TRAILS環境LAB | 松並三男のSALMON RIVER #16 鮭川村での3年間の振り返り(後編)
構成:TRAILS 写真:松並三男
What’s TRAILS環境LAB? | TRAILSなりの環境保護、気候危機へのアクションをさまざまなカタチで発信していく記事シリーズ。“ 大自然という最高の遊び場の守り方 ” をテーマに、「STUDY (知る)」×「TRY (試す)」という2つの軸で、環境保護について自分たちができることを模索していく。
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『TRAILS環境LAB』の記事シリーズにおいてスタートした、松並三男 (まつなみ みつお) くんの連載レポートの第16回目 (後編)。松並くんは、現在の仕事の任期がこの3月でいったん終了となる。そこで鮭川村での3年間を振り返る記事を、前編で紹介した。
今まで松並くんの視点を通じて鮭川村を追いかけてきたが、今回の後編では、地元の人の視点から実態に迫ってみたい。
もともと鮭川村に住んでいる地元の人々は、鮭と環境に関する活動を、どのように捉えていたのだろうか。
後編記事では、この3年間、松並くんを陰 (かげ) で支えてきた鮭川村役場の西野桂一 (にしの けいいち) さんと、黒坂洋平 (くろさか ようへい) さんに、鮭川村で生まれ育った人としての目線で話を伺った。
鮭川村の人々にとっての鮭。
松並くんは、「鮭の存在そのものが環境の指標になる」と確信して、鮭と環境をテーマにした活動をするべく鮭川村に移住を決めた。
松並くんは鮭に魅力を感じ、大きな可能性を見出していたわけだが、一方で鮭川村の人々はどうだったのだろうか。地元の人にとって鮭とはどんな存在なのか。
鮭川村は、日本で唯一自治体名に「鮭」が入っている村だ。鮭が遡上する鮭漁の盛んな地域でもあることは、TRAILS編集部も松並くんを通じて知ったことのひとつ。当然、地元の人にとっては、鮭はなくてはならない存在だろうと考えていた。
1963年 (昭和38年) 生まれの西野さん、そして1988年 (昭和63年) 生まれの黒坂さん、生まれも育ちも鮭川村の二人にとっての鮭とは。
西野さん:「自然が豊かな村ですから、私も幼い頃は、朝から日が暮れるまで外遊びばかり。山で木登りをしたり、秘密基地をつくったり、川で釣りをしたり。そういうのが当たり前すぎたこともあってか、正直なところ、鮭川の鮭についてあらためて考えるようなことはなかったんです」
黒坂さん:「鮭川の鮭を見たことがありませんでした。秋から冬にかけて、大きな魚が泳いでいるなぁと思うくらいで、鮭だとは思っていませんでした」
驚きだった。意外にも、鮭川村で生まれ育った人でも鮭を強く意識する機会は少なかったようだ。
西野さん:「鮭川村では、遡上してくる鮭を『よう』と呼んでおり、今のように養殖鮭がでまわる前は高級なものという印象でした。内陸ということもあって、昔は魚自体がとても貴重だったのです。食べるとしても、お正月とか、お祭りとか、そういった特別な時くらいでした」
とはいえ、鮭川村の鮭の食文化の歴史は古い。縄文時代から厳しい冬を支える貴重なタンパク源として食されてきた。鮭川村の伝統保存食である「ようのじんぎり (鮭の新切り)」は、僕たちも試食したし、その価値も理解している。ただ、鮭川村の人々にとっては、郷土料理のひとつ、くらいの認識でしかなかったのかもしれない。
しかし、そんな鮭の価値に着目したことが、鮭川村にとっての大きなターニングポイントとなる。
鮭川村の人口は、40年後には現在の半分以下になる予測。この解決策のアイディアが「鮭」だった。
調べてみると、鮭川村の基幹産業は、農業であり、「きのこ王国」とも呼ばれるほど。地元の人にとっても、鮭よりもキノコや山菜のほうが身近であるようだ。ではなぜ、鮭に着目することになったのか。
西野さん:「鮭川村の人口は、約40年前、私が小学生の頃は7,000人、現在が3,000人台、さらに40年後は1,500人を下回るという推計です。今まで先輩方が基幹産業である農業のさまざまな施策を実施してきました。それでもこの現状なので、新しいことをやらなくてはと思いました。
また、地方移住のイベントに参加した際に、有名な地域にばかり人が押し寄せ、私たちのブースにはぜんぜん人が集まらなくて。それで、鮭川村独自の価値を見出さなければという思いを強く抱きました。ちょうど孵化 (ふか) 事業の高齢化も課題になっていたこともあり、鮭川村から鮭がいなくなったらまずい! そう思って、鮭に目をつけました」
黒坂さん:「鮭川村には、昔から鮭の文化は存在していました。それがこの村の特徴のひとつであることは私も理解はしていたので、これは強みになるのかもしれないなと」
松並くんが応募した、鮭川村の地域おこし協力隊の募集要項のテーマは、「鮭の利活用」だった。その背景としては、年配の鮭漁師の方々が、長年にわたり伝承し、つないできてくれた文化、そしてその価値をいかにして残していくか、という課題意識があった。
そこに興味を抱いたのが、松並くんだった。そして彼は、鮭の文化や価値だけにとどまらず、環境問題ともリンクさせたアクションを起こしていった。実はその松並くんのテーマ設定が、思わぬ波及効果、副産物を生み出すことにもなる。
松並くんという「よそもの」によって、鮭川村の鮭の価値を再発見することができた。
松並くんが、鮭と環境というテーマで活動しはじめたことにより、西野さんと黒坂さんも、鮭川村の鮭の存在意義や、これまで当たり前だと思っていた自然の価値に、あらためて気づかされたという。
西野さん:「松並さんが来てもう3年が経とうとしています。彼とはいろんなことを一緒にやったけれども、一番印象に残っているのは、鮭川の鮭を守るというスタンスです。いま話していても、当時のことを思い出して鳥肌が立ってきました。松並さんと会って、鮭を守っていくことの意味の深さを、すごく勉強させてもらいました」
松並くんは、たんに鮭を増やす、後継者を増やすというのではなく、鮭の魅力や価値を発信しながら、この鮭川村の豊かな自然を守っていくことを模索し続けてきたのだ。
黒坂さん:「鮭の人工孵化事業は、稚魚を育てて放流するやり方が当たり前だと思っていたんです。だから続ける上では、今の孵化施設の規模を拡大するか、効率化して増やすか、ばかり考えていました。もちろん、これはこれで大事なんですが、そこを松並さんは疑問に思い、鮭川村の自然環境の強みを活かした発眼卵放流もやり始めたのです」
よそから来た者が、いきなり従来とは異なることをやり始めたら、反発されるのは必至である。でも松並くんは、3年間かけて足しげく漁協に通い信頼関係を築いてきた。そして、これまでのやり方を尊重しつつ、鮭川の強みを生かした鮭の増やし方という、プラスアルファの提案をした。
同時に、鮭川の自然環境がどれだけ鮭にとって有益なのか、逆に、鮭がこれだけ遡上してくるということはどれほどこの自然環境に価値があるのか、それを松並くんは説き続けた。
黒坂さん:「松並さんのおかげで、鮭や鮭川の価値を再発見しました。鮭漁に関わっている年配の方々も、これまで以上に誇りを持って鮭を獲っていると思います。松並さんが価値を発信してくれたことで、みんな前向きになった気がします」
誇れるものは鮭だけではない。鮭川村ならではの自然の豊かさの価値にも気づくようになる。
松並くんは、鮭川村の人たちが当たり前すぎて気づいていないことに光を当て、価値を見出していった。
黒坂さん:「松並さんが移住してきたタイミングで、鮭川を一望できる場所に連れて行ったんです。私たちにとっては何の変哲もない日常の風景なのですが、彼が見た時、何でこんなすごいところが残ってるんだ!と驚いたんです。普通であれば、川があれだけ曲がっていたらもっと効率的に真っ直ぐにしたり、堤防をもっと作って災害がないようにするものだと。村が自然を残してきたことに感銘を受けたそうなのです」
川だけではない。鮭川村には、与蔵山 (よぞうさん・標高703m) という山がある。ここは地元の人にとっては身近な山で、豊かな自然があることは知られていた。ただ、松並くんは、ブナの原生林がこれだけ残っている場所は珍しく、フカフカの登山道が適度な起伏で続いているのは素晴らしいと感じ、トレイルランニングのコースとして利用したらどうかと提案した。
黒坂さん:「松並さんがきっかけで、10名程度のトレイルランニングのチームを結成したんです。それで私も走ってみたら、すごく楽しくて。トレイルラン未経験でしたが、それ以来、すっかりハマってしまいました」
西野さん:「もっというと、鮭川村に存在しているキノコの意味だったり、採れる野菜の意味だったり、そういうのを考えるようになりました。松並さんの『環境』というワードによって、この3年間ですごく勉強になりました。本当にありがたいことです」
これからも、鮭を守り、自然を守り、次の世代へと引き継いでいく。
西野さん、黒坂さんをはじめ、多くの地元の人が、松並くんが定住してくれることを望んでいる。しかし、3年間の任期を経て、松並くんは鮭川村を離れるという決断をした。
西野さん:「松並さんのおかげで、漁協のなかでも、若い人材の活動が活発化してきています。松並さんの意思を受け継いでやっている人もいるので、そこに期待しています。また、松並さんは今後も鮭川には関わってくれるので、場所は離れてもこれまで以上のお付き合いができればと思っています」
黒坂さん:「鮭川村の鮭を今後どうしていくか、という計画を作ろうという動きは前々からあるんです。それを進めていくつもりですが、方向性としては鮭川の文化、自然と一緒に鮭を守っていくこと、ですね。ただたんに増やせばいいのではなく、鮭川村にとってなにが重要なのか。そこを理解できたのは、松並さんのおかげです」
松並くんがやってきたことは、地元の人が引き継いでやっていくのだ。鮭漁師のなかで新しいチャレンジをしはじめた人や、事業化に向けて努力する役場の人々など、すでに後継者は現れている。
鮭川村の鮭と環境を守り、その価値を発信し続けていくために、なによりも大事なのは地元の人々である。TRAILSとしても、引き続きこれからの鮭川村にも注目していくし、関わっていくつもりだ。
TRAILS環境LABとして、TRAILS編集部が学んだことと、これからについて。
約2年にわたって『TRAILS環境LAB』の記事シリーズで松並くんの連載レポートをお届けしてきた。松並くんが鮭川村を離れるこのタイミングで、僕たちもあらためてこの連載を振り返ってみたい。
まずは、そもそも『TRAILS環境LAB』をなぜ立ち上げたのか。その背景のひとつが、TRAILSというメディアを立ち上げる際にも根底にあった下記スタンスである。
「トレイルで遊んだり旅したりする人が増えれば、おのずと自分たちの遊び場である自然への愛情が増し、環境保護に関心を持つ人も増えるだろう。それによって少なからず地球環境が良い方向にシフトするはずだ。つまり、大自然の中での遊びや旅の啓蒙こそがTRAILSらしい環境保護へのアクションである」
さらに、昨今の世界的な気候危機 (※) を目の当たりにし、もはや悠長なことは言ってられないと感じていた。そこで、僕たちなりの環境保護、気候危機へのアクションをさまざまなカタチで発信するべく、『TRAILS環境LAB』を立ち上げたのだ。
松並くんの約2年間にわたる連載レポートで、僕たちもさまざまなことを学んだ。
まず、鮭 (日本在来のシロザケ) が環境問題と密接に関わっていること。鮭は、川から海へと1万km近く回遊して、また生まれた川に戻る遡上魚であり、川と海の環境が健全でなければ存在できない魚である。
また、伝統保存食「ようのじんぎり (鮭の新切り)」においては、塩漬けして寒晒しにするという工程、この生活の知恵の合理性が科学的なエビデンスによって証明された。これは、梅干しや鮒寿司といった保存食と同様である。
松並くんは、3年間の試行錯誤を経て新天地へと移るが、今後も鮭川村と鮭には関わっていく。こと環境保護や気候危機へのアクションというのは、たった3年という短い期間で集大成となる成果が出るようなものではないのだ。連載でも紹介した発眼卵放流にしても、孵化した鮭が戻ってくるのは約4年後だ。その結果をもとに、また次のアクションが生まれるという長期的な連続性をいかに作り上げていくかが大事なのである。そういうスタンスの重要性をあらためて学ばせてもらった。
一方で、気候危機の現在において、悠長なことは言っていられない。そのためには、選択と集中が必要であり、TRAILSとしても、今後なににフォーカスしていくかという判断が求められるだろう。ここに関しては、『TRAILS環境LAB』を通じてアップデートしていくつもりだ。
TRAILSとしては、今後も鮭や鮭川のことを発信していきたいと考えています。もちろん、松並くんにも登場してもらう予定です。
松並くんは、鮭川村を離れても鮭川には関わり続けていくと明言してくれました。鮭漁のシーズンは毎年10月以降なので、その結果も踏まえて、12月もしくは1月あたりに、鮭にまつわる進捗や成果報告をしてもらうつもりです。それ以降も、毎年1回はレポートしていくので、今後も楽しみにしていてください。
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