take less. do more. 〜 ウルトラライトとMAKE YOUR OWN GEAR by グレン・ヴァン・ペスキ | #02 MYOGのはじまり
文・写真:グレン・ヴァン・ぺスキ 訳:勝俣隆, TRAILS 構成:TRAILS
そのグレンによる「ウルトラライト (UL) × MYOG」に関する新連載の第2回。
なぜ「ウルトラライト × MYOG」か?両者は分かちがたく結びついており、その本質を理解することが、現在のハイカーやMYOGer、ガレージメーカーが共有すべき新たな知恵になるはずだからだ。(本連載に込めたコンセプトは、第1回の記事を参照。記事はコチラ)
グレンは、ウルトラライトとMYOGに関する「リビング・ディクショナリー (生き字引) 」の筆頭であり、その本質を伝える語り手として、グレン以上の人はいない。それは、いち早くULガレージメーカーを立ち上げた先駆性、プロダクトや思想の革新性や独自性において、他と一線を画しているためである。
今回の第2回では、グレンがMYOGをはじめたきっかけから、ULガレージメーカーとして始めた出発点についてお届けする。
エンジニアの父には徹底した改良の姿勢を、母には裁縫と料理を教えてもらった。
私は住宅など土木関連のエンジニアの仕事をしてましたが、私の父もエンジニアでした。父は電子機器関連のエンジニアです。母からは裁縫と料理を習いました。私の兄妹はみんな、裁縫や料理ができます。パンの焼き方も知っています。
1960年代に父は日本にも来ていました。勤めていた会社が日本向けにも関連する電子機器を販売していたので、何か問題があると父が派遣されるのです。
ギアを作るということに関しては、この父からの影響があると思います。エンジニアというのは改善策 (問題解決) を考えてしまうようです。父は今でもモノづくりをしていて、大きな作業場もあります。何か気になるところを見つけては「これは改善しなきゃな」と言っているような父です。
例えば、パンを焼いても、その後にきれいにパンを切るのは難しいものです。そこで硬い木材で作ったパンの容器を作り、印をつけておくのです。その容器にパンを入れるだけで、パン屋さんのように正確にパンを切れるというわけです。
父が何か見つけるたびに、私たちは何か作っていたのです。そんな感じで、父はいつも「もっと良くしよう」とやっています。私もその影響を受けているのでしょうね。
高校卒業後の自転車旅がMYOGのはじまり。
高校卒業した後に、自転車でアメリカ横断4,200mile (約6,800km) の旅をしたんです。その頃はDIYキットを買って、ダウンベストやスリーピングバッグなどいくつかのギアを作っていました。
1970年代には「フロストライン・キット (Frostline Kits)」という大きな会社があって、そこでDIYキットが買えたのです。自分でタープやそのインナーのバグネットを自作したのは、その自転車旅のときが初めてでした。
この自転車の旅のときから、軽量化については考えていました。荷物を軽くするために、軽い竹の箸を使ったり、歯ブラシの柄に穴を開けて肉抜きをしたりしていました。金属のペグの代わりに竹のペグも使ってました。竹のペグを使うには、柔らかい地面を探す必要がありましたけど。
ULバックパックのMYOGのきっかけは、レイ・ジャーディンの本。
本格的に軽量なギアを作り始めたのは、息子のブライアンがボーイスカウトにいた頃です。ブライアンが、シエラに一週間ほどのハイキングに行くことになったのです。
REIのお店に行って「シエラの旅に必要なものを一揃いください」と言ったんです。すると、すべてを詰めたバックパックは30kg以上ありました。店員さんは「これで必要なものは全部揃っています」と言うわけです。この時は、バックパックだけでも3kg以上ありました。
ボーイスカウトのメンバーだった友人がいて、レイ・ジャーディンの『The PCT Hiker’s Handbook』(1992年に出版。2000年に『Beyond Backpacking』、2008年に『Trail Life』に改題) を読んでいたのです。その友人に「グレン、バックパックを作ってみなきゃね」と言われたのです。
『The PCT Hiker’s Handbook』を読んだ時のことを忘れもしません。巻末のギアリストを見ると、ベースウェイトが8ポンド (3.6kg) と書いてあったのです。「わぁお、8ポンド!?」と思わず声にしてしまったのを覚えています。
そのときは、どれほどの軽さなのか、想像もつきませんでした。その後のことですけど、いまでも自分のバックパックでベースウェイトが20ポンド (9.1キロ) を切った時のことは、よく覚えてます。あの時は本当に嬉しかったです。
最初のバックパックは、まずは『The PCT Hiker’s Handbook』に載っていた、バックパックのパターンをお手本にして作ってみたんです。それが「G1」です。参考にしたパターンは私には小さかったので、そのパターンよりも大きいサイズのバックパックを作りました。
そして2つめの「G2」、3つめの「G3」と作って、4つ目にMYOGしたバックパックが「G4」(容量72L / 重量340g) です。
「好きなものを作っているだけです。気に入ったらお買い上げください。」
「G4」を作った時にパターン (型紙) をインターネットに載せました。作りたい人がMYOGできるように。G4を作ったのが1998年で、パターンをインターネットに載せて販売したのが1999年です。
当時は特にお客さんもいなかったし、ビジネスとしてやっているわけではありませんでした。それでも「G4って、どうやったら手にいられるんだい?」と問い合わせをもらうようになっていたのです。それでMYOGしたい人向けに、ネットに載せるようにしたのです。
G4は「GVP Gear」というメーカー名を付けてつくるようになりましたが、最初はその気はなかったのです。でも「G4が欲しいんだけれど、自分で縫うことができない」といった電話やメールが減らなくて。
少し気の毒に思ってしまって、バックパックを25個作れるか検討してみたのです。G4を欲しい人に提供してしまえば、また自分はエンジニアの仕事に戻れるし、みんなハッピーになれると思ったのです。
目標を変えて、バックパックを作れるところを探すことにしました。G4を自分で作ると10時間かかりました。なので、一人で25個を作るのはとても無理なことだったのです。作ってもらえるところを見つけたところ、「ミニマムは100個」と言われてしまいました。「必要なのは25個なんだ」とやりとりをしているうちに、ようやく「50個でどうだい」と相手が折れてくれたのです。
当時、エンジニアの仕事を辞めようとは思っていませんでした。エンジニアとしての収入は十分ありましたし、バックパックに関しては、軽量化したい人々のサポートができればと思っていただけだったので。
それとバックパックで稼がないことには、とても良いことがあるんです。誰かの要望に耳を貸さなくて済むのです。
今は違いますが、昔は電話を直接もらうことがありました。「こういうふうにすべきだ」とか「こんなのを作ってみては」と伝えてくれるわけです。その度に私はこう答えていました。「いいんですよ。私は商売ではなく、好きなものを作っているだけなんです。気に入ったらお買い上げください。気に入らなかったら、それでかまいません。他の物をお買い求めください。」と。
プロダクトを徹底して「改良」しようとするグレンのバックグラウンドには、ペスキ家で受け継がれたエンジニア気質のモノづくり精神があった。そして、基本となる裁縫のスキルは母から授けられた。
またUL史に残るGVP GearのG4は、自分のため=「YOUR OWN」を純粋に追求したところに生まれたプロダクトであった。このことは、極端なまでの自分のこだわりから、新しいモノを生み出されることを教えてくれる。
次回は、G4以降のULガレージメーカーとしてのプロダクトの開発のエピソードを、グレンさんに語ってもらう。
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