FISHING ESSAY

フライフィッシング雑記 田中啓一 #08 某月某日K川にて

2024.02.28
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文・イラスト:田中啓一

What’s 『フライフィッシング雑記』 | フライフィッシャーであり、ハイカーであり、ファッションデザイナーである田中啓一さんによる、フライフィッシングにまつわるエッセイ。フライフィッシングは美しく、格調高く、ワイルドで、創意工夫の奥深さがあり、TRAILS読者とは親和性の高い個性あふれる遊びだと思う。釣り人はもちろん、釣りをしたことがない人も、田中さんが綴る魅惑的な言葉に運ばれて、フライフィッシングの深淵なる世界へ旅だっていただきたい。

某月某日K川にて

冬の寒さが幾分和らぎ始めた頃、家から駅への道すがらふと頬をかすめた風に川の匂いを感じる日がある。
おそらく勘違いなのだが毎年突然訪れる。
そんな時私の脳裏に浮かぶのは山深い源流ではなく春先の里川だ。そして無性に釣りに行きたいと思う。

某月某日

解禁間もないK川支流A川。いつものように橋の下から入渓する。小さな落ち込みの上の緩やかな流れにゆったりとしたライズを見つける。この魚は警戒心がまだ薄い。これはうまく流せば確実に食ってくる。しかしまっすぐ投げたら落ち込みの水流にラインが引かれてすぐにドラグ (※1) がかかることは目に見えている。極力ちからを抜いたサイドキャストでラインとリーダーは脇の流れに、フライだけが魚のやや上流に落ちるように慎重に投げる。フライが1メートルほど流れた時にモワッと魚の頭が水面を割った。釣れてきたのは尺ヤマメだった。幸先が良い。

川を遡行するとすぐに大きな堰堤が現れる。ここでは過去に50センチほどのニジマスを釣り上げている。
堰堤の下の本流にフライを流すも無反応。手前の渦を巻いて流れが逆流している深いポイントにニンフ (※2) を流し込む。水に押されてどんどんフライが沈んでゆく。どこまで沈むのか少々不安になった頃ズンと押さえ込むようなアタリが出た。
合わせた瞬間にかなりの大物であることがわかった。持久戦を覚悟する。3分もやりとりしただろうか。上がってきたニジマスはやはり50センチほどあった。写真を撮ろうと浅瀬に魚を横たえた瞬間目を疑った。以前に釣ったニジマスだったのだ。胸鰭の少し上にある楕円形の痣のような模様でわかった。
こいつはこの深い滝壺の底でずっと暮らしていたのか。行こうと思えば他所に行けるのに、まるで暗い牢獄に幽閉されたかのようにここで流れてくる餌を啄んでいたのか。
諦めたような目で横たわるそいつの姿に井伏鱒二の「山椒魚」の姿が重なり少し切なくなった。

某月某日

A川のそのまた支流。護岸の側面の大きな土管から大量の水が流れに落ち込んでいる。要は下水である。しかしこの街の下水は水源が豊かな天然水なのだ。この人工的な小滝が形成する小さな淵にも魚が溜まっている。重いニンフを滝の勢いに乗せて一気に底まで沈めて流す。すぐにアタリがあり30センチほどのニジマスが釣れた。放流魚ではないのでヒレはピンと張っている。
2、3尾釣った頃だったか、土管から流れる水の色が突然真っ赤に変わった。赤い水は落ちた勢いで激しく泡立ち、淵は一面ピンク色の泡で覆われた。そして川幅いっぱいに広がり下流へと流れていく。
この水の出所はわかっている。上流に染色工場があるらしいのだ。この街は繊維産業の街でもある。仕方がない。いくら天然水でもこうなるともうダメだ。場所を移動する。

A川との出会いに戻りA川を釣り上がる。ここも両面護岸だ。護岸の上から流したニンフをすぐに魚が食った。まあまあのサイズのニジマスだ。しかし護岸の上からでは手持ちのランディングネットで届くわけもなく、魚をかけたままランディングする場所を求めてウロウロする羽目になった。近くにある橋を渡って護岸につけられた鉄の梯子を片手に竿を持ちながら降りてやっとの思いで魚を手にした。
後先考えずに釣りをするとこういうことになる。反省。

次に支流を土管ポイントの上流に歩いていく。ドライフライ (※3) で数は出たが魚のサイズは格段に小さくなった。
川岸を上流にさらに進むと、民家からおっさんが出てきて残飯を川に投げ捨てた。

某月某日

K川と支流B川出会い。合流点のすぐ上でライズを発見。ドライフライを投げると一発で出た。8寸くらいのヤマメ。
そのすぐ下流に50センチほどの落ち込みがありやや深くなっている。ドライでは出なそうなのでカディスピューパ (※4) を落水に乗せて深く沈め、細かくアクションをつけながら上方に引き揚げてくるとガツンと当たった。そこそこのサイズを思わせるファイトだったが途中でスコンと抜けた。
バラす要因が思い浮かばなかったが、気を取り直して再度同じ要領でキャストアンドリトリーブ (※5) 。またもやガツンときた。なんとまたバラシ! 良型を2尾もバラすとさすがに頭に血が昇る。

少し別のポイントで時間を潰し、ダメもとで再度挑戦。またきた。しかしなんとまたバレた。もう原因は一つしか考えられない。バーブレスフック (※6) のせいだ。フックをよく確認するとスロートと呼ばれるベンド (※7) からフックポイントまでの長さが短めだ。非常に刺さり易そうだがバレやすそうでもある。
何を血迷ってこのフックでこのフライを巻いたのか記憶に無い。たまたまこのサイズのフックがこれしか手元に無かったからか。
どうせ作るならバレにくい設計で作って欲しかった。
もちろんバレにくいバーブレスフックもあるにはあるのだが、この一件を機にバーブレスフックが嫌いになった。フライボックスにこのフライを見つける度にこの一件を思い出す。だったらボックスに入れとかなきゃいいのに。

そこからB川を釣り上がると長い淵の底に大きな魚影が見えた。どうもヤマメのようだがはっきりとはわからない。見るからに釣れる気がしない。重いニンフを鼻先に流すが案の定ピクリとも動かない。
周りは住宅が立ち並ぶ田舎町なのだが、特にここは谷が深く両岸が切り立っていてコンクリートブロックの高い護岸になっているので、里川という言葉からイメージされる長閑な雰囲気がしない。
少し上流側に右岸から小さな流れ込みがあり、その辺りの河川敷が少し広くなっている。そこに畑があった。場所が場所だけに法的にOKなのか疑わしい。大水が出たら作物ごと流されるだろうし。
畑に棒が刺さっているのが見えた。棒の先に目を移してとゾッとした。これ以上ない不気味な案山子が立っていたのだ。頭がいわゆるカットマネキンという美容師の練習用の頭部なのだ。それだけでも不気味なのに 頭髪はざんばら髪にカットされ顔に真っ黒な汚れがべったりとついている。しかも色褪せたダウンベストの胴体から頭部だけが異常に高く飛び出している。まるで晒し首といった風情だ。
こんな場所は釣りをしないのなら訪れたくない場所だ。
その先も釣れなかったので帰った。

某月某日

今日はK川の支流のA川のそのまた支流の上流部を探ってみる。
生憎の雨天。相変わらず小さなニジマスばかりだがポツポツとドライフライに出た。
大物を求めて近くの支流にも浮気をしながら釣り歩いた。
芳しく無いので昼頃に元の川に戻った。橋の上から見るこの川の上流部は狭くて、とても魚が釣れそうには見えない。地元の人はこの川で釣りをするのだろうか。残飯を捨てるくらいだから下水扱いなのかもしれない。しかし水は綺麗で冷たく臭いもない。都会から来た物好きな釣り人くらいしか興味を持たないのではないか。

畑の脇から流れを覗きながら歩く。するとわりかしいい型の魚影が見えた。しかも二尾並んで泳いでいる。時節柄産卵行動では無いだろう。
しかし腹が減った。場所柄、他に釣り人など来るはずがない。先に飯を食うことにした。今日は薪ストーブを持ってきている。雨の中、少しでも乾いた枯れ枝を探しに近くの林に入る。休耕中の畑の脇でストーブに 薪をくべ飯を炊く。このNomadic Stoveは極薄のステンレス製でとても軽い。二次燃焼するので薪は完全に燃え、後には白い灰しか残らない優れものだ。
飯を火から下ろして蒸している間にフライパンでベーコンを焼いた。

腹が満ちたところで先程の魚を再確認。まだいる。魚の上流からのほうがアプローチし易そうだ。おそらくニジマスなのでドライより沈めた方が食うと判断。川が狭く流せる距離も短いのでミスをしてポイントを荒らしたくない。一発勝負だ。
重いウエットフライ (※8) をキャスト。十分沈めてツンツンと誘いを入れると案の定すぐ食った。
強烈な引きに竿が絞られる。狭い溜まりの中で魚が右往左往する。楽しい。パンパンに太った綺麗なニジマスだった。
この日はこの一尾で十分な気がした。

某月某日

K川本流。1日中釣り回ってそろそろ暗くなり始めた頃。小さなダムの流れ込みに入った。
残念なことに先客がいた。釣れましたかと訊くと先方もさっき来たばかりだという。顔ははっきりとは見えないが妙に声が若い。
しばらく彼の釣りを眺めることにする。まあまあ高番手と思しきロッドでダムサイトの方向にロングキャストしている。
しばらくするとロッドがしなった。手慣れた様子でランディングした魚を見ると40センチは超えていた。魚を見せてもらいに近寄った時初めて はっきりと顔が見えた。十代の少年だった。

聞くと彼は高校生で、そう近くはない実家から原付でこの釣り場に通っているという。タックルから察するに普通の流れを釣ることはないのだろう。ひたすらにこのダムの大物だけに狙いを絞って頻繁に通っているのだ。忘れかけていた若者特有のパッションを感じた。
そして彼はここに通った経験から、この釣り場の季節ごとの魚の着き場や釣り方を教えてくれた。
彼はその一尾で満足したらしく帰って行った。
40年以上もフライフィッシングをやっていて、まさか今になって高校生から釣りを教わるとは思っていなかったが、何か心に温かいものが残った。

彼のよりは小さかったがニジマスを一尾釣って写真を撮っていると携帯が鳴った。ファッション業界紙の編集長からだった。
「田中さん今いいですか?」
状況的に良くはないが「はい、なんでしょう」と返事をした。
東京ファッションウィークのレビューを書いて欲しいとの依頼だった。
「20ブランドほどショーを見て、書いてもらいます」と言う。
「わかりました。とりあえず打ち合わせをしましょう」と言って電話を切った。
あたりはすでに真っ暗で油を引いたような水面に街頭の明かりが反射して揺らめいていた。
今日はもう仕舞うか。
高速道路の下に停めた車に戻り、橋脚の根本に小便をしてから車を出した。


 
※1 ドラグ (drag):直訳すると引っ張ると言う意味だが、ここで言うドラグは、釣り人が意図せずにフライが引っ張られてしまうことを指す。どういう意味かと言うと、主にドライフライの釣りにおいて、フライをキャストした後、フライが流れる場所と糸が流れる場所の流速が異なる場合が多々ある。その時、フライが糸に引っ張られ、不自然な挙動をしてしまい、そのことで魚がそのフライを餌とはみなさない場合が多く発生する。これがドラグである。

※2 ニンフ (nymph):不完全変態をする昆虫の幼虫のこと。フライフィッシングでニンフと言った場合は、カゲロウやカワゲラなどの幼虫を模したニンフフライを指す場合と、実物の幼虫を指す場合とがある。どちらを指しているかは前後の文脈で判別することになる。カゲロウは水面で羽化 (ハッチ hatch) したあとに一旦亜成虫のダン (dun) と呼ばれる状態になり、もう一度脱皮して成虫アダルト (adult) になる。ダンもアダルトも飛翔可能な状態である。カゲロウのドライフライはこのダンとアダルトの状態を模したものだ。同じ種類の虫のフライでも時にはダンとアダルトを別々に作り分けることもある。アダルトのオスとメスは交尾後間も無く死に、水面に羽を広げて落ちるが、その状態を模したドライフライをスペントフライ (spent fly) と呼ぶ。

※3 ドライフライ (dry fly):水面に浮かせて使うフライ。カゲロウ、トビケラ、カワゲラ、ユスリカなどの水生昆虫の成虫および亜成虫を模したものやアブ、ブヨ、ハエ、バッタ、コオロギ、甲虫類、毛虫、クモ、セミなどの、水に落ちて流れる陸生昆虫を模したものなどがある。また、特に何に似せたわけでもないファンシーフライもある。

※4 カディスピューパ (caddis pupa):ピューパ (pupa) は完全変態をする昆虫の蛹 (さなぎ) のこと。幼虫 (芋虫のような状態) はラーバ (larva) という。トビケラ (カディス又はセッジ) やユスリカ (ミッジ midge) にはラーバ、ピューパ、アダルトと変態する。カディスピューパはトビケラの蛹が羽化のために水面に泳ぎ上がる段階だ。トビケラに限らず水生昆虫のこのような状態は非常に魚に捕食されやすい場面でもある。ウエットフライはこのように様々な種類の水生昆虫が水面に泳ぎ上がる状態を模したものが多いが、厳密にどの虫を模したかハッキリしないものも多い。特定の虫を意識しない派手なフライをファンシーフライと呼ぶこともある。

※5 キャストアンドリトリーブ (cast and retrieve):キャストは、投げること。リトリーブは、糸を引っ張ってフライを動かすこと。

※6 バーブレスフック (barbless hook):鉤の先端近くのカエシが無い鉤。カエシが無いので魚の口から針を外しやすい。同じ理由でバラしやすいという欠点にもなる。フライフィッシングの場合は魚を極力傷つけないという理由で使われることが多い。また釣り人や後方に立つ人に引っかかった際にもダメージを最小限に食い止められる。管理釣り場ではバーブレスフック使用を義務付けるところがほとんど。日本ではスレバリという。リリース前提のヘラブナ釣りなどによく使われる。競技の際も針外しに時間が取られないという利点もある。鮎掛け鉤にもカエシが無い。

※7 ベンド (bend):鉤の曲がっている箇所。真っ直ぐな部分はシャンク (shank)、カエシはバーブ (barb)、ラインを結ぶ輪っかはアイ (eye)、鉤先はフックポイント (point)。

※8 ウエットフライ (wet fly):湿式毛針。主に水中に沈ませて釣るフライ。水面直下から中層まで探ることが多い。水生昆虫が羽化のために水面に浮上する様子を模したものが多い。それに限らず、何も模さずに釣り人が感性の赴くままに創作したファンシーウエットフライもある。ファンシーフライは、ウエットフライに限らず、ドライフライや、ストリーマーなど、あらゆるフライに存在する。

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WRITER
田中啓一

田中啓一

東京生まれ。ファッションデザイナー、大学非常勤講師。入間川や相模川のオイカワ釣りで釣りに目覚め、10代後半でルアーフィッシングと出会い、ほどなくフライフィッシングにはまる。日光の湯川をはじめ、国内の渓流や湖にヤマメ、イワナ、各種鱒 (トラウト) を追い求める。ニュージーランド、パタゴニアなど、海外での釣行の旅もしている。シーバス、タナゴ、マブナ、クロダイ、ハゼなど、幅広く釣りを楽しむ。2000年代よりULギアに関心を持ち、MYOGで釣り用のシャツやパンツ、アルコールストーブ、ペグケースなどの自作も嗜む。ULギアは、主に釣り泊の道具として使用している。

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