フォロワーゼロのつぶやき 中島悠二 #23 山の記憶
<フォロワーゼロのつぶやき> 中島君(写真家)による、山や旅にまつわる写真と、その記録の断面を描いたエッセイ。SNSでフォロワーゼロのユーザーがポストしている投稿のような、誰でもない誰かの視点、しかし間違いなくそこに主体が存在していることを示す記録。それがTRAILSが中島君の写真に出会ったときの印象だった。そんな印象をモチーフに綴られる中島君の連載。
#23「山の記憶」
40を手前にして福島県の楢葉町に移住した。引っ越しを手伝ってくれた同じ歳の友人が、これまで早かった「あっという間だった」といった。
感嘆なのだと、それはわかる。節目を前に、遠くから過去を一望してみれば、たしかに早かった。早かったと誰もが言う。早かったと感じるように人間はなっているらしい。「長かった」じゃなくていいからせめて「ちょうどよかった」くらいは感じたいが、そうなはっていないようだ。
だとしたところで〈あ〉はどうか。慣用句だからと大目にみていいのか。抵抗したい。自分が生きた時間は〈あ〉ではなかった。いろいろあった。過去にもっと眼を近づけてみると、だいぶ長く生きた。すっかりガラクタの城ができあがっている。たまにそのいくつかを拾い上げて組み合わせてみて、こうして文章ができてくる。
無駄なあがきかもしれない。
僕は思い出したい。なにを。なんでもいい。もっぱら問題は過去であって、いっぽう未来は、リードを離した犬みたいに、勝手にしろ。
思い出すためならいくら時間をなげうってでもいい。本、映画、音楽の中を、探しまわっている。山もトレイルも、実は大きな記憶装置なんだと、最近考えるようになった。
山に入る、あるいはトレイルに入ると毎回〈帰ってきた〉と思う。土の感触を足の裏が感じる。枝をふんで、パキっと折れる音がした。何がきっかけになるだろう?
その瞬間、スイッチが入ったみたいに体中の記憶がいっせいに騒ぎだして、鼻先にわーっと集中してくる。なつかしさで身体がじーんとする。
普段はわすれているから気づかない。閉じていた穴がひらく。〈あ〉から記憶が、じかに触れている感じ。
それどころか〈あ〉は自分の輪郭を超えて〈山〉の大きな記憶につながっている。知らないだれか、死んだ人、人間以前。樹木や石、沢を流れる水、太陽の光、飛んでいる蠅も、古い時間を表現していて、めのまえでいきいきと、新鮮な〈過去〉だ。
そういう自分も、歩く足跡からすでに、〈過去〉の一部におさまっていく。
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