FISHING ESSAY

フライフィッシング雑記 田中啓一 #05 汝頭をハネるなかれ

2023.07.12
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文・イラスト:田中啓一

What’s 『フライフィッシング雑記』 | フライフィッシャーであり、ハイカーであり、ファッションデザイナーである田中啓一さんによる、フライフィッシングにまつわるエッセイ。フライフィッシングは美しく、格調高く、ワイルドで、創意工夫の奥深さがあり、TRAILS読者とは親和性の高い個性あふれる遊びだと思う。釣り人はもちろん、釣りをしたことがない人も、田中さんが綴る魅惑的な言葉に運ばれて、フライフィッシングの深淵なる世界へ旅だっていただきたい。

汝頭をハネるなかれ

コンプライアンスの時代である。昨今世の中に何かと細かいルールが増えたような気がする。ネットの匿名性からか、本当にどうでもいいことで必要以上に他人を批判する人も増えた。多くは純粋な心情からではなく、自身の快楽のためにやっているに過ぎない。

TRAILSの読者の方々なら、山のご意見番のような人がいることはご存知だろう。SNSの登山のグループなどでもベテランと思しき方々が熱く語っているのを見聞きしすることも多いと思う。もちろん、遭難防止や環境保全のためにはこのような方々の意見は貴重である。にわか登山者にとっては良い先生にもなる。

しかし、中には独自のマイルールを他人に押し付けるような投稿があるのも事実。「野糞をするな」など、その典型だ。登る前にできれば済ませておくことは必要ではあるが「出物腫れ物所構わず」の諺の通り、人間にはコントロール不可能な生理現象が存在することを御存知ないかのようなご意見だ。もしかしたら、その方は鋼鉄の括約筋をお持ちなのかもしれないが。

またこういうのもあった。「三角点に足を載せるな」というものだ。登頂の記念に山頂に設置された三角点に片足を置いて投稿した他愛もない写真に対するご厳しいご意見である。その理由がふるっている。曰く「先人が重労働の末にここまで担ぎ上げて設置した三角点を足蹴にするとは何事か!」というものだ。三角点が、まるで地蔵や墓石でもあるかのような精神論である。

釣りにおいては、ここまで勘違いな話を聞いたことは無いが、一般人にはちょっと理解されにくいルールがあるにはある。みなさんよくご存知の、キャッチ・アンド・リリースもその一つだ。

元は欧米由来の、釣りのルール、もしくは自主的な行為だが、日本でこれを言い出したのはおそらくフライフィッシャーだろう。 そもそも釣りは、その日の獲物を晩飯の食卓に供することまでが一つのサイクルであった。昔の釣り師は、家族の手前、ボウズで帰宅すること に耐えかねて魚屋で買って帰る御仁もいたほどだ。欧米由来のスポーツフィッシングはそこを切り離したのだった。

しかし、このルールも彼の国々の「普通の釣り師」にも理解が行き届いているとは言えないようで、先日これをネタにした海外のおもしろ動画がYouTubeに上がっていた。とあるフライフィッシングのワークショップにて、滔々と流れる川をバックにインストラクターが、生徒である3人の餌釣り師のオッサンの前で説明を始める。

先生「フライフィッシングで大切なのは、キャッチ・アンド・リリースなんだ」
生徒A「ちょっと何言ってるのかわからない」
先生「オーケー。君たちが混乱するのも無理はない。いいか? 魚を釣るだろ。そして、それを手放すんだよ」
生徒B「クーラーの中に?」
生徒A「ストリンガー (※1) にか?」
先生「ちがうちがう、魚からフライをそっと外して、素早く記念写真を撮って、魚を流れに戻すんだ」
生徒C「じゃあどうやって食べるんだ?」
先生「いや、食べない。魚を取らなければ、また来週来た時に楽しめるし、他の誰かを楽しませるかもしれないだろう?」
生徒A「一度釣った魚を、繰り返し何度も釣るのか?」
先生「……まあ、そういうことだ」
生徒C「あなたは魚を拷問して楽しんでるのか?!」

一部を要約するとこんな感じで、以下しばらく、全く噛み合わない会話が続くのだが、フライフィッシングをやったことのある人なら、苦笑いがこぼれる内容だった。

キャッチ・アンド・リリースはもちろん資源保護のためには推奨される行為ではあるが、個人的には他人にまでそれを求めようとは全く思っていない。もちろん無闇な乱獲は許せない。近所に配るのだと自慢げにヤマメで満杯のビクの中を見せる釣り師に会って腹が立ったこともある。とは言え、キャッチ・アンド・リリース原理主義にはある種の危うさを感じる。

私自身はどうかというと、釣った魚はほとんど流れに戻す。一番の理由はマス類を食うことに執着がないからだ。個人的にはハゼやアジなど海魚の方が好きだ。またビクやクーラーは渓流の遡行の邪魔になる。一日中川を彷徨って疲労困憊で帰宅した後に魚の処理をするのが億劫というのもある。それでもたまには涼しい季節には持ち帰って食べもする。先日釣り友達からマスの干物が旨いと聞いたので、少し興味が湧いた。まあ、そんな感じでいい加減なものである。

それからバーブレスフック (※2) をやたらに推奨するのもフライフィッシングの特徴だ。理由は、魚を極力傷つけないためである。リリースするならなるべく無傷で、という理由は理解できるのだが、やはりカエシの無い鉤はバレやすい。それはお前が下手くそだからだという意見は甘んじて受けるが、バーブレスを声高に主張されると、そんなに魚を大切に思うなら、そもそも釣りなんかやらなきゃいいじゃないかと返したくもなる。

釣りは殺生だ。キャッチ・アンド・リリースをしようと、川の環境保全に邁進しようと、釣りをする限りは殺生であることには変わりない。釣りは人間側の一方的な遊びであって、釣られる側にとっては正に命がけの瞬間だからだ。その気がなくても釣鉤でエラをひどく傷つけ殺してしまうことすらある。

つまり、釣りという行為は、常に自身の快楽と食欲と罪の意識の間にあるということだ。それら全てを引き受けてもなお辞められないのが釣りという趣味の魔力だと私は思う。
とはいえ、深く考えずにただ楽しむ人がいても、それはそれでいい。釣りはすべての人に開かれている。しかし私自身は、釣りに無常の喜びをもたらされたと同時に、自身のエゴと残酷さも痛感させられたというだけの話だ。

残酷といえば、もしかしたら、ある日あなたが渓流で流れに入ろうとした時に「おい、オマエ、なにヒトの頭ハネてんだよ!」と、すぐ下流に立つ釣り師のオッサンに恫喝されることがあるかもしれない。しかしそれはたいていの場合、あなたが悪い。その人は別にあなたを山奥に現れた猟奇殺人鬼だと言っているわけではない。

渓流釣りは、上流に釣り上がるのが基本だ。「頭をハネる」とは、先行者の上流に入渓することで、厳に戒めなけなければならない行為なのだ。これを言われて「どこを釣ろうが自由でしょ! その言い方、コンプライアンス的にどうなんすか!」などと反論してはいけない。

狭い渓流でこれをやられたら、その日の釣りはたいていお終いになる。頭ハネ禁止は、数少ない渓流釣りの暗黙のルールの一つなのだ。そんな時は、キロメートル単位で十分な距離を取るか、もしくは大人しく他の沢に行くのが得策だ。
もし移動した先で、後から来た釣り師がすぐ上流に入ってきたら、フライフィッシャーのあなたなら「すみませんが、頭をハネないでいただけますか」とジェントルにお願いしよう。


撮影:浅野眞一郎

※1 ストリンガー:釣った魚の鮮度を保つために、生かしておくための道具。鎖やロープなどに、複数のフックが付いていて、それを釣り上げた魚の鰓蓋から口に通して、水中に入れておく。

※2 バーブレスフック:釣り鉤 (フック) には、刺さった鉤が簡単に抜けないように、鉤先の少し下にカエシ (バーブ) がついている。その返しが無い鉤をバーブレスフックという。

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田中啓一

田中啓一

東京生まれ。ファッションデザイナー、大学非常勤講師。入間川や相模川のオイカワ釣りで釣りに目覚め、10代後半でルアーフィッシングと出会い、ほどなくフライフィッシングにはまる。日光の湯川をはじめ、国内の渓流や湖にヤマメ、イワナ、各種鱒 (トラウト) を追い求める。ニュージーランド、パタゴニアなど、海外での釣行の旅もしている。シーバス、タナゴ、マブナ、クロダイ、ハゼなど、幅広く釣りを楽しむ。2000年代よりULギアに関心を持ち、MYOGで釣り用のシャツやパンツ、アルコールストーブ、ペグケースなどの自作も嗜む。ULギアは、主に釣り泊の道具として使用している。

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