フライフィッシング雑記 田中啓一 #03 釣れない話
文・イラスト・写真:田中啓一
What’s 『フライフィッシング雑記』 | フライフィッシャーであり、ハイカーであり、ファッションデザイナーである田中啓一さんによる、フライフィッシングにまつわるエッセイ。フライフィッシングは美しく、格調高く、ワイルドで、創意工夫の奥深さがあり、TRAILS読者とは親和性の高い個性あふれる遊びだと思う。釣り人はもちろん、釣りをしたことがない人も、田中さんが綴る魅惑的な言葉に運ばれて、フライフィッシングの深淵なる世界へ旅だっていただきたい。
釣れない話
北海道は日本のフライフィッシャーにとっては特別な場所だと思う。
むかし「でっかいどお。北海道」という全日空のキャンペーンコピーがあったが、全体に山がちで、平地の少ない本州に比べ、北海道は実際の広さもさることながら、そこかしこに広がる平野のスコーンと抜けた景色は、まさにでっかく、異国的なスケール感である。
緯度が高いことから、水温が低くサケマス科の魚種が多く生息し、また陸封化 (※1) していない魚種も多いので、河口付近でもサケマス科の魚が釣れる。基本、鮭は内水面 (※2) では一般人は捕ることはできないが、遊魚対象魚は数多い。
また魚のサイズが概ね大きい。イトウやアメマスなどは1メートルを超えるものもいる。自然繁殖したニジマスも大型化する。北海道固有種のオショロコマというイワナの仲間も生息する。
そんな環境なので、冬の厳しさをものともせず北海道に移住するフライフィッシャーも少なくはない。かくいう私も、北海道の釣りでは良い思いをさせてもらったことがある。阿寒湖では6月になると、モンカゲロウの羽化が始まり、それを食いに出てきたアメマスが、大型のドライフライ (※3) にヒットする。
その時期を狙って、釣り仲間と遠征した時のことである。
ホテルなどが並ぶ南岸から、北岸に渡船で渡してもらい、岸から立ち込んでの釣りである。目前にまばらに生えるアシの向こうを注視していると、パタパタと白っぽい虫が水面から飛び立ち始める。そして時折ガボッとライズが起きる。
こうなると釣り師の脈拍は急に早くなる。この日のために巻いてきた大型のドライフライやフローティングニンフ (※4) を各々ティペット (※5) に結び、釣り開始だ。
するとあちこちで「フィッシュ!」と声が上がる。見るとダブルハンドのバンブーロッド (※6) が満月になっている。そしてついに私のフライも水しぶきと共に水中に引き込まれた。アワセ (※7) と共に強烈な引きが7番のシングルハンドロッドを引き絞る。しばらくのやりとりの後ネットに収まったアメマスは45センチほどもあった。
数尾釣り上げた後、ライズは続くものの、少しアタリが遠のいてきた。どうしたものかと思案した挙句、あることに気づいた。こんなに亜成虫 (※8) がハッチ (※9) しているのだから、水中には羽化しようと浮かび上がってくる幼虫はもっといるはずだ。それらはマスにとっては水面に羽化した亜成虫よりはるかに捕食しやすいに違いないと思ったのだ。
私はフローティングニンフの浮力を担っていたラビットシュー (※10) をギリギリまでカットして、ゆっくりと沈むように加工した。そしてライズのあった辺りにキャストした後、スラック (※11) を取る程度にラインを引き始めた。間もなくズン! という明確なアタリが手元に伝わった。それからはそれまでとは段違いの釣果に変わった。アメマスに混じってサクラマスも釣れるという贅沢な1日であった。
この日の羽化のピーク時には、微風に流されながら一斉に水面から斜めに上昇していく無数のモンカゲロウの様子が見られた。それはまるで桜吹雪を逆再生で見ているような圧巻の光景であった。そんな楽しい思い出もある北海道ではあるが、若い頃には苦い思いもさせられた。
20代後半か30代になりたての頃だったか、夏季休暇を利用して私は1人で北海道に遠征した。千歳空港に隣接したレンタカーショップで車を借りて、東京に住むニセコ出身の友人が子供の頃釣りをしていたという尻別川を目指した。とある喫茶店の主人がイトウ釣りの名人なので、彼に聞けば、イトウならずともアメマスやニジマスが釣れるポイントを教えてくれるはずだという。
電子メールもネットもない時代である。とりあえず訪ねて話を聞こうと思った。道路地図を頼りに店に辿り着き、自己紹介をすると、店主は「ナベの友達かい。遠くからよく来たな」と歓迎してくれた。
コーヒーを飲みながら早速、尻別川のポイントを尋ねた。「あの橋の上流のあのあたり」とか「この付近のカーブした淵が釣れる」などといくつかのアドバイスをくれた。
早速車を飛ばし、教えられたポイントに着いて愕然とした。どこに投げていいのか皆目見当がつかないのだ。普段釣りをしている本州の山岳渓流であれば、人に聞かずとも魚のいそうなポイントはたいていすぐに分かる。落ち込み、瀬尻、瀬わき、巻き返し、岩の際など、わかりやすいポイントが次々と現れる。
しかし尻別川の中流域のそこは、広く深く変化の無い流れだった。悠々と流れる大河の圧倒的な水量の前にただ立ち竦むしかなかった。気を取り直して、ライズも見当たらない水面にフライを落とすも、自信の無い釣りというものは気もそぞろになりがちなもの、何も起こらないまま時間だけが過ぎていった。
少しでも確信が持てそうな小規模な支流に逃げ込むもアタリなし。しかしこの支流は両岸にクレソンが生え、とても美しかった。まるでヨーロッパのスプリングクリーク (※12) のようだなと思いながら上流に釣り上がっていくと、まもなく小さな泉が現れた。この短い支流はこの泉から流れ出していたのだ。まさに本当にスプリングクリークだったわけだ。これで魚が釣れてくれれば最高だった。
そこからいくつかのポイントを探るも、釣れるのはウグイ (※13) ばかり。サイズがデカいのでそれなりに引きはするものの、わざわざ北海道にまできてウグイを釣っても虚しさは募るばかりだった。
そこから手当たり次第様々な川を渡り歩いた。千歳空港にほど近い勇払川の支流が良いと聞いて行ってみるも、藪だらけでフライを振るのにも苦労して早々に引き揚げた。
次々と移動してもマス類は全くの無反応。いささか疲れてロードサイドに車を停めて休んでいると、地元の釣り師に声をかけられ、しばし雑談。先ほど勇払川に行った話をすると、開口一番。
「勇払かい。俺は行かないな。あそこ熊出るからね」
喫茶店の主人には、宿も紹介してもらった。ニセコにあるペンションだ。近くには良い温泉もあり。また、オショロコマが釣れる川も近いと聞いた。宿は飯も美味く、疲れた体に染み渡る。
ホッと一息つけたところで、さて温泉である。宿にも風呂はあるが、評判の温泉と聞いては、わざわざでも出向かないわけにはいかない。建屋は程よく古めかしい佇まい。これは期待が高まる。ピカピカの外観よりこういった風情の方が泉質が良い気がするのはなぜだろう。
「男」と看板が出た脱衣所に入り木製の棚に置かれた籐籠に服を脱ぎ捨て、短い階段をトントンと下り、いざ内風呂へ。中は無人。客は私ひとりだ。
「広い湯船は独り占めだな。泳いじゃおうかな」とウキウキしながらシャンプーを済ませ、体を洗っていると。ドアが開く音がした。
先ほどから少し気にはなっていたのだが、私が出てきた脱衣所の隣にもう一つドアがあったのだ。開いたのはそちらだった。
そこに立っていたのはなんと、一糸纏わぬグラマラスな女性。歳の頃は40そこそこか。呆気にとられている私を見ても、眉一つ動かすことなく風呂場を見下ろすその姿は、まるでステージに現れたマドンナのようだった。
そして彼女は上も下も隠さずに堂々と階段を降りてきて、私に背を向ける格好で洗い場に陣取った。この温泉は、男女が分かれているのは脱衣所だけで、風呂場は一つだったのだ。つまり混浴。聞いてないよ、とはこのことだ。
普通に考えれば、より一層ウキウキ度が増すところだが、すっかり気圧されノックアウト状態の私は、そそくさと湯船につかり、早々に退散した。脱衣所で服を着ながら、なぜか私は「でっかいどお。北海道」と呟いていた。
次の日、オショロコマが釣れたのか釣れなかったのか、どうしたことか一切記憶に無い。
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