NIPPON TRAIL #06 北加伊道・クスリの道 〜【後編】歩いて漕いで、アイヌの地を松浦武四郎のように旅する
文:根津貴央 構成:TRAILS
NIPPON TRAILの第6弾は『北加伊道・クスリの道』。北加伊道(ほっかいどう)とは、江戸時代末期、北海道の名付け親である松浦武四郎(※)が、蝦夷地(えぞち)にかわる名称として政府に提案したもののひとつ。
“カイ” とは、アイヌ語で「この地に生まれた者」という意。彼は、先住していたアイヌへの敬意をこめて「北にあるアイヌ民族が暮らす大地」と命名しようとした。
※松浦武四郎(まつうらたけしろう):江戸時代末期〜明治初期に活躍した、三重県松阪市出身の探検家。計6回の蝦夷地(えぞち)探検を実施し、詳細の解明に貢献した。
後編では、なぜ今回、NIPPON TRAILでこの『北加伊道』という名前を使用したのか? そしてなぜ『クスリの道』としたのか? その背景の核心部をお届けしたい。
この核心部にたどり着くために、僕たちは厳冬期に屈斜路湖のトレイルに再訪した。この地をよりディープに体験するための、TRAILS編集部Crewによる実験的な旅だ。
北根室ランチウェイの先の屈斜路湖、さらに釧路川までをつないでみた。
僕たちが考えた『北加伊道・クスリの道』。北根室ランチウェイ(71.4km)の西の終点・美留和から屈斜路湖へとつなぎ、和琴半島を折り返して、釧路川へ。総延長は約170km。
僕たちは、地元の人たちと一緒に、北根室ランチウェイから屈斜路湖までをつなぐトレイルを探した。(詳しくは前編にて)
そこには活火山、湖、野湯、アイヌの暮らしなど、驚くほど豊かな自然と、昔から続く文化があった。歩けば歩くほどに、この土地の風土が僕たちの心と身体にしみわたっていく気がした。
そして上の地図にあるような、ルートを描いてみた。北根室ランチウェイの西の起点である美留和を越えて、屈斜路湖まで歩いてみる。さらには、パックラフトを使って釧路川も旅する総延長約170kmのトレイルだ。
パックラフトは、何も特別なアイテムではなく、ハイキングの延長線上にあるものだ。
僕たちにとってパックラフトはハイキングの道具である。パックラフトでアラスカを冒険した先人たちのように、時には歩き時には漕いで、人力で自然のなかを旅し続けるためのツールなのだ。
以前、TRAILS編集部Crewでニュージーランドのロングトリップに出かけたことがあった。その時にニュージーランドにある9つのグレートウォーク(ロングトレイル)のうち、ひとつは川を漕いでいくトレイルだと知った。これを知った時は、我が意を得たりという思いだった。
川も、人々が昔から移動に使った “トレイル” と捉えると、ロング・ディスタンス・ハイキングの可能性は、何倍にも広がる。
クスリの地(屈斜路湖、釧路川)をディープに体験するための冬の旅。
『北加伊道』のルートを描いた僕たちは、各セクションのリサーチのために何度も屈斜路湖を訪れた。でも「もっとこの旅の魅力を体感したい」というどこか満たされない気持ちがあった。
その理由のひとつは、この極寒の地ならではの冬の景色を、まだ知らないということだった。そしてもうひとつは、前に訪れた時に知った、アイヌの生活に使われていた『池の湯』という野湯(のゆ)の存在。
この『池の湯』についてもっと知りたい。できれば、その当時を知るアイヌの人にも直接話を聞いてみたい。そんな思いが募っていた。そんなことから、あらためてTRAILS編集部Crewで、『北加伊道』の冬の旅に行こう!となったのだ。
冬の旅のスタート地点は『池の湯』。そこから、今もアイヌの方々が暮らすコタン(集落)を訪れ、さらには冬の釧路川もくだってみよう、というプラン。パックラフトの道具を担いだまま雪の中を歩き、今まで体験したことのない北海道の厳冬期の川をパックラフティングする。それは僕らにとっても経験のない、実験的な旅だった。
その昔、アイヌの人々が利用していた『池の湯』が、スノーハイキングのスタート地点。
『池の湯』に着くと、雪景色のなかに、温泉の湯気がもうもうと湧き立っている。夏に見たのとはまったく異なる光景だ。
この地には、冬の厳しい寒さがあるからこそ培われてきた風習があるはず。昔の人々は、冬にもこの温泉に入りに来ていたのだろうか? そんなことを思いながら、『池の湯』の往来で使われた、湖畔にある旧生活道を歩き始めた。
池の湯〜屈斜路コタンを結ぶ旧生活道。以前は雑草で覆われていたが、地元の有志たちが草刈りをして復活させた。
僕たちは、スノーシューやBCクロカンといった雪用のギアを使って、雪上をゆっくりと歩いていく。宙を舞う雪、すぐそばに広がる屈斜路湖、湖上にかかる木の枝に垂れさがる氷柱(つらら)……そこには幻想的な世界が広がっていた。
『池の湯』から約5kmほどのところに、今もアイヌの方々が暮らすコタン(集落)がある。この旧生活道を進んでいけば、そこにたどり着く。
『池の湯』に続く道は、アイヌの人々にとって思い出の道だった。
屈斜路コタン(※)に到着した僕らは、その足で古丹生活館を訪れた。ここは、近所で暮らす人々が集う場所だ。
館内に入ると、僕たちの母親世代の女性3人が刺繍の作業をしているところだった。
話をうかがうと、アイヌの風習などは自分たちの親からもそんなに伝えられていない、とのこと。でも、アイヌの風習や文化をできるだけ残していきたいという思いから、こういったアイヌ文様の刺繍をしている、と語ってくれた。
※屈斜路コタン:屈斜路湖の湖畔にあるアイヌの集落。文献に初めて登場したのは、1859年(安政6年)出版、松浦武四郎の『久摺(くすり)日誌』。当時7軒の家があり、湖水を背にして家が立ち並ぶ風景は言いようのないほどすばらしい、と記述。
屈斜路コタンにある古丹生活館。僕らが訪れた時は、アイヌ文様の刺繍をする人たちが集まっていた。
僕たちは、『池の湯』から湖畔の道をたどってここまで来たことを伝えた。
「あの旧道を歩いたの? あそこは私たちが子どもの時に歩いていた道なんですよ。昔は家に五右衛門風呂しかなくて、週にいっぺんくらいは池の湯に入りに行ったんです。帰りは道路に落ちている薪なんかを拾いながらね」
女性たちの話す顔がほころんでいる。僕たちは『池の湯』が本当に暮らしのなかで使われていたことに、ちょっと感動していた。そして『池の湯』からの道も、当たり前のように歩いていたというリアリティは、胸に迫るものがあった。
さらにひとりの女性が、冬の思い出について語り始めた。
「冬は湖畔の道じゃなくて、凍った湖の上を歩いて池の湯まで行ったのよ(※)。昔は今みたいに除雪車なんてないでしょ。だから冬は雪が積もって、林のなかの道は歩けないの。親が湖の上に松の木を定間隔に立ててくれて、お風呂から帰ってくるときは、それを目印にして歩いたの」
かつての屈斜路コタンでの暮らしが、僕らのなかでもありありと目に浮かんだ。アイヌ語で「クスリ」と呼んでいた温泉。そこへ続く道は暮らしの道であり、クスリの道だったのだ。
※当時、屈斜路湖は全面結氷するのが当たり前で、その際は普通に歩くことができた。しかしここ最近は温暖化の影響か、全面結氷しても歩けるほど厚い氷が張ることはあまりない。
生活館を後にしようとした時「どうぞ着てみてください」とアイヌの衣装を着させてもらった。アイウシというこの文様は、首や袖や裾から悪いものが入るのを防ぐ魔除けの意味があるとのこと。
僕らが帰り支度をしていると、最後にこんな話をしてくれた。
「松浦武四郎さんがここに来た時は、私の父親のおじいさんが案内したみたいです」
かつてアイヌの人々とともに旅をし、『北加伊道』という名を考えた松浦武四郎が、思いがけず近い存在として現れてきたことに、僕らは驚いた。そして僕らは武四郎が旅したルートをたどるように、コタンから釧路川へと向かった。
釧路川を「リバートレイル」として旅する。
屈斜路コタンを越えてすぐのところに、眺湖橋(ちょうこばし)という橋がかかっている。ここが釧路川の源流部。僕らは漕ぎ出せるポイントを探し、そこでバックパックに詰め込んでおいた、パックラフトの道具を広げた。
ここからリバートレイルのスタートだ。いざ、屈斜路湖(クスリ・トゥ)から釧路川(クスリ・ベツ)へ。
スノーハイキングからパックラフティングへ。気温はマイナス5℃程度と、想定気温(マイナス15℃)よりかなり暖かかったものの、のんびりはしていられない。みんな黙々と作業を進める。
雪の釧路川を悠々とくだり、雪の釧路湿原で終わりを迎えるなんて、ロマンがあるじゃないか。『クスリの道』にふさわしいフィナーレだ。
雪化粧した釧路川は、以前、秋に来た時よりも神々しく感じられた。ここは北加伊道であり、カムイ(神)の地なんだ、そんな気がした。
かつての松浦武四郎の蝦夷地探査には遠くおよばないけれど、TRAILSらしい現代版のチャレンジングな旅を模索することはできたと思う。
北根室ランチウェイを越えて、屈斜路湖のアイヌの生活を体感し、さらに釧路川へ。まだまだこのフィールドにはポテンシャルがあるし、もっともっと楽しめるものがたくさんある。そう確信した旅だった。
『北加伊道』と名づけた理由は、松浦武四郎とアイヌとの深いつながりにあった。
僕らは、何度も屈斜路の地を訪れ、地元の人と話をするなかで、幾度となく「松浦武四郎(まつうらたけしろう)」という名前を聞いた。
冒頭に書いたように、松浦武四郎は、江戸時代末期〜明治にかけて活躍した探検家で、6度にわたって蝦夷地(明治以前の北海道・樺太・千島の総称)を探査した。武四郎は17歳で諸国漫遊の旅に出かけ、それ以降も終生、旅に情熱を注ぎ続けた人でもあった。
松浦武四郎の『天塩日誌』(1862年・文久2年 刊)。崖にかかる丸木橋を、アイヌの助けを借りながら恐る恐る渡っている武四郎が描かれている。(国立国会図書館デジタルコレクションより)
彼はその探査をもとに、政府に蝦夷地に替わる新名称の案を6つ提出した。その中でもっとも思いを込めたのが『北加伊道』だった。
実は彼の旅は、蝦夷地に住むアイヌの案内人の支えなくして成立しなかった。そして旅をともにした人々や、各地で出会った人々と交流するなかで、アイヌの暮らしや文化への強い共感が生まれていったという。
ある時、アイヌの長老から「カイ」という言葉が「この地に生まれた者」を指すと聞いた武四郎は、「北にあるアイヌ民族が暮らす大地」というアイヌへの敬意を込めた名称『北加伊道』を提案したのだった。
松浦武四郎が残した屈斜路湖周辺の地図。このときは屈斜路湖は「クスリ湖」と表記されている。(松浦武四郎『久摺(くすり)日誌』より)
僕らが歩こうとしているこの地は、北海道ではあるのだが、それ以前にアイヌの方々がずっと生き続けてきた土地でもある。
そして僕たちも、アイヌの人々に会い、実際に話を聞くことによって、この土地で暮らす人のことや、昔から受け継がれている文化を知ることができた。それは、江戸時代末期に蝦夷地を旅した松浦武四郎のよう、といったら言い過ぎだろうか。
そう思うと、僕たちの旅はまさしく『北加伊道』の旅であり、温泉が点在するこのルートは『クスリの道』にほかならない。
この地に訪れ、ここに住まう人々に触れ、話を聞き、そしてまた旅をする。そんなことを繰り返したことによって、僕たちはようやくこの旅にTRAILSらしいNIPPON TRAILのテーマを見つけだすことができたのだ。
なりゆきに身を任せる。
これは、僕がロング・ディスタンス・ハイキングをする上で大事にしているスタンスだ。
もちろん、できる限りの下調べはするし、事前準備を怠るつもりはない。でもそれはあくまで必要最小限。なぜなら、あまりやり過ぎると、事前に旅のストーリーを組み立て、それに沿った歩き方をしてしまうからだ。
結論ありきの旅ほどつまらないものはないし、それでは単に裏を取るためだけの旅になってしまう。それは、もはや取材であり旅ではない。
僕はここ5年間、ネパールの『グレート・ヒマラヤ・トレイル(GHT)』約1,700kmを踏査するために、仲間とともに毎年足を運んでいる。1回の旅で300kmほど歩くので、単純計算で6年もあれば歩き終えることができるはずだ。
5年を終えた今、進捗はどうかというと、実はまだ6割程度。なぜか? それは、なりゆきに身を任せているからだ。
とある村で祭りがあると聞けばそれを見にいくし、村人にまあ一杯飲んでいきなよと誘われれば喜んで宴に参加する。珍しいゴンパ(チベット寺院)の話を耳にすればルート外でも足を延ばすし、飛行機ですぐの場所にバスで1日かけて行ったりもする。
もちろん事前に計画は立てている。でもこの計画にないことこそが、旅はもちろんロング・ディスタンス・ハイキングを、より味わい深いものにしてくれるのだ。
今回のNIPPON TRAILもそう。『北加伊道・クスリの道』というテーマになるなんて、誰が予想しただろうか。このテーマが生まれたのは、旅先で興味のおもむくままに楽しんだからこそ。
でも反面、行ってみてなんのテーマも見つからずに帰ってくる、なんてこともあり得る。仕事としてはダメなのかもしれないけど、まあでも、旅としてはぜんぜんありだ。これこそ、まさに “なりゆき” と言えるだろう。
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