国産カスタム・フライロッドのパイオニア MACKY’S CREEK(マッキーズ・クリーク) – その1 フライフィッシングの歴史 〜 「MACKY’S CREEK」誕生前夜
文・構成:TRAILS 写真:宮坂雅木、柴田哲也、TRAILS
What’s BRAND STORY?/ 優れた製品を開発するメーカーには、それを実現させるだけの「他にはない何か」があるはず。でも普段の僕らは、つい新製品ばかりに注目しがちです。そこでBRAND STORYでは、編集部がリスペクトするあのメーカーの「他にはない何か」を自分たちの目で確認し、紹介したいと思っています。
Why MACKY’S CREEK?/ 1980年創業のMACKY’S CREEK (マッキーズ・クリーク ※1)。オーナーは、「マッキーさん」の愛称で親しまれている宮坂雅木 (みやさか まさき) 氏。フライフィッシャーの間では、言わずと知れた国産カスタム・フライロッドのパイオニアである。そんなマッキーズ・クリークが、2022年8月31年、42年の歴史に幕を下ろした。「MACKY’S CREEK」という場、およびマッキーさんが作り出したカスタム・フライロッドの製品シリーズ「ARTIST」が日本のフライフィッシングシーンに与えた影響とは。
* * *
マッキーズ・クリークの足跡を辿りなおし、その生い立ちから独自性、存在意義までを紐解いていく今回のBRAND STORY。本来は1ブランド1記事が原則だが、今回は日本のフライフィッシングシーンにおける歴史的とも言える瞬間にTRAILS読者のみなさんにも立ち会っていただきたく、特別連載企画としてお届けする。
日本において、フライフィッシングの黎明期は1960年代後半〜70年代と言われている。当時、イギリスやアメリカからインストラクターが来日し、各地でキャスティングの指導などをしたことを契機に、国内でフライフィッシングにおける技術や道具の普及が進んだ。80年代に入るとさらにその勢いが増すことになる。
そんな日本のフライフィッシングの勃興前夜、1980年に創業したのが、国産カスタム・フライロッド『ARTIST』(※2) を生み出したマッキーズ・クリークだ。
今回のBRAND STORYでは、フライフィッシングの歴史やシーンからの考察、関係者の証言構成、マッキーさん本人のインタビューなど、さまざまな角度からマッキーズ・クリークが持っている「他にはない何か」を浮き彫りにしていく。まず今回の「その1」では、まずはフライフィッシングの歴史から、マッキーズ・クリーク誕生前後のシーンまでを辿り、マッキーズ・クリークがどのような時代背景から誕生してきたか明らかにしていきたい。
はじめに断っておくが、マッキーズ・クリークの店主、宮坂雅木 (みやさか まさき) 氏 (以下、マッキーさん) は、褒め称えられたり、持ち上げられたりすることを好まない。不必要なメディア露出は控え、こうやって記事に取り上げられることも、自ら進んでやることはない。華美な自己顕示を良しとしない美意識をもった洒落た人なのだ。
でも、僕たちはどうしてもマッキーズ・クリークを紹介すべきだと思ったし、日本のフライフィッシングシーンに大きな影響を与えたお店が42年の歴史に幕を下ろした今、紹介しなければならないという使命感にも似た思いを強く抱いていた。今回、その思いをマッキーさんに直接伝えてご承諾をいただいたので、この連載をお届けすることになった。
フライフィッシングの発祥と変遷。イギリス、アメリカ、そして日本。
フライフィッシングは、欧米式の毛鉤 (けばり) であるフライ (水辺の生き物を模した疑似餌 ※3) を用いた釣りである。
起源を調べると、2000年以上前の文献に記されていて、紀元前の古代マケドニア人がハリに毛糸をつけてマスを釣っていたそうだ。
ただし、一般的には約500年前 (1400年代) にイギリスの貴族のたしなみとしてはじまったと言われることが多い。イギリス貴族においては、武芸や文学・歌などと並んで、狩猟や釣りなどの技芸に長けていることが、社交生活において重要であった。
そして技法だけでなく、その心得や精神性も含めて、格調高いイギリス紳士の釣りとして様式化され、カルチャーとして成熟していく。今もフライフィッシングに、道具としての機能美 (使いやすさ) だけでなく、品格や優雅さをまとった様式美 (美しさ) を感じるのは、このような由来に根ざしているからかもしれない。
1400年代と言えば、日本は室町時代。当時、魚を釣るのは漁師くらいだった。殺生を戒める仏教の教えが根強く、遊びとして釣りをすることは考えられなかった時代。庶民の遊びとして広まるのは、江戸和竿が勃興する江戸時代 (1603〜1868年) に入ってからだった。
19世紀に入り、フライフィッシングはアメリカへと渡り、イギリスとはまた異なる自然環境、多種多様な魚に適応したスタイルへと進化していく。
日本におけるフライフィッシングのはじまり。
日本に入ってきたのは、明治時代初期。1902年 (明治35年) には、貿易商として欧米と日本を行き来していたイギリス人のトーマス・グラバーが、日光の湯川にブルックトラウトを放流。そこでフライフィッシングを楽しんだ。これがきっかけで、中禅寺湖に流れ込む湯川は、後にフライフィッシングの聖地と呼ばれるようになる。
格調高い紳士のたしなみだったフライフィッシングは、これまでの日本の釣りにはなかった優雅さや気品があり、ファッション性に富んだそのスタイルは、新しい釣りのジャンルとして認識されるようになる。さらに昭和に入り1941年 (昭和16年) には、フライフィッシング入門書として『毛鉤釣教壇』 (金子正勝) が出版。徐々にフライフィッシングが広まっていく。
しかしその勢いは、第二次世界大戦で途絶えてしまい、戦後しばらくは低迷したままであった。その後、戦後復興が落ち着いた1960年頃から、ふたたびフライフィッシングが胎動しはじめることになる。
工業化以降の素材の進化と、フライフィッシングの発展。
工業化の流れとともに、ロッドの素材もバンブーから人工素材へと変わっていった。まず最初に登場したのが、ファイバーグラスだ。1944年 (昭和19年) に、カリフォルニア州ナショナル・シティにあったナショナル・リサーチ・アンド・マニュファクチャーリング・カンパニーのジム・ローヘッドが設計した、ソリッド・ロッドが、ファイバーグラス製ロッドの第一号と言われている。
ファイバーグラスは、戦時中にアメリカが長距離爆撃機の補助燃料タンク用に用いた素材。戦後アメリカの爆発的な人口増加に伴い、安価で軽量で大量生産に適した素材が求められる中、戦争で得た技術の平和利用として普及した。
ちなみに、歴史的な椅子として名高いイームズのファイバーグラスチェアが誕生したのも、1949年 (昭和24年) のこと。安価で耐久性が高く、さらにセンスの良い (デザイン性に優れた) 椅子は、アメリカ全土で人気を博した。
こういった安価で軽量性、耐久性、量産性を兼ね備えた新素材を活用したプロダクト開発や、工業化による大量生産を背景に、アメリカで数多くのロッド・メーカーが誕生し、安価で耐久性が高いフライロッドが次々に開発され、広まっていった。イギリスにおける貴族の遊びの系譜とは別に、アメリカではカジュアルなスタイルのフライフィッシングが発展していった。
新しいアメリカのアウトドア・カルチャーの波 (60年代〜70年代)。
日本における現代のフライフィッシングは、1960年代後半〜70年代にかけて広がり始めた。
それは時代背景も関係している。1955年 (昭和30年) からの高度経済成長により、日本経済は右肩上がりで成長。自動車業界や家電業界をはじめとした各メーカーが、海外から革新的な技術を取り入れるようになる。当然、海外メーカーの製品も国内に普及した。人々は物資的な豊かさを求める時代であった。
1964年 (昭和39年) には東京オリンピックが開催され、海外旅行も自由化。東海道新幹線や東名高速道路など、高速交通網も整備され、レジャーの大衆化も進み、釣りにおいては、アユの友釣りや磯釣りが人気を博した。
特にこの時代は、アメリカではカウンターカルチャーが台頭し、そのなかでヒッピーカルチャー、『ホール・アース・カタログ』に代表されるDIY志向のライフスタイル、そして「自然へ帰ろう」をスローガンにしたバックパッキングのムーヴメントなどが沸き起こる。コリン・フレッチャー『遊歩大全』 (1968)や、パタゴニアの前身であるシュイナード・イクイップメント (1965年設立)、ザ・ノース・フェイス (1968年設立)などもこの時代に生まれている。
これらアメリカで生まれた新しいカルチャーは、その後、日本では1975年 (昭和50年) に創刊した『MADE IN USAカタログ』、翌1976年 (昭和51年) に創刊したは『POPEYE』などを通じて、それまで日本になかった新しいファッションやカルチャーとして、多くの人を魅了した。そのなかでアメリカの新しいアウトドアカルチャーも次々と国内に紹介されるようになる。
そして当時、バックパッキングと並んで、アメリカで盛んになっていたアクティビティのひとつが、フライフィッシングだった。フライフィッシングは、「欧米の新しいフィッシング」として、それまでの日本の釣りとは異なる新しいスタイルの釣りとして紹介され、注目を集めた。そこでは釣り人はフィッシャーマンと呼ばれた。
マッキーズ・クリーク誕生前夜。70年代に日本のフライフィッシングが開花。
時を同じくして、1973年 (昭和48年) に『釣りキチ三平』の連載がスタートし、さらに1980年 (昭和55年) にテレビアニメが放映。子どもを中心に釣りブームが起こる。この時代に、徐々にフライフィッシングの人気も高まっていく。1986年には『釣りキチ三平』の単行本でフライフィッシング編も発売された。
とはいえ、まだ70年代初頭までは、ルアー、フライなど欧米の新しいフィッシングの情報を得るには、洋書を取り寄せるか、海外のメーカーカタログを読むしかなかった。それゆえまだごく一部の新しいもの好きの人だけの限られた世界であった。
その後、70年代中盤には、海外からフライフィッシングのインストラクターが来日しはじめる。この時期に来日したのは、アメリカのキャスティング大会で数々の受賞歴を誇るアン・ストローベル (※4) や、コートランド (※5) のレオン・チャンドラー、ハーディー (※6) のジム・ハーディーなどだ。各地でイベントやワークショップが開催され、これが契機となって、それまで知ることが難しかった、当時最新のフライフィッシングの技術と道具が急速に普及することになる。
フライロッドにおいては、70年代初頭はアメリカやイギリスからの高価な輸入品がほとんどだった。70年代後半から徐々に国内メーカーから安価な国産ロッドもリリースされるようになった。たとえば、当時、アメリカのオービス (※7) のロッド (ボロン・パワーハウス・ロッド) が85,000円に対し、国内メーカーのシマノのロッド (秘宝フライ) は24,500円という程の差があった。それほどに最初に入ってきた輸入品のロッドは、まだまだ一般のユーザーにとっては高価なものであった。
マッキーズ・クリーク創業当初は、国内では流通していなかった、さまざまなパーツやマテリアルを海外から仕入れて、完成品も含めて販売していた。同時に、店の半分は工房にしてロッド・ビルディング (ロッドのパーツを揃えて、ロッドを自分で組み上げること) を行なっていた。
今回の記事では、フライフィッシングの歴史から、マッキーズ・クリーク誕生前後のシーンまでを辿り、マッキーズ・クリークがどのような時代背景から誕生してきたかを見てきた。
次回の記事では、マッキーズ・クリークという場(お店・工房)、およびマッキーさんがつくり出した製品シリーズ「ARTIST」に宿る魅力について、さらに掘り下げていきたい。
<国産カスタム・フライロッドのパイオニア MACKY’S CREEK(マッキーズ・クリーク)>
その1 フライフィッシングの歴史 〜 「MACKY’S CREEK」誕生前夜
TAGS: