フォロワーゼロのつぶやき 中島悠二 #24 白へ
<フォロワーゼロのつぶやき> 中島君(写真家)による、山や旅にまつわる写真と、その記録の断面を描いたエッセイ。SNSでフォロワーゼロのユーザーがポストしている投稿のような、誰でもない誰かの視点、しかし間違いなくそこに主体が存在していることを示す記録。それがTRAILSが中島君の写真に出会ったときの印象だった。そんな印象をモチーフに綴られる中島君の連載。
#24「白へ」
家から車で近所、富岡駅の裏にある砂浜におりていくと、枯れたすすきのあいだから浜の上に座礁した船が見えてくる。津波で離れたところから流れてきたらしい。近づくと思ったよりでかい、全体が錆びて茶色くなっている。鳥がたまにとまるくらいで、こないだは犬の散歩がよこをとおった。
何年もこのままでいて、いつまでそうしているのだろう、波が繰り返しよせるのを、拒むことなく受けいれるのみ。
船と書いたが、今はもう船ではなく、かつては船だった。どれだけ働いていたのか。疲れは隠せないが、いまは朗らかな、引退。
「おつかれさま」。
「……」。
目指す方向はなくなって、とりあえず砂の上に落ちついた、鉄のカタマリ。
社会から指をさされる、有用性や意味から解放されて、<元船>はとうとう特別な位置についた。透明といいたくなるような、存在感がきわだっている。
人も馬も渡らぬときの橋の景 まこと純粋に橋かかり居る (斉藤史)
こんな短歌を思いだした。
自分もこうなれたら。この身体の、せまいうつわをからにして、簡単な肉のまま浜辺にすわらせておきたい。植物のたたずまいを参考に、風にゆれたらきもちいい。
歩くことは、そのうちに自分の色が薄まってきて、白か、あるいは透明に近づいていくこと。何の役にもたたないで、走ったりして力をいれず。野良犬みたいに、空気をよまない。平然とひとびとの前をよこ切る能力。あらゆる境界線をこえていくのだ、いまなら誰とでもはなせるきがする、うなぎみたいにやわらかいから。
そうか、さっきの短歌は、歩く人だったのか。まるで歩いている人が、疲れてみちばたに腰をおろしたときに目にはいった光景。せわしない日常から脱落した、気の抜けた視線で世界をながめなければ、橋はそのようにみえてはこない。
「世界は徒歩で旅する人に開かれる」とはヘルツォーク。
橋が、自分は等価になる。
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