FISHING ESSAY

フライフィッシング雑記 田中啓一 #06 夢と現実

2023.08.16
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文・イラスト:田中啓一

What’s 『フライフィッシング雑記』 | フライフィッシャーであり、ハイカーであり、ファッションデザイナーである田中啓一さんによる、フライフィッシングにまつわるエッセイ。フライフィッシングは美しく、格調高く、ワイルドで、創意工夫の奥深さがあり、TRAILS読者とは親和性の高い個性あふれる遊びだと思う。釣り人はもちろん、釣りをしたことがない人も、田中さんが綴る魅惑的な言葉に運ばれて、フライフィッシングの深淵なる世界へ旅だっていただきたい。

夢と現実

釣りをテーマにした動画コンテンツを観ていると、たまに泣いている場面に遭遇する。たいてい女性アングラーで、思わぬ大物が釣れた、釣れない時期が長かったが、いきなり大物が釣れた、競技に参加して会心の釣りができた、全く釣れずに悔しい等、理由は様々であるが、魚が釣れても釣れなくても泣くのだ。
私にはこの気持ちがわかるようでわからない。私自身がどんな大物が釣れても泣くほど感動したことがないからである。

では私が無感動な人間かと言えば、そうではない。
私が住んでいた地域では近隣の小学校数校で合同運動会というものが開催されていた。主に高学年の生徒が中心になって競技ごとに選抜チームが組まれるのである。私は徒競走の出場者に選抜された。近くの高校のグラウンドを借りて放課後に特訓が始まった。我が校は何年も歴代一位を続けていて、先生も連勝に向けて相当力が入っていた。
徒競走は小学生なので体格差を考慮して、背の低い順で出走することになっていた。 私はメンバーの中で一番背が低かったので、先鋒を務めることになった。先生は「お前が一等にならなかったら、後に続く生徒の士気に関わる。絶対一等を取れ」という意味のことを言った。先生は励ましたつもりだったのだろうが、私にとっては大きなプレッシャーにしかならなかった。

そして本番を迎え、ドキドキのスタートである。パーンと号砲が鳴り必死で走った。どう走ったかは全く覚えていない。しかしなぜかゴールした瞬間は一位だったことを確信していた。そのままゴールの先で待つ担任のもとに走り寄った時、自然に涙が溢れていた。
正直、泣いてしまったことが恥ずかしくて恥ずかしくて仕方がなかった。後日、卒業間近に出された課題「小学校の思い出」がテーマの作文でも、合同運動会のことはあえてサラッと書いた。案の定、先生に感動して泣いたことも書けと言われ、書き直す羽目になった。

そんなまあまあ普通の感覚を持つ私がなぜ、大物を釣り上げても泣けないのか。駆けっこより釣りの方が100倍好きなのにもかかわらず。もちろん女性と男性の違いもあるだろう。女性は何かと涙脆いものである。しかしそれだけではないだろう。
私が思うに、同じ人間を相手にした競技では、お互いハンデなしのガチンコ勝負だ。故に成果は自分自身に帰結する。勝った選手は皆「コーチや応援してくれた皆さんのおかげです」と口では言っているが、内心は「今は俺が最強」と思っているに違いない。また事実だからそれでいいのだ。そんなスポーツ競技では、だからこそ男女関係なく号泣もするわけだ。

しかし、釣りはどうだ。相手は魚だ。フライフィッシングがいくら人間がハンデを背負った釣りだと紳士ぶっても、所詮人間と魚の間には、なお大きなハンデが存在する。しかも相手にとっては勝負どころか、単に本能に従って口を使った挙句の災難でしかない。
釣果というのは、自分の技量が半分、またはそれ以下、あとは魚がたまたまそこにいて、騙されてくれた偶然が半分なのだ。
詐欺師がうまく老人を騙せたと感動して泣くだろうか。

私自身が大物を釣っても泣くほど感動できないのは、おそらくそんな理由によるのだと思っている。
娯楽の楽しみは、なにも涙の数で決まるわけではないので、これはこれで全く構わないのだが。

泣くほど感動したことはないが、釣りの場面で震えたことはある。若い頃、とある国内の高原をゆったりと流れる川に釣りに行った。草原に長く伸びる道のアプローチの末にたどり着いたその川の様子が、本などで垣間見たイギリスのスプリングクリーク (※1) にそっくりだった。川に静かに立ち込むと、すぐ上流の倒木の脇で鱒がライズした。

すぐさまドライフライ (※2) をキャストしようとしたのだが、その時、手がプルプルと震えているのを自覚した。数十年経った今でも、その時の映像と手の感覚が蘇ってくる。
それは私がフライフィッシングをする上で理想としていた場面に遭遇した故の震えだったと思っている。

身体ではなく心が震えた経験もある。それは南米パタゴニアの最先端のフェゴ島での出来事だ。
釣り終わってキャンプ地で夕飯を食っている時に、ふと顔をあげると眼前に果てなく広がる大草原の上に月がポッカリと浮かんでいた。
たったそれだけの景色だったが、私は箸を止め、立ち上がってしばらくその場に佇んだほどだった。
月の光だけでうっすらと輝く雲と真っ平らな大地。
何も無いが壮大なシンフォニーのような豊かさがそこにあった。

釣りという趣味は、稀にこのような忘れられない体験をもたらしてくれる。
しかし、様々な事情で釣りに行けない時期が続くこともある。
そんな時は釣りの夢をよく見る。釣りに行くのに釣り道具を全て忘れた夢や、目の前を大物がウヨウヨ泳いでいる夢などはお決まりであるが、そんなのはあまり面白くない部類だ。

一番面白いのは、ありえないシチュエーションで釣りをする夢だ。
住宅街の路地が全て川になっていて、そこを竿を持って遡行する夢。
地元の駅の近くを流れる普段は下水を集めて流れている川が、なぜか綺麗な水で満たされ、大きなヤマメが泳いでいる。家のある方へ歩きながらフライを投げるのだがなかなか釣れない夢。
東京の下町と思しき古い木造建築が並ぶ町並みの中を流れる狭い水路でタナゴ釣りやハゼ釣りをする夢。
見たこともないような色々な種類の魚が丸見えの水域で釣りをする夢。
極め付けは、なぜか部屋の壁と床の境目から魚が釣れるはずで、期待を込めて部屋の隅にフライを投じる夢だ。

これらの夢に共通するのは、たいてい魚が釣れないことだ。期待だけが大きく膨らむばかりで、肝心の釣果は無し。
しかしこれらの夢は、この上なく甘美なのだ。目覚めて欲しくない、たゆたうような感覚が釣りの夢には必ず付き纏う。
仕事がらみの夢などでは絶対に味わえない感覚だ。
日常に近い場面が多いのは、私が育った環境に自然が極めて少なかったせいかもしれない。帰巣本能と釣りがない混ぜになった故のストーリーなのだろうか。
いや、心理学的に解明などしたくはない。解明すればするほど、夢の記憶の心地よさが削られるような気がする。

もちろん、これらの夢の釣り場は、現実世界で思いつく理想とは全くかけ離れている。
ではなぜこれほどまでに甘美なのだろうか。
夢の中には、全く別のもう一つの世界が存在する。そこは何人たりとも踏み込めない私だけの理想郷。
そう考えるしかないようだ。
もし夢と同じ場面に現実世界で出会ったら、私は泣くのだろうか。


 
※1 スプリングクリーク:なだらかな地形にある湧き水や泉を水源とした小川の事。

※2 ドライフライ:水面に浮かせて使うフライ。カゲロウ、トビケラ、カワゲラ、ユスリカなどの水生昆虫の成虫および亜成虫を模したものやアブ、ブヨ、ハエ、バッタ、コオロギ、甲虫類、毛虫、クモ、セミなどの、水に落ちて流れる陸生昆虫を模したものなどがある。また、特に何に似せたわけでもないファンシーフライもある。

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WRITER
田中啓一

田中啓一

東京生まれ。ファッションデザイナー、大学非常勤講師。入間川や相模川のオイカワ釣りで釣りに目覚め、10代後半でルアーフィッシングと出会い、ほどなくフライフィッシングにはまる。日光の湯川をはじめ、国内の渓流や湖にヤマメ、イワナ、各種鱒 (トラウト) を追い求める。ニュージーランド、パタゴニアなど、海外での釣行の旅もしている。シーバス、タナゴ、マブナ、クロダイ、ハゼなど、幅広く釣りを楽しむ。2000年代よりULギアに関心を持ち、MYOGで釣り用のシャツやパンツ、アルコールストーブ、ペグケースなどの自作も嗜む。ULギアは、主に釣り泊の道具として使用している。

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