまだJMTスルーハイクした日本人が10人いたかどうかっていう時代だよね。しかもULで歩いた人はまだいなかったはずだ。

土屋 こっちもそれまで培ったものを全部投げ打ってULの店出すわけじゃない。そのときいろんな営業担当さんに「お店辞めて何やるんですか?」ってきかれたとき、「ウルトラライト・ハイキングの店を…」っていうと、みんな「え!?」ってなってたもん。「それすごくいいですね」っていってくれたOD時代の営業担当さんはゼロ。「本当にそれでやっていけるの?」って感じだった。某メーカーさんの展示会に行ったときもそこの社長さんにこんこんと諭されたからね。けど、「いや、ウチはこれなんです」って。

寺澤 かぶとの契りの後ですからね。

土屋 だからアメリカまで行ったときはこっちとしても後に引けなくなってるよね。「これで歩けなかったらどうなるんだろう?」って、切羽詰まってる感はあった。やっていることはただのハイキングなんだけどね。でも、あの当時の自分としては人生賭けるみたいな思いがあって、実際問題あのときの装備がいちばん尖ってた。

寺澤 俺も軍曹もできるだけカリカリで送り出したかったからね。「1gでも軽いものを」って。

土屋 耐久性なんか誰も考えていなかったもんね。あのときはお酒も持っていかなかったもん。

寺澤 それで無事スルーハイク成功して帰ってきて、俺も「よし、土屋さんULの店出してよし!」って思ったからね。

土屋 どんなお墨付きだよ(笑)。

■日本のUL幼年期の終わり

寺澤 でもね、あれがひとつのピリオドだったと思うんですよ。それまでのULに焦がれて探求してきた時代があそこで一段落ついたかなって。

土屋 それはいえるかもね。でも、改めて考えると俺ってモルモットだったんだ(笑)。

寺澤 まさしくそうだよ。あれで日本人がULの装備でちゃんと歩けるんだってことを実証できたわけで。それまでは本当にこれで山行けるのかってこともわからなかったからさ。あそこでそれまでの切羽詰まって軽量化の追求していたのが一段落したんだよね。その頃からブログがきっかけで出会った人といわゆるオフ会的な形で会うことが加速度的に増えてきた。それがすごく面白くて、そのために続けなきゃってモチベーションに半分くらいなってきて、そこから後は惰性で続いてたっていうのかな。

土屋 たしかにあそこで「ULのためのUL」は一区切り着いた気がする。あのとき日本でULをやってた人たちの思いはひとつ形にできたと思うし。そのあとハイカーズデポがオープンしてそれまでの原理主義的に方法論を模索していたULから、もっと大きな「ハイキング」ってものにシフトしていったんじゃないかな。それはお店のスタンスだけじゃなくてまわりのユーザーさんも一緒だったと思う。ある意味あそこで区切りをつけたから、すごく日本のなかでのULの文脈が幅広くなったと思うんだ。

寺澤 うん、広がったとおもう。

土屋 たとえばキャンパーの人たちがオートキャンプのなかにULの道具を持ち込むとか、ULのなかのMYOGって部分にフォーカスする人たちが現れてきたりだとか。最近はPCTのスルーハイカーも多くなってきて、ULを生み出したロングディスタンス・トレイル(*3)への原点回帰的な部分も出てきたしね。それだけいまの日本の状況ってULのなかでも触れ幅ができていて、渓流釣りとか山スキーとか、日本のなかでずっと続いてきた文脈も包括できるようになってきた。これってもしかしたら日本ならではなのかなって思わなくもない。だからテラさんが最近ブログ書かないっていうのも、そのピリオドがあそこであったからなのかもね。でも、それは俺が打ったんじゃなくて、ある意味テラさんが俺をモルモットみたいに使って一緒に区切りを打ったんだよ。

寺澤 最初はブログ繋がりで出会ったけど、面白い出会いではあったよね。よくこの店でふたりで泣いたよね。わーっと話して、最後は結局ULを日本でどう根付かせていったらいいんだって(笑)。

土屋 話聞くだけで厨二病だよね(笑)。

寺澤 この店の外の席でふたりで泣いているっていう(笑)。で、俺はそのころから渓流釣りを始めたんだ。当時BPLのフォーラムでアメリカの連中が「テンカラ(*4)はULだ」って盛り上がっているのを見て、それをローカスギアの吉田丈太郎さんと話したらテンカラの釣り竿を1980円で買ったっていうから「じゃあ俺も買う!」って。それで最初丈太郎さんと行ったんだけど、ぜんぜん連れなくてさ。そしたらヌラさんがこのあたりで飲んでいたら隣の人と仲良くなって、その人が『別冊つり人 渓流』っていう雑誌の編集者だったの。それで「今度誌面でULの道具を紹介してください」って話になって、でもそのときはまだヌラさんは一匹も釣れてないときだったんで、「ヘルプに来て」っていわれて。それで俺も軽い道具を山のように担いで行って、ロケやって山で泊まって、その次から俺のほうが「ULの道具で釣りやってる変なおっちゃん」みたいな感じで『渓流』に出るようになった。釣り方面でもそういう流れが出てきたし、UL方面の人もその頃から走ったり、カヤックやったり、岩登り始めたり、いろんな広がりが出てきて。それまでみんな「道具道具道具!」っていってたのが、2008年あたりからぱーっといろんなとこ散って、そこでやりたいことのための方法論としてULを使うっていう流れがその頃から見えてきたよね。

土屋 だからそれまではULとしても準備期間だったのかもね。そのあたりで臨床実験が終わって、「じゃあこの方法論でいろんなことをやってみようよ」って。

寺澤 あとイギリスにもULのサイトがあるんだけど、そこの連中が「日本にもこんなサイトがある」って感じで、俺のことを書いていたんですよ。そのなかで彼らが”It seems we’re not alone”と書いていたんですね。ULってのはカリフォルニアみたいに乾いた土地の方法論のように思われていたけど、イギリスも日本と同様、雨の多い土地じゃないですか。そういうところでもULにトライする人たちがいるってことがわかって、すごく広がりを感じはじめたのもそのあたり。

渓流釣りを楽しむ寺澤さん(『山より道具』より)

■スタッフ全員がスルーハイカーの店

ーー話はちょっと戻るんですけど、さっきの「『JMTをスルーハイクした人の店』っていえるのといえないの、どっちがいいんだ?」っていう話って、考えたらいまだにハイカーズデポっていうお店のアイデンティティになってますよね。

土屋 そうだね。だからそれはありがたかった思う。まずオープン当初の俺一人でやっていたときは「ウチにはJMTの情報があります」っていうことがひとつのウリで、それで舟田靖章君(日本初のトリプルクラウンハイカー。TRAILSでもTRAIL TALKでロングインタビューを行っているので参照のこと)なんかも訪ねてきてくれたしね。長谷川が入ったあとはPCT(パシフィック・クレスト・トレイル)の情報も教えられるようになったし、その後入ったニノ(二宮勇太郎さん)にしてもいまイベントとかに出てもらっているべぇさんにしても、一回のハイクで歩いてた距離に関していったならば俺がスタッフの中でいちばんおミソだしね(編注;長谷川さん、二宮さんはPCTスルーハイカー。べぇさんこと勝俣さんはアパラチアン・トレイルのスルーハイカー)。それがモノを売るだけじゃなくカルチャーを伝えるっていう部分の大きな柱になっているのは間違いない。国内海外含めてULやロングディスタンスを歩いた実践例、経験と知識に関しては世界中のどの店よりも間違いなくウチがあるはずだし、世界的に見てもウチはオンリーワンの専門店だって自負はある。

ーースタッフ全員がスルーハイカーの店なんて他にないですよ。

寺澤 仕事やめてスルーハイクして、帰ってきたらリハビリに土屋さんとこで働けばいいんだよ(笑)。

土屋 ウチにそんな金はないよ~(笑)。

ーースルーハイカーの駆け込み寺にはなりたくないと(笑)。

土屋 でも結果としてそうなっているのはテラさんや軍曹たちのせいだからね!

ーー土屋さんって大学探検部出身でその後ケイビング(洞窟探検)にどっぷり浸かり、ODボックスに入ってからはクライミングなどに傾倒しつつもお店でも責任あるポジションに立たれて、ある意味アウトドアの世界のど真ん中を歩いてきた人ですよね。でもそういう人が作ったお店がメーカーの人だったりお店の人だったり、もしくはプロのクライマーだったりメディアの人だったりっていう、いわゆる業界の人じゃなく、寺澤さんや軍曹さんみたいな業界外の素人の方の影響がすごく大きいっていうのが面白いですね。そのへんもすごくハイキング・カルチャー的というか。

内装工事中のハイカーズデポに佇む寺澤さん(『山より道具』より)

土屋 実際、店を初めて最初の2年間くらいはあえて直輸入品は扱わないで、日本で手に入るものでやっていこうって決めていたんで、正直、品揃え的には厳しかったのね。そしたらテラさんが私物を「ヤフオクで出すくらいならヌラさんの店に置くよ」っていってくれて。

寺澤 最初はみんなの委託品もけっこうあったよね。

土屋 店のオープン当初はそれですごく助かった。

寺澤 さっきいったみたいな業界の人たちが集まったら高いとこ登ってナンボだとかって話になっちゃうかもしれないし、たしかに我々ハイカーから見たらロングディスタンス・トレイルはエベレストに登る的な感じもあるけれど、かといってPCT歩いてないからダメとか、偉くないとか、そういう価値観は漂っていないよね。そういうところがギスギスしていなくて良いところだと思うんですよ。PCTなんて半年歩いたら社会生活を棒に振るってわかっているしね(笑)。ゴッサマーギアのグレンさん(グレン・ヴァン・ペスキ氏。ゴッサマーギア創業者)が来たときにみんなで奥秩父歩いたじゃないですか。あのときもグレンさんいっていたけど、「日本のハイカーはみんな喋りながら楽しそうに歩いていた」ってどこかに書いてたんだよね。

ーーグレンさんの来日はその後に開かれたハイカーズ・パーティ(*5)を含めてひとつのエポックでしたよね。けっこうあそこで出会った人も多いし。

寺澤 そうですね。だからいろんな人にも会えたし、気が済んだってのはあるよね。当時は俺も使える金もあったんで、べぇさんと「毎月1000ドルは買わないと今月はサボってるよね」なんて話してたけどね。

土屋 バカでしょ(笑)。

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2010年、来日したゴッサマーギアのグレン・ヴァン・ペスキさんと共に土屋さん、寺澤さんを始めローカスギアの吉田丈太郎さん、ムーンライトギアの千代田高史さん、ロータスの福地孝さん、Beyondxブログの吉富由純さんらが奥秩父主稜縦走路をハイキングした。左から4番目の背の高い男性がグレンさん(『山より道具』より)。

■UL梁山泊

寺澤 ちょっと買い物依存症になってたかもしれない。でも子供たちも上の学校上がって使える金も少なくなって、いまはすっかり治った。買わなくてもいられる。いまはメーカーも増えたから全部買ってはいられないし、種は蒔いたと思うしね。いろんな人がいて広がってるのを見るのが楽しいんで、いまは撒いた種を収穫させてもらってるみたいな感じだよね。いまは山やアウトドアへの入り口としてULから入る人も多いじゃないですか。

ーー現在はローカスギアで働いている尾崎光輝さん(TRAILSでは『第4回鎌倉ハイカーズミーティング報告』に登場している)なんかも「フレームの入ったザックを背負ったことがない」っていってましたからね。

土屋 彼はまだ深大寺に住んでたときにウチの店きて、ああいうキャラクターだから、出会ってすぐいきなりタメ口でさ(笑)。最初にゴーライトのジャム(バックパック)を買って、すぐ他にも何か買いたいっていうから、「ジャム一年間使ってからでないと売ってやんねえ」っていったのね。「山始めたばかりのときにザックなんて新しいの買わなくていいから、いまはとにかくこれで行け」って。そしたら彼も道具好きだから、自分でも作るようになって。

寺澤 彼はBPLのMYOGフォーラムでも注目を浴びてましたからね。

土屋 当時は面白かったよ。ハリヤマ・プロダクションの三浦卓也くん(TRAILSでは『第4回鎌倉ハイカーズミーティング報告』等に登場している)も奥多摩の山帰りにしょっちゅうウチ寄ってて、ザック作りたいっていうから「じゃあスピンネーカー(*6)ウチで余ってる生地あるからこれ売ってあげるよ」っていって、店にあるザックも採寸させてあげてさ。

ーー僕も他所でゴーライトのシャングリラ1(フロアレス・シェルター)買って張り方だけ聞きにいったことあります(笑)。

土屋 その頃のウチ、隣のショールームがなかったから廊下で立ててたよね(笑)。山と道の夏目彰さん(TRAILSでは『第4回鎌倉ハイカーズミーティング報告』等に登場している)なんかも店によく来てくれるようになって、あるとき「実は飲みたいんですけど」っていわれてさ。で、「実はいまこういう仕事をしているんですけれど、ULの文化にすごく興味があって」って話をするなかで、「実はバックパックを作ってそれで独立したい」っていわれて。個人的には「ええ~! まだ山始めたばかりなのにバックパック作るって!?」って思ったけど、それはいま考えたら俺の頭が固かっただけなんだよね。

寺澤 夏目さんはグレンさんのハイカーズ・パーティのとき、二次会か三次会まで着いてきたんだよね。それで最後は俺と夏目さんとビヨとかで朝の三時くらいまで飲んだんだけど、そのときも彼が「僕バックパックを作ってみたいんですよ」って話になって、話聞いてみるとちゃんと名の通った会社で仕事をしている人だから、正直やめた方がいいんじゃないかって思ってたの。でも彼はそのあと丸1年開発に費やしてザックを作って、山と道を立ち上げたんだよね。

2010年、奥秩父縦走時の福地さんとグレンさん(『山より道具』より)

土屋 ムーンライトギアの千代田高史くん(TRAILSでは『第4回鎌倉ハイカーズミーティング報告』等に登場している)もそうだよね。「話があるんですけれど、実は店をやりたいんです」っていわれて、「おまえは俺にケンカ売ってるのかコラッ!」って思ったけど(笑)。

寺澤 俺も当時タープをチヨちゃんに売ったことあるよ。ブログ見て連絡してきて、「タープ譲ってほしいんですけど」っていわれてさ。当時彼、神田あたりで働いていたんで、さかいやスポーツのある神保町の交差点で待ち合わせて受け渡してね。「変なヤツだな~」って思ったけど、まさかその後店やるとは思わなかった(笑)。とにかくいろんなヤツがいて面白かったよね。

土屋 さっき「ULはパンクだ」って話で出てきたワンダーラスト・イクイップメントの粟津くんとかも、当時ブログで山小屋廃止論とか唱えててね。そういうこと歯に衣着せずいえる人ってなかなかいないから、過激だけど面白いなって思ってたの。そしたら店に来てくれたときに、リッジレストを切っていくつかのパーツに分解したやつをワイアーで繫いですごく小さく畳めるのを見せてくれて、「わ、これバカだわ~」って(笑)。だから当時のMYOGってエマージェンシー・ブランケットでハンモック作ってみるとか、バカなアイデアなんだけどとにかくがむしゃらに何か作ってみたっていうのがあって面白かったよね。最近のは縫製がきれいだったりデザインが格好よいものは多いんだけど、どこかで見たことあるようなものが多いんだ。

寺澤 そう、それです。誰かの模倣で作ったなら、それをどっか表に出すときはどこにインスパイアされたかははっきり書くべきだよね。「いかにも自分がゼロから考えてやりました」っていうのはいかがなと思うよ。

土屋 あの頃はもうSNSはあったけれどコミュニティーがまだなかったから、ハイカーズ・パーティも来ればテラさんに会えたりして、ひとつの情報交換の場になっていた。いまはウチの店以外にもそういうコミュニティがいくつもできて、自分たちで情報発信するようになっているけどね。

寺澤 俺は割と最初の方にUL始めてうまくそこにはまることができたんで、いま話にでてきた人たちとも最初の頃から知り合うことができたのね。その人たちがそれこそ店やめて仕事やめて自分で何かやりだす、そのリアルタイムに立ち会えている。俺はもともとIT屋さんでずっと籠りっきりでコンピューターをやっていたんだけど、ブログに人がいっぱい集まってきてくれて、それを励みに頑張って書き、実際人とも会うようになり、そういう人にいったいどういう影響を与えてしまったのか俺自身にはわからないけれど、みんな俺のことは知ってくれていて。仕事もほっぽりだしたし金も時間も使ったけれど、いまの俺のいちばんの財産っていったらそれなんだよね。すごく運のいいときにいい場所にいることができた。

土屋 いまテラさんがいったように、今回この『Meet The Hikers!』っていう連載でやっているなかで、やっぱそのとき彼らに出会えたのは嬉しかったし、テラさんはいま歩くことより釣りのほうにフォーカスしているけど…

寺澤 いや、釣りも歩くんですよ!

土屋 まあそれは置いといて(笑)、まぎれもなくあの当時のテラさんはハイカーだったんだよね。そういうハイカーたちにULを介して出会うことができた。ほんとにハイカーにMeetできたっていうのはすごく良かった。こういう出会いはあのときだったからあったともいえるけど、逆にいまの人にはいまの出会い方が絶対あるから、それを繫ぎ合わせるものとしてULとかハイキングがあるといいよね。

寺澤 俺はいまは釣りを主にやってるけど歩いてもいて…

土屋 そこはべつに言い訳しなくていいから(笑)。テラさんがいまでもハイカーなのはわかってるよ。

(*1)セクションハイク:踏破に数週間〜数ヶ月かかるロングディスタンス・トレイルの一部(セクション)を歩くこと。

(*2)スルーハイカー:踏破に数週間〜数ヶ月かかるロングディスタンス・トレイルを一気踏破することをスルーハイク、そしてそれを目指す人をスルーハイカーという。

(*3)ULを生み出したロングディスタンス・トレイル:ULはそもそもロングディスタンス・トレイルを歩くスルーハイカーの中から徐々に生み出されていったハイキング・スタイルだということ。

(*4)テンカラ:竿と糸と毛針のみを使用する日本の伝統的釣り法。道具がシンプルで軽量なためアメリカのULシーンでも注目されている。パタゴニア創始者イヴォン・シェイナードも熱心なテンカラ・フィッシャー。

(*5)ハイカーズ・パーティ:ハイカーズデポが不定期で開催しているイベント。もっぱら三鷹のハイファミリアというカフェで、スライドショーや報告会の形式で行われている。

(*6)スピンネーカー:もともとヨットの帆に使用するために作られた軽量な生地で、UL系アウトドア・ギアの素材としても多用されている。

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土屋智哉

土屋智哉

1971年、埼玉県生まれ。東京は三鷹にあるウルトラライト・ハイキングをテーマにしたショップ、ハイカーズデポのオーナー。古書店で手にした『バックパッキング入門』に魅了され、大学探検部で山を始め、のちに洞窟探検に没頭する。アウトドアショップバイヤー時代にアメリカでウルトラライト・ハイキングに出会い、自らの原点でもある「山歩き」のすばらしさを再発見。2008年、ジョン・ミューア・トレイルをスルーハイクしたのち、幼少期を過ごした三鷹にハイカーズデポをオープンした。現在は、自ら経営するショップではもちろん、雑誌、ウェブなど様々なメディアで、ハイキングの楽しみ方やカルチャーを発信している。 著書に 『ウルトラライトハイキング』(山と渓谷社)がある。

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