BRAND STORY

国産カスタム・フライロッドのパイオニア MACKY’S CREEK(マッキーズ・クリーク) – その6 <回顧録> 宮坂雅木氏が語る「MACKY’S CREEK」誕生秘話

2022.10.28
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文・構成:TRAILS 写真:宮坂雅木、TRAILS

Why MACKY’S CREEK?/ 1980年創業のMACKY’S CREEK (マッキーズ・クリーク ※1)。オーナーは、「マッキーさん」の愛称で親しまれている宮坂雅木 (みやさか まさき) 氏。フライフィッシャーの間では、言わずと知れた国産カスタム・フライロッドのパイオニアである。そんなマッキーズ・クリークが、2022年8月31年、42年の歴史に幕を下ろした。「MACKY’S CREEK」という場、およびマッキーさんが作り出したカスタム・フライロッドの製品シリーズ「ARTIST」が日本のフライフィッシングシーンに与えた影響とは。

*   *   *

マッキーズ・クリークの足跡を辿りなおし、その生い立ちから独自性、存在意義までを紐解いていく今回のBRAND STORY。本来は1ブランド1記事が原則だが、今回は日本のフライフィッシングシーンにおける歴史的とも言える瞬間にTRAILS読者のみなさんにも立ち会っていただきたく、特別連載企画としてお届けする。

今回のその6は、この特別連載企画の最終回。最後に<回顧録>として、マッキーさんご本人の単独ロングインタビューをお届けする。

日本のロッド・ビルディング (※2) の礎 (いしずえ) を築いたマッキーさん。マッキーさんはフライロッドにおける日本流のロッド・ビルディングを探求し、フライフィッシャーはもちろん、時にはメーカーとなっていく人にも、探求結果であるノウハウを惜しげもなく公開してきた。

そして、日本流とも言える美しさと使いやすさを追求したロッドは、国産フライロッドにおけるクラシックともいえるものを作り出した。この単独ロングインタビューを通して「MACKY’S CREEK」、およびその製品シリーズ「ARTIST」の誕生秘話に迫りたい。

※1 マッキーズ・クリーク:後に名称をマッキーズに変更しているが、マッキーさんと相談の上、今回のBRAND STORYではTRAILS編集部からのリスペクトを込めて創業当時から使用していたマッキーズ・クリークという名称を使用している。

※2 ロッド・ビルディング:自分の釣りのスタイルや好みに合わせて、ロッド(竿) のパーツやマテリアルから調達し、自らの要望に合わせて、自分仕様のロッドを、自らで(またはロッド・ビルダーに依頼して)組み上げていくこと。(詳細は以下の記事を参照: 国産カスタム・フライロッドのパイオニア MACKY’S CREEK(マッキーズ・クリーク) – その2 「MACKY’S CREEK」と「ARTIST」https://thetrailsmag.com/archives/59272


マッキーズ・クリーク創業の場所である、東京・新富町の旧・店舗前の路地にて。ここはロッドの試し振りをすることから「テストリバー」や「新富リバー」と呼ばれていた。

日本三大釣り名人の一人と言われ、粋に遊び暮らした父、宮坂普九(みやさか ふく)。

東京の下町で生まれ育ったマッキーさん。自身は銀座っ子を自称している。生まれは湯島で、その後、新富町で育った。父親の宮坂普九は、釣り好きであった文人の井伏鱒二 (※3) とも親交があり、井伏は「宮坂普九は日本の釣り名人の三人のうちの一人」とも評していたという。そんな家庭環境のなか、マッキーさんはどのようなきっかけで釣りという世界と出会い、そしてのめり込んでいったのだろうか。

 
※3 井伏鱒二:1898年〈明治31年〉生まれ。小説家。代表作は「黒い雨」、「山椒魚」、「ジョン萬次郎漂流記」等。筆名は釣り好きであることに由来する。「川釣り」、「釣師・釣場」など、釣りをテーマとした作品も残している。
 

三大釣り名人の一人として知られた、マッキーさんの父親の宮坂普九。

—— 釣りは、最初お父さんから教わったのですか?お父さんはアユ釣りの名人と言われていたのですよね。

 
宮坂雅木 (以下、マッキーさん):僕が親父から教わったのはハゼです。東京湾でのハゼ釣りですね。新富町の家の近くの川から舟を出してね。新富町は舟宿が多かったんですよ。親父は江戸前のハゼ釣りのやり方で、両手に1本ずつ竿を持って2本でやってましたね。あと、子どもの頃はね、当時も釣り禁止だったけど、お堀にコイ、フナ、ライギョ、スッポンとかがいて、隠れながら釣りをしたりしていました。

—— 最初にフライロッドを握ったのは、どんなきっかけがあったのですか?

 
マッキーさん:親父が釣り具屋でフライロッドを買ってきたんです。たぶん間違って買ってきたんじゃないですかね。それを使ってエサ釣りをしてました。それが僕の小さな頃の釣りです。

—— 釣りは小さい頃から好きだったのですか?

 
マッキーさん:きっと好きだったんでしょうね。ずっとやってるんだから。働きはじめてからも、やってました。湖にもよく行きました。中禅寺湖なんかも、魚がいっぱいいますからね。箱根でニジマス釣ったり。誘われて、海釣りもよくやりました。道具もいろいろ自分であつらえてやってましたよ。


父親の宮坂普九 (写真左)。釣り仲間との写真。

—— いろいろやってきたなかで、フライフィッシングを選んだのですね。

 
マッキーさん:フライフィッシングは一番お洒落な釣りですからね。最初からそう思ってました。やはり毛ばりがいいですよね。僕はテンカラよりも、フライの方が好みですね。下町出身だからか、子どもの頃から外国かぶれのところがあるんですよ。いやあ、フライはいいですよ。

フライフィッシングはお洒落なんですよ。お洒落じゃないやつがやったら、あんなつまらない釣りはないですよね。フライフィッシングは、魚を釣るのも目的だけども、お洒落するのも1つの目的なんですよ。

—— お父さんは井伏鱒二とも親交があったそうですが、小さい頃は家に文人の方とかも出入りされてたんですか?

 
マッキーさん:詳しくは知りませんが、来てましたね。佐藤垢石 (さとう こうせき※4)とか。なかでも釣り関係の人が多かったと思いますよ。他にも今東光 (こん とうこう※5) とかも遊び仲間だったみたいです。

※4 佐藤垢石:1888年 (明治21年) 生まれ。随筆家。鮎釣りの名人として知られ、釣りをテーマとしてた多くの随筆を書いた。1946年 (昭和21年) に創刊した雑誌「つり人」では、初代編集長を務める。

※5 今東光:1898年(明治31年)生まれ。作家、宗教家、政治家 (参議院議員)、画家など多彩な才能で活躍した。1957年 (昭和32年)には、小説「お吟さま」で直木賞を受賞。


子ども時代を過ごした東京の下町・新富町で、子ども時代のお話をうかがう。

—— お父さんは、粋 (いき) に遊び暮らした方とうかがったことがあります。

 
マッキーさん:親父は周りの人から「愉快な男」とよく言われてましたね。話も面白かったのでしょうね。親父は長野のお金持ちの家の息子でね。戦後、日本が厳しくなる前までは、いろんな趣味のことばかりをやって暮らしてました。僕が生まれる前のことだけど、画家とか彫刻家とか、才能のある若い食客を家に住まわせたりもしてたみたいです。

道具づくりも好きで、アユの毛ばりを作ったり、タモも自分で色や形を考えて作ったり。魚籠 (びく※6) も、いろんな種類のものを作ってましたね。クラシックなデザインから、モダンなデザインまで、思いつくままにいろいろやってました。道具については、いつもあれこれ考えていましたね。

骨董の古美術の鑑定なんかもしてました。美術やデザインなどへの造詣が深い人だったと思います。

ちなみにね、親父の本名は福衛 (ふくえ) というんです。普九 (ふく) というのは号なんです。号っていうのは、本名とは別の呼び名ですね。屋号、芸号とかの号です。

—— お父さんの号が普九ならば、マッキーさんにも号はあるんですか?

 
マッキーさん: 僕の号はマッキーです (笑)。

※6 魚籠:とった魚を入れておくかご・器

バーテンダー日本一を目指すも、グラフィックデザイナーとして、第一線で活躍する。

マッキーさんの作るプロダクトの大きな特徴のひとつは、その美しさにある。これは今回の特別企画の記事でも、お伝えしてきたとおりである。では、マッキーさんの美しさやデザインに対する感性や資質は、どのように磨かれてきたのだろう。

 

芸大に行くことに憧れていたというマッキーさん。その後、グラフィックデザイナーに。

—— マッキーさんは、マッキーズ・クリークを始める前は、グラフィックデザインのお仕事をされていたのですよね。なぜデザイナーになったのですか?

 
マッキーさん:僕は、高校は工業学校に通っていたんです。大学は芸大を受けたんです。落っこちてしまったのですが。芸大に行くと決めてからは、部屋の中で、たらいに花を入れて、毎日ずっとスケッチしていました。デザインに興味を持ったのは、骨董とか古美術なんかもやっていた、親父の影響もあると思います。

芸大は落っこちて、どうしようかと思ってね、バーテンダーの日本一になろうと本気で考えたんですよね。

—— それも向いてそうですね。

 
マッキーさん:そう、向いてそうなんだよね。銀座のバーに雇ってくれって、いくつか行ったんだよね。でも全部断られたんですよね。

その帰りに、当時付き合ってた彼女、今の女房ですが、その彼女のお父さんにばったり会ったんです。それで「お前何やるんだ?」って訊かれて、「実は高校卒業したんで、銀座のバーで日本一のバーテンダーになりたいんだ」って答えたんです。そうしたら「そんなことしてないで俺んとこに来い」って言ってもらって。最初はそれを断ったんですけど、凸版印刷のデザイン部を紹介してくれることになって。そこに入ったのがデザインの仕事の始まりですね。

—— 凸版印刷に入られてからは、どのように仕事をされていたのですか?

 
マッキーさん:凸版印刷でしばらく働いた後は、自動車会社の専属広告代理店とか、いくつか広告代理店を渡り歩いて、その後に独立して、六本木の端っこにね、デザイン事務所を作ったんですよ。そうやってずっとデザイン事務所で、広告やパッケージのデザインの仕事をやっていました。


グラフィックデザイナー時代から、ロゴや広告のクリエイティブはほとんど手書き。ロッドのネーム入れもマッキーさんの手書きによるもの。

—— 芸大を受けたという話がありましたが、アートやデザインはずっとお好きだったのですね。

 
マッキーさん:そうですね。凸版印刷にいた頃も、働きながら夜学で文化学院に通って、デッサンなどデザインの勉強をしてました。このときには、畳 (たたみ) 2枚分くらいの大きい抽象絵画を描いたりしていたんですよ。その絵は、今も家に飾ってあります。もう一度生まれ変わっても、芸大は受けるでしょうね。芸大に行って、抽象絵画をやって、画家になってみたいですね。

—— デザインにおけるデッサンの力を大事になさっていたのですね。

 
僕のお店に来ていた田中君 (今回の記事のその3, その4に登場) がファッションデザイナーになりたいと僕に言ってきたときもね、デッサンをやりなさい、って勧めたの。めちゃくちゃうまいファッション画を描けるようになれば、それだけで一流のファッションデザイナーになれると。僕が知ってるファッションデザイナーで有名な人がいるんだけど、その人もものすごくデッサンが上手いんですよ。

デザインの仕事を辞め、フライロッドのロッド・ビルディングをはじめる。

マッキーさんはデザイン事務所を辞め、まったく異なる業種であるフライロッドのメーカーを始めることになる。立ち上げ後には、それまで独学でやっていたロッド・ビルディングをさらに探求するために、当時取引相手であった「喜楽釣具」(きらくつりぐ。以下、喜楽 ※7) の二代目と親交を深めていった。喜楽の二代目の喜多村武 (きたむら たけし)さんは、バンブーロッドの製作工程において機械化を早くから取り組むなど、新しいことにも意欲的な人であった。

 
※7 喜楽釣具:日本において最初期からフライロッドを作っている老舗。1935年 (昭和10年) より六角竿(バンブーロッド) の製作を始めている。


浅草にあった喜楽の二代目と親交を深め、ロッド・ビルディングのことや職人の世界のことを教えてもらったという。

—— グラフィックデザインの事務所を辞めてから、マッキーズ・クリークを立ち上げることになるのですね?

 
マッキーさん:そうです。マッキーズ・クリークを始めた頃の話ですが、喜楽の二代目の喜多村武という素晴らしい親父がいるのだけど、僕はこの商売をやるのに、この喜楽の親父から全部教わったんですよ。ものすごくお世話になりました。喜楽の親父は師匠ですね。

—— 喜楽の二代目の喜多村武さんはどんな方だったんですか?

 
マッキーさん:ロッドメーカーになるために、細かいことまで教わったんですよ。売り方からごまかし方から(笑)、何から何まですべて教わりました。ただね、「教えてください」って言ったことはないんです。喜楽の親父は大酒飲みだから、ビールを飲みながら話していると、これはこーだ、あれはあーだ、っていう話になるんですよね。そういうのが僕の中に入ってくるわけです。それを自分で試してみる感じでした。

その親父さんっていうのが、実は日本のフライフィッシングにおけるお父さんみたいな人なんですよね。初代が昭和の初め頃からフライの六角竿(バンブーロッド) の製作を始めていて、この二代目は、バンブーロッド製作の機械化をいち早く進めた人なんですよ。

—— フライフィッシングの歴史を調べると、喜楽さんの名前は必ず出てきますよね。

 
マッキーさん:僕はフライロッドの作り方に興味があったんで、喜楽の親父さんが技術顧問のようなことをやっていた九州のダイコー (※8) を紹介してもらったんです。喜楽の親父さんは、アメリカからいろいろ手に入れた情報なんかをもとに、ダイコーにアドバイスをしてたみたいです。

僕はそのダイコーの九州の工場で、いろいろ質問をしながらフライロッドの作り方を教えてもらったんです。

※8 ダイコー:1951年創業の大丸興業におけるフィッシング・ブランド。1950年代はバンブーロッドの輸出を手がけ、1970年代にはカーボンロッドの製造を開始している。2014年に大丸興業がフィッシング事業から撤退。

単身アメリカに渡り、本場のフライショップやロッドメーカーを半年かけて現地調査。

日本でロッド・ビルディングについて学ぶだけでは飽き足らず、マッキーさんはフライロッドの本場を知るため、単身アメリカへ渡る。インターネットもスマホもなく海外へ行くこと自体のハードルが高った時代の話だ。英語を話せないにもかかわらず、探究心と好奇心に突き動かされ、現地のフライショップやロッドメーカーを半年間かけて体当たりで調査しにいく。

 

単身でのアメリカ行脚の話も詳しく語ってくれた。その行動力に驚かされる。

—— 日本でロッド・ビルディングについて学んだ後に、一人でアメリカにも行って、半年間も現地調査をされていますよね。

 
マッキーさん:最初は、日本から連絡してアメリカのメーカーのカタログなんかを、大量に取り寄せていたんです。それを見て仕入れをしていたんです。でも、カタログを見ていてもわからないこともたくさんあってね。それでアメリカに行くことにしました。やっぱりフライフィッシングの本場はアメリカでしたし、本場を知らないとと思いまして。行ってみて、やっぱりすごく勉強になりました。

—— フライならイギリスもありますよね。

 
マッキーさん:アメリカの方が華やかだったんですよ。イギリスも、その後に行きましたよ。イギリスには英語がぺらぺらな知り合いがいたんで、そいつと一緒でした。イギリスには有名な川が3本あって、そこで釣りがしたくて、そのうちの1つに行ったんです。一緒に行った知り合いに「何を釣りたい?」って言われて、「サーモンだ!」って即答しましたよ (笑)。

—— 単身渡米の話に戻りますが、フライフィッシングについて、海外の情報は限られていたでしょうし、当時はかなり海外に行くこともハードルが高かったと思います。

 
マッキーさん:当時はわかんないことだらけでしたよ。行った時は、アメリカ中を相当周りましたね。東海岸から始まって、西海岸までぐるっと。アメリカで、カタログや雑誌を仕入れては日本に送ってましたね。たんまりと集めて、それを箱に入れて向こうの郵便局から日本に送るんですよ。どうやって送っていいかもわからないんですよね (笑)。えらいことでしたよ。バークレーでは部屋も借りたんですよ。どうやって借りたのかも思い出せないですけど。僕もよく借りたなと。


自分のことを「アメリカかぶれ」というマッキーさん。シューズはいつもコンバースのオールスター。

—— その時、どんなメーカーを訪れたのですか。しかも英語も話せないなか、どんな風にアプローチしたのか気になります。

 
マッキーさん:ロッドメーカーに行っても、たいがい断られるんですよ。それがなんとかごにょごにょ言っているうちにね、有名なメーカーも話を聞いてくれたりするんです。

このときはスコット社 (※9) も訪ねました。スコットの店の前で親父がロッドを振ってたんです。自分にも振らせてくれと言ったら、やらせてくれたりしてね。しかもお茶なんかも馳走になりながら、ロッドを作っているところも見せてもらいました。

—— そのときに出会ったのは、スコット社の創業者ですかね?

 
マッキーさん:そうです。そのときロッドを振ってたのが創業者です。他には、ウィンストン (※10) やセージ (※11) にも行きました。パーツを扱う店にもいろいろ行きましたね。オービス (※12) は会社には行かなかったけど、お店に行くとどこにでもオービスはありましたね。

※9 スコット社:1973年にハリー・ウィルソンが創業したアメリカのフライロッドメーカー。グライファイト (カーボン) のフライロッドを早い時期から製作したメーカーのひとつ。アメリカでの一貫製作にこだわり続けており、現在も1本、1本のロッドをハンドクラフトする工法は変えていない。

※10 ウィンストン:1929年、ロバート・ウィンザーとルー・ストーナーにより、アメリカ・サンフランシスコで創業した、フライフィッシングのギアメーカー。

※11 セージ:1980年、伝説のロッドデザイナーと呼ばれたドン・グリーンがアメリカ・ワシントン州で創業した、フライフィッシングのギアメーカー。リールのデザインでも定評がある。

※12 オービス:1856年にチャールズ・F・オービスが、アメリカ・バーモント州で創業した、フライフィッシングの老舗ギアメーカー。現在は、総合フライフィッシング & アウトドアブランドとして知られている。

きれいなフライロッドがないことを商売の隙間ととらえ、「きれいに作る」を条件にする。

マッキーさんは、独学でロッド・ビルディングのやり方を学び、試行錯誤し、フライロッドの新しい形を作っていく。当時、マッキーさんは、フライロッドのロッド・ビルディングという新しい領域に、どのような可能性を見出していたのだろうか。

 

自分が作ったフライロッドを手に、製作背景を語ってくれた。 

—— 当時は、すでにカスタム・フライロッドのメーカーを作ろうとしていたのですか?

 
マッキーさん:最初からそうですよ。店の形はアメリカに行く前から頭の中ではできあがってましたね。

最初はフライフィッシングの釣り道具屋で、パーツやマテリアルなどの材料をアメリカから直接仕入れて、たくさん揃えてました。最初からそのうちロッドだけにしようとは、考えていたんです。一番ロッドが高くて商売になるんで。

当時は、アメリカのロッドが日本を席巻してたんですよ。日本のメーカーもアメリカのロッドを真似していたように思います。でも、僕は好きではなかったのですよね。

—— なぜ、アメリカのロッドは好きではなかったのですか?

 
マッキーさん:作りがきれいじゃなかったんです。僕がこの仕事をやろうと思ったのは、アメリカのロッドがきれいではなかったので、これなら勝負できると思ったからなんです。どこもきれいに作ってなかったから、それならばきれいに作ればいいじゃないかと。ここは商売の隙間だと思って、きれいに作ることを僕は条件にしたんですよ。


繊細なハンドクラフトの仕事で仕上げていく、マッキーさんのフライロッド。 

しかもフライフィッシングっていうのは、毛ばりが繊細でしょ。それなのに繊細にできているロッドが全然なかったんです。バンブーロッドでは多少ありましたけど、グラファイト (カーボン) のロッドではまったくなかったですね。

—— マッキーさんの作るロッドは、こまかな塗りも本当にきれいですよね。

 
マッキーさん:ロッドを塗るための機械も自分で作ったんですよ。きれいに塗るためには、塗料が垂れないよう回転させておく必要があるんです。そうすると均一になるんです。

もともとはアメリカの写真で、そんなような機械を見たことがあったんです。まずモーターを買うのに秋葉原に行って。でも素人が選んでるから、モーターの回転数とか何台も間違えて買ってしまって。

 
マッキーさんが自作した、ブランクをきれいに塗るための道具。

—— それまでのグラフィックデザインの仕事とは、全く違うことを始めたわけですが、ロッド・ビルディングの仕事にもグラフィックデザインの仕事との共通点があると感じていましたか?

 
マッキーさん:違う仕事でも、大概のことは頑張ればできるだろうと思っていました。デザインだって、そもそもデザインする前に考えることの方が重要であって、結果が形になって現れるだけです。形にする前の方が、大切な要素があると思います。良いロッドを作る前に、いろいろ考えることが大事だと思うので、そういうところは共通していると思います。

日本の環境に合った国産フライロッドのクラシックを作りだしていく。

マッキーさんの作るフライロッドの特徴は、ハンドクラフトによるそれまでにない美しさがひとつの特徴である。もうひとつは、アメリカのロッドが主流であったなか、日本の環境に合った使いやすさを追求した、日本のフライロッドの型を作っていったことにある。マッキーさんはどのような視点で日本に合ったフライロッドを作り出していったのだろうか。

 

固定概念にとらわれず、当時主流だったアメリカのフライロッドとは異なる、新しい日本のロッドを作っていく。

—— 当時主流だったアメリカのフライロッドとは違うロッドを作ろうとしたときに、最初に思い浮かんだものはなんですか?

 
マッキーさん:最初に考えたのはグリップですよね。アメリカのロッドのグリップを、日本でもみんな真似していたんですよ。でも、アメリカのグリップは、アメリカ人の大きい手で使うのに合わせた、太くて長いものだったんです。これはないだろと思って、僕は細くて短くしたの。だからグリップの形はオリジナルですよ。グリップが、ロッド全体の雰囲気に合うように自分でデザインしました。


日本人の手の大きさや、日本の小さな渓流で使うことなどを考え抜いた、オリジナルのグリップのデザイン。 

—— 他に、アメリカのグリップとの違いについて、どんなことを考えていましたか?

 
マッキーさん:アメリカのフライマンが紹介されるとき、みんなでかいストロークの写真なの。アメリカは川も大きいところが多いですからね。でも、日本の釣りは、小さい川が多いですから、そんな遠くに投げない。ちょっとしたストロークでいいんだって気づいたんです。そうするとグリップもごつい必要はないんです。

野球のバットや、テニス、バドミントン、ゴルフとか、どの道具のグリップも、みんな力を入れて握っていないんですよね。インパクトの瞬間だけ握っているんです。

—— どういう川で釣ることを想定してデザインしていたのですか?

 
マッキーさん:特にないですよ。そういうスタンスはないです。フライフィッシングというのは、技術の世界が相当大きいんですよ。それぞれの人が技術でカバーしますから。だから上手い人はほんとにどんなロッドでもどんな川でも、ちゃんと魚を引っ張り出してくるんです。

ロッド・ビルディングのノウハウを公開するのは、「道を聞かれたら教える」ようなもの。

マッキーズ・クリークの特徴はプロダクトだけでなく、場所にも宿っている。モノを売るためだけの店ではなく、ロッド・ビルディングができる工房も併設された場所でもあった。この場には、フライフィッシャーはもちろん、その5の<証言者>カムパネラや、バンブーロッドメーカーとして定評がある高田ロッド、クリハラロッドなど、多くの国産フライロッドメーカーが、ロッド・ビルディングの情報やノウハウを求めて訪れていた。

 

「ロッド・ビルディングができる工房が併設されたお店」というコンセプトの背景をうかがった。

—— マッキーズ・クリークをオープンしたときに、正確なフルネームは「MACKY’S CREEK FISHERMAN’S WORKSHOP」と名付けていらっしゃいました。

 
マッキーさん:人がいつも集まっているのが好きなんで。そういうのを店の中で自然とできたらいいなと思いまして。

—— ロッド・ビルディングについては、いつからお店で教え始めたのですか?

 
マッキーさん:オープンして、すぐですよ。器用な人ほど、お客さんも自分で組み立てようとしますよね。秘密の部分も、そんなにあるわけじゃないですよ。だから器用な人は、すぐやっちゃうんですよ。教える・教えないは、そんな大きな問題じゃないんですよ。

—— でも、マッキーさんご自身はロッドメーカーになろうとしてたわけですよね。シンプルな道具であるフライロッドを、塗り、削り、ガイドを付ける位置や個数など、細かい違いを考えて編み出して、苦労してノウハウを作ってきたわけですよね。それを、なぜ教えてしまうのでしょうか。

 
マッキーさん:そんなたいしたことじゃないですから、いいんですよ。テクニカルなものは、入り口は狭いけど、入ったら広がってくるというか。教えないようなこともあるんですけど、基本的に僕はオープンなんです。

—— 教えるのが好きなんですかね?

 
マッキーさん:なぜなんですかねぇ。普通のことですよね、道を聞かれたら教えるようなもんで。

—— とんでもないことですよ!

 
マッキーさん:そのくらい簡単なことなんですよ。


なんでもないことのように、マッキーさんは自分のノウハウを隠さず伝えることを語ってくれた。

—— 例えばカムパネラにも、ロッド・ビルディングのノウハウを伝えて、新しいメーカーができあがるきっかけにもなっています。

 
マッキーさん:カムパネラは、きれいなロッドを作りますよね。見事だと思います。ブランクの色を変えたりするのも、昔やりましたけど、あれ大変なんですよ。

—— なんでも教えちゃう。いろんな人が集まる。そういったマッキーズ・クリークという場所自体が、人やメーカーやフライフィッシングのシーンに、いろいろ影響を与えてきたと思うんですね。でも、メーカーならば、作り方は普通は企業秘密だとも思うんです。でもそうしなかった。だから、みんな集まったし、いろんなメーカーが生まれ、育つきっかけにもなったのかなと。

 
マッキーさん:日本のロッド・ビルディングが流行ったきっかけには、なっているのかもしれませんね。やったら面白いわけですからね。商売にすると、嫌な仕事ですけれどね(笑)。

でも、ロッドっていうのは、構造的に変えようがないものなんです。おにぎりを握るようなもんですよ。なかなか差が出ない。それに個性を出そうとすると、きれいな竿を作るということに尽きますね。誰が見てもきれいだねと。塗料がきれいに塗ってあるとか、むらがないとか、ロッドのしなりや硬さとかのアクションを調整するとか、そういうことに尽きちゃうんです。


 

全6回の特別連載企画でお届けしてきた、MACKY’S CREEK (マッキーズ・クリーク)のBRAND STORY。最後は<回顧録> として、マッキーさんご本人へのロングインタビューをお届けした。

フライフィッシャーの間では、言わずと知れた国産カスタム・フライロッドのパイオニアであるマッキーズ・クリーク。そこにはTRAILSが固執するトレイルカルチャーのひとつである、MYOG (Make Your Own Gear)に通底するカルチャー、ロッド・ビルディング (Make Your Own Rods)の源流があった。

マッキーさんは、自ら日本流のロッド・ビルディングを探求し、国産フライロッドのデザインや設計におけるクラシックを生み出した。また現在のオープンソース思想さながら、その探求結果であるノウハウを惜しげもなく公開するというアティテュードは、多くの国産フライロッドメーカー誕生の土壌さえも作りあげていった。

そのマッキーズ・クリークが、2022年8月31日、42年の歴史に幕を下ろした。宮坂雅木 (みやさか まさき) 氏の写鏡であるマッキーズ・クリークが残してくれたフィロソフィーとアティチュードを紡ぐべく、立ち上げ当初のマッキーズ・クリークの広告に書かれていたメッセージで締めくくりたい。

 

 

マッキーさん(写真中央)とマッキーズ・クリークに集まったフライフィッシャーの仲間たち。

<国産カスタム・フライロッドのパイオニア MACKY’S CREEK(マッキーズ・クリーク)>

その1 フライフィッシングの歴史 〜 「MACKY’S CREEK」誕生前夜

その2 「MACKY’S CREEK」と「ARTIST」

その3 <証言録>「ARTIST」というロッド(竿)

その4 <証言録>「MACKY’S CREEK」という場所

その5 <証言録> カムパネラ石川寛樹氏が語る「MACKY’S CREEK」

その6 <回顧録> 宮坂雅木氏が語る「MACKY’S CREEK」誕生秘話

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佐井聡(1979生)/和沙(1977生)
学生時代にバックパッカーとして旅をしていた2人が、2008年にウルトラライトハイキングというスタイルに出会い、旅する場所をトレイルに移していく。そして、2010年にアメリカのジョン・ミューア・トレイル、2011年にタスマニア島のオーバーランド・トラックなど、海外トレイルでの旅を通してトレイルにまつわるカルチャーへの関心が高まっていく。2013年、トレイルカルチャーにフォーカスしたメディアがなかったことをきっかけに、世界中のトレイルカルチャーを発信するウェブマガジン「TRAILS」をスタートさせた。

小川竜太(1980生)
国内外のトレイルを夫婦二人で歩き、そのハイキングムービーをTRAIL MOVIE WORKSとして発信。それと同時にTRAILSでもフィルマーとしてMovie制作に携わっていた。2015年末のTRAILS CARAVAN(ニュージーランドのロング・トリップ)から、TRAILSの正式クルーとしてジョイン。これまで旅してきたトレイルは、スイス、ニュージーランド、香港などの海外トレイル。日本でも信越トレイル、北根室ランチウェイ、国東半島峯道ロングトレイルなどのロング・ディスタンス・トレイルを歩いてきた。

[about TRAILS ]
TRAILS は、トレイルで遊ぶことに魅せられた人々の集まりです。トレイルに通い詰めるハイカーやランナーたち、エキサイティングなアウトドアショップやギアメーカーたちなど、最前線でトレイルシーンをひっぱるTRAILSたちが執筆、参画する日本初のトレイルカルチャーウェブマガジンです。有名無名を問わず世界中のTRAILSたちと編集部がコンタクトをとり、旅のモチベーションとなるトリップレポートやヒントとなるギアレビューなど、本当におもしろくて役に立つ情報を独自の切り口で発信していきます!

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