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話・写真:土屋智哉 取材・構成:TRAILS

ハイカーズデポ店主である土屋智哉が、ウルトラライト(UL)・ハイキングの歴史におけるハンモックを語った。土屋さんのUL的なハンモック愛とは?

実は土屋さんは、ゼロ年代初頭にハンモックに興味を抱き、国内でもいち早く輸入・販売を手がけている。そこには、最初から軽さだけではなく、“シンプル” であるという、ULハイキングの価値観がベースにあった。

そして、オリジンや源流を感じさせてくれることも大事にするのが、土屋さんのスタンス。ハンモックのオリジンである、ブラジリアンハンモックやメキシカンハンモックに対する思いも語られている。本文にも出てくるあしかけ6年、40泊以上の南の島でのハンモック泊の経験など、亜熱帯気候のなかでハンモックを使い続けてきたエピソードにも、オリジンを大切にする土屋さんらしさが滲みでている。

それでは、ULという文脈のなかで10年以上ハンモック・ハイキングを実践してきた土屋さんのお話を、お楽しみください。

※『HAMMOCKS for Hiker2017』で語った内容を、加筆・修正して掲載しています。

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ハンモックは、僕的にはシンプルな寝具というところがUL的なんです。


『HAMMOCKS for Hiker』(TRAILSとハイカーズデポが主催しているハンモックイベント)をはじめとして、最近いろいろハンモックのことを手がけている印象があるかもしれないんですけど、実は、ハイカーズデポのオープン当時(2008年)からハンモックは扱っていて。でも最初のうちは、「なぜハイカーズデポでハンモックなんですか?」という声も実際のところあったんですよ。

たしかに、一見ウルトラライト・ハイキングの道具ではないように思えるかもしれません。でも、ULハイキングの文脈においては『軽さ』『シンプルさ』という2つの視点があるわけで、僕は、ハンモックを “シンプル” な寝具と捉えていたのです。

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同じ視点で考えたとき、自分は、暖かい季節は寝袋の代わりにブランケットでもいいよねと思っていて。それで、ペンドルトンをウチの店に置いていることもありました。

僕のなかでは、ULは軽いということだけじゃない。軽さの向こう側にあるシンプルさを感じられること、それを大事にしているんですよね。だからハンモックはすごくULと関連しているし、ずっと前からタープなんかと同じような眼差しで見ていたものなんです。


ゼロ年代初頭、ヘネシー・ハンモックが与えた、ULハイクにハンモックが使えるという衝撃。


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ヘネシー・ハンモックは、タープとバグネットとハンモックの一体型というシステムで、『宿泊道具としてのハンモック』を確立させたブランド。

ハンモックに強く興味を抱いたきっかけが2つあるんです。ひとつは、ヘネシー・ハンモック(*1)です。これは、『宿泊道具としてのハンモック』を確立させたブランドです。たしか、2002年の北米のORショー(Outdoor Retailer Show:世界最大級を誇るアウトドア関連の総合見本市)に出展していたと思うんですが、その製品がとにかく衝撃的で。

ハンモックがULハイキングに使えるものだということを教えてくれたのがヘネシー・ハンモックだったんです。当時僕は、前職のアウトドアショップでバイヤーをやっていたので、買い付けてお店で扱っていました。そのときはまだ日本で正式な代理店が入る前でしたね。

一方で、同じ時期に川崎一さん(*2)が、ブログですごく早いタイミングでゴーライトのヘックス(ピラミッドシェルター)やジェットボイルとかと一緒に、ヘネシー・ハンモックを紹介していて。ですから、ハンモックはここ数年で急に出てきたわけではなく、日本のULカルチャー黎明期の頃から注目されていたギアでもあるわけです。

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もうひとつは、ハンモック2000(*3)。実はハイカーズデポ創業時には、このハンモックも、取扱商品として店頭にラインナップしていました。ハンモック2000は日本のハンモックメーカーで、当時よく全国のフェスとかに出展していました。このメーカーの製品は、中南米のオリジナルのハンモックをベースにしてつくっているんです。

僕はもともと、お店で扱うモノに関してはできる限りオリジンや源流を感じられるものでありたい、という思いがあるんです。たとえば、最近ではTRAIL BUMとかもそうですね。だからハンモックに関しても、本来は中南米のリアルな日常生活で使われているわけですから、そこから生まれたハンモック2000に興味を抱いたんです。

ゼロ年代前半頃から、僕はハンモックについて、軽さよりもシンプルであることに意義を見出していました。その意味で、前職の時代から、ヘネシー・ハンモックとハンモック2000という二つのハンモックブランドを取り扱ったことで、僕のなかで現在まで通じるハンモックに対する認識のベースができあがりました。

*1 『シェルターとしてのハンモック』というジャンルを生み出したハンモックブランド。ヘネシー・ハンモックやMLDなど当時のガレージメーカーが、軍の放出品(surplus)を使って、ハンモックのシェルターシステムを開発した歴史は、過去記事の「ハンモックの歴史と魅力」で詳しく紹介している。(http://thetrailsmag.com/archives/8389
*2 国内のULカルチャー黎明期を代表する人物のひとり。川崎さんの「狩野川のほとりにて」は、アメリカのULハイキングやガレージメーカーについての情報をいち早く発信し、日本のULカルチャー黎明期に多大な影響を与えた。(https://thetrailsmag.com/archives/2635
*3 オリジナルのハッモックを扱う日本のメーカー。東京と山梨にショールームもある。


毎年行く南の島のジャングルでは、かならずハンモックを持って行っています。そこであらためて、ハンモックっていいなあと思いましたね。


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僕はハンモックにUL的な価値を見出していたのですが、実際にはフェスやオートキャンプのアイテムとしてしか見られないのが現実でした。それで、ハンモックをハイキングで使うリアリティを求めるべく、自分のハイキングにも積極的に取り入れるようにしました。

毎年3月後半に、僕は仲間と南の島に10日間くらい旅をしに行っているんです。もうかれこれ6年くらい通っているけど、そこではかならずハンモックなんです。あしかけ6年、40泊以上のハンモック泊は、ジャングル内から海岸まで、晴天からスコールまで、さまざまな条件でのハンモック泊のテストにもなりました。ちなみに、いちばん最初に使ったのはヘネシー・ハンモックです。

もちろん使う理由もちゃんとあって。そこはジャングルみたいなところなんですが、地面は湿っているし、虫や蛇もいたりするのでタープだとちょっとイヤだなと。かといってテントじゃつまらないし、それじゃあハンモックだろうと。

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日本の山って、幕営指定地以外で平らなところが少ないじゃないですか。つまりテントが張りにくい。南の島はそれをリアルに体験できる場所でした。あらためて、ハンモックってすごくいいなあと思いましたね。

あとは、アパラチアン・トレイル(AT)でも使いました。僕が歩いたのは、「100 Mile Wilderness」というATのラストセクションです。ハイキングの世界でハンモックが注目されはじめたのはアメリカの東海岸。ATではダニ問題があるんですが、それを避けるためにハンモックを使ったハイキングが定着していたんです。それもあって、本場に行くならハンモックしかないっしょ!という感じで使用しました。

実際使ってみて、ジャングルはもちろん森のなかで過ごすにはとても合理的なギアだなと思いました。

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でも、機能や合理性がすべてではない。南の島のビーチでハンモック吊るして酒飲んで寝て。結局はそれがサイコーなんです。


ULハイキングにおけるハンモックの機能や合理性もたしかに素晴らしいんだけど、僕自身、使っているうちにノリが変わってきて(苦笑)。

たとえば、これまで道具とかをお客さんに提案する際に、大丈夫ですよ!ってことを伝えるためには、こういう機能があってこういうところで使えます、とまずは機能が最初にくるじゃないですか。でも一方で、これを使ってこういう風に遊びたいんだよね、と機能よりもスタイルや雰囲気を重視する人もいるわけです。

僕なんかもだんだん雰囲気重視になってきて、屋根もバグネットもないenoのsub7みたいなシンプルなハンモックを使うことが多くなってきました。南の島のビーチでハンモック吊るして酒飲んで寝て。もうそういうのがサイコーじゃないですか!

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『ハンモック × タープ』は、無敵に近い。


ハンモックは、木をはじめとした支点がないと張ることができない。そこが最大の弱点ではあるんですが、でも工夫次第なんですよ。

たとえば僕の南の島の場合、浜辺に木がなかったりするのですが、岩を支点として使うためにスリングを用いていました。満潮になると陸地がなくなるところがたくさんあって、ここはもうハンモックじゃないと誰も寝られないだろうなあって感じでしたね。でもこういうところで張れるようになると、もう何も怖くない。どこでも大丈夫!っていう自信がつきます。

万が一、どうしてもハンモックが張れないようであれば、タープだけ張ればいいわけで。いま自分のなかでは、ハンモックとタープの組み合わせって、雰囲気もすごくいいし、どんなところでも寝られるし、かなりパーフェクトな組み合わせに近いんですよ(*4)。

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南の島では、岩にスリングをくくりつけて支点をつくり、ハンモックを設営した。

正直なところ、日本ではまだテント場でハンモックを張ったときに、ニコニコしてオッケーって言ってくれる場所は少ないだろうけどね。でも、そういうことができて、そして木がなかったらタープで寝て、っていう山旅が日本でもっとできるようになるのが理想です。

*4 ハイカーズデポ二宮の39日間の北米バイクパッキングの旅も、ハンモック × タープの組み合わせで過ごした。そこでもハンモックの「無敵さ」と「不完全さ」が語られている。(詳しくはこちら http://thetrailsmag.com/archives/13122


無くても困らないけど、あったらすごく楽しみが増える道具。


ULハイキングも僕が始めた頃、特に2000年代初頭は『タープって大丈夫なんですか?』という意見がいっぱいありました。ハンモックもいろいろあるとは思うんですが、でも、楽しいことはできる限り続けたいじゃないですか。

さまざまな山の楽しみ方があるなかで、ただ山の中で泊まりたい、ゆっくり寝たいという人も多いんですよね。ハンモックは、そういう人の楽しみの可能性も広げてくれる道具だと思うんです。

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だから楽しむことを守っていきたい。もちろん、隠れてこっそりやりましょう!と言いたいわけではなくて。みんなでハンモックの可能性とか、どういう風に使っていったらいいかとか、そういうことを考えていければと思っています。

なぜなら、ハンモックは僕自身も楽しんでいるし、使うだけの価値がある道具だし、何より、無くても困らないけどあったらすごく楽しみが増える道具だからです。

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土屋智哉 × 宮内優里「ULとアンビエントミュージックが”シンプル”にたどりついた理由」

話:土屋智哉 取材/構成:TRAILS

「映像や音と同じように、私達が旅にでる衝動を感じるきっかけとして『本』というものも間違いなく存在するはずです。それは、紀行文であったり、冒険記であったり、あるいは哲学書や、逆になんて事のない日々の出来事を綴った随筆のようなものかもしれません。」(cafe STAND 「POP HIKE CHIBA」案内文より)

UL(ウルトラライト)とは、道具を軽くするというだけの話ではなく、軽くシンプルになって、山のなかにいること自体をもっと楽しもうよ、山の中で感覚をひらくことをもっと大切にしようよ、という姿勢を大事にすることでもある。それって、道具を軽くすること以上に大切なことかもしれない。

けど、そういった感覚を、言葉にすることは意外と難しい。本や文学は、そんな感覚について、そうそうそういう感じ、と教えてくれたり、自分のなかにある模糊とした感性を拾い上げてくれたりする。

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以下に掲載したのは、今回のPOP HIKE CHIBAで、ハイカーズデポ土屋さんが「ウルトラライトを巡る旅と本の話」と題して、紹介してくれた本の話だ。その内容は、たんなる本の紹介にとどまらず、本を紹介する土屋さんの話自体が、ウルトラライトやロングディスタンスハイキングについて、その本質やフィロソフィーを教えてくれる、きわめて優れた解説文にもなっている。

年の暮れから年初めのゆっくりできるとき、あらためて山を想う。今回の話は、そんなときの心のバイブを満たしてくれる最高のガイドにもなるだろう。年末年始にまったり読んでもらえるように、ほぼノーカットでいつもよりも長いテキストで掲載した。追加インタビューをもとに、当日に語りきれなかった本の話も加えてある。ゆったりまどろんだあなたの部屋のなかで、あるいは山のテントのなかで、ゆっくりと読んでもらえたらと思う。


山にいること自体を楽しむとか、ロングハイクの旅のイメージは、いろんな本のなかからも拾うことができるんです


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山にいることを楽しむ。それって、自然と自分との距離をどれだけ近づけられるか、ってことになると思うんですね。で、じゃあそういう楽しみ方ってどういうことなんだろう、っていうのを考えたときに、意外と本の中からもそういうものが拾えることってたくさんあるんですよね。

山のことを読もうと思うと、いまは雑誌がメインになってしまうというのはあるんだけども、実はいままで出版されてきた本(※単行本)のなかでも、山を感じられるとか、シンプルに自然を楽しむとか、そういうことも、実はいろんな本のなかに隠されていたりします。ウルトラライトっていうのも、シンプルになることで山をもっと近くで感じたい、っていうことがあったりします。

ウルトラライトのもとになったもので、ロングトレイルやロングハイクっていうのがあります。でもロングトレイルという言葉は聞くけども、じゃあロングトレイルの紀行文みたいな本っていうと、なかなかないんですよね。でも、ロングトレイルっていう長い歩き旅を感じられるもの、という視点で見直すと、そういう本は意外とあるんです。

■土屋智哉が選んだ 「ウルトラライトを巡る旅と本」 POP HIKE CHIBA ver.
ヤンソン『ムーミン谷の仲間たち』講談社文庫
西岡一雄『泉を聴く』中公文庫
串田孫一『山のパンセ』岩波文庫
知里幸恵『アイヌ神謡集』岩波文庫
志水哲也『果てしなき山稜』ヤマケイ文庫
河口慧海『河口慧海日記』講談社学術文庫
田部重治『新編 山と渓谷』 岩波文庫
上田哲農『きのうの山 きょうの山』中公文庫
阿部喜三男‎, 高岡松雄, 松尾靖秋『芭蕉と旅』現代教養文庫
ソーロー『森の生活』岩波文庫
ジャック・ケルアック『路上』河出文庫
鈴木大拙『東洋的な見方』岩波文庫
ジョン・クラカワー『荒野へ』集英社文庫
ヘミングウェイ『老人と海』新潮文庫
ジャック・ロンドン『荒野の叫び声』岩波文庫


ウルトラライトのイメージを一番素敵なかたちで見せてくれているのが、スナフキンなんじゃないか、って思ってるんです。


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ヤンソン『ムーミン谷の仲間たち』講談社文庫

今日、持ってきたのは、純粋な山の本とか紀行文とかではないんです。まずは、ムーミン谷の本からいきましょうか。

ムーミンの本のなかには、シンプルな旅をするっていう感覚があります。このなかでスナフキンというのが出てきますよね。僕は自分のお店(ハイカーズデポ)で、ウルトラライトハイキングってどんなイメージですか?っていうのを、初めての人に話すときに、それはスナフキンだ、っていう話をするんですよ。

僕自身がそうなれるわけではないんだけど、スナフキンに憧れている部分も少しあるんですよね。どういうことかというと、ムーミンのなかに出てくるスナフキンって、たくさんの荷物は持ってないですよね。それで放浪するような旅をしてるじゃないですか。『ムーミン谷の仲間たち』のなかにも、こんな一節があります。

「三月のすえの、あるよくはれた、おだやかな日のことでした。北へ北へとめざしてきたスナフキンは、まだ山の北側に雪がきえのこっているあたりまできました。かれは、南の故郷をでて、小鳥がさえずっているのなんかをききながら、だれにもあわずに、一日じゅう歩いてきたのです。」
(ヤンソン『ムーミン谷の仲間たち』山室静訳, 講談社文庫より)

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スナフキンって、べつにハイテクなテントを持って旅をするわけではなく、雨が降りそうになったらば、木の木陰とか雨がちょっとしのげるところに入る。寝袋を持つわけでもなく、夜になったらば、毛布を敷いたり、かぶったりする。バーナーを持ってくるわけでもなく、そこで焚き火を起こして、お湯をわかして、持っているパンをかじる。夜は星をながめて、朝は朝で小鳥のさえずりを聞いて目が覚める。とにかくひたすら歩いて旅をして。何か目的があるわけではなく、ただ自然の中を歩いて旅をしていますよね。

そういう姿とか、そういう旅のあり方っていうのが、一番シンプルな旅なのかもしれないなと思うんです。山に行くとなると、山で何をするか、っていう目的も山のなかに持っていってしまいがちですよね。もちろん写真を撮るとか、絵を描くとか、ご飯を食べるとか、お酒を飲むとか、それはそれでとても素敵な楽しみです。

そうなんだけれども、山にいること自体を楽しむとか、歩くこと自体を楽しむっていうのも、あっていいんじゃないのかな、って思っています。じゃあそれってどういうこと?っていうと、なかなかイメージしづらいんだけど、一番素敵なかたちで見せてくれるのが、スナフキンなんじゃないのかなと思っています。だから僕は、ウルトラライトって何?っていうと、一番わかりやすいのはスナフキンですよっていう話をするんです。


昭和期の先鋭的な山登りをしていた人のなかにも、身近な里山を歩いたりして、ああ、やっぱりこういうのもいいなあって思うような人がいたんですね。


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西岡一雄『泉を聴く』中公文庫
串田孫一『山のパンセ』岩波文庫

いま話をしたスナフキンのような山の楽しみ方って、実はそんなに目新しいものではなかったりします。日本だと、昭和30~40年代は山ブームだったんですよ。そのときは山の文学もけっこうあったんです。たとえば中公文庫なんかには、昔の岳人や山を歩く人たちが書いた、いろんな本があったりします。

そのなかで「静観派」っていう言葉があります。登山が流行ったときって、その登山の理想像というか、目指した先のゴールは、ヒマラヤだったんですよね。より高くより難しく、というのが、山登りの世界です、っていう時代があったんです。

でも、そういう先鋭的な山登りをしていた人のなかにも、そういうのにちょっと疲れてしまったときに、身近な里山を歩いたりして、ああ、やっぱりこういうのもいいなあって思うような人がいたんですね。今日来た方も、どっちかっていうとのんびりと山を歩くのが好き、っていう方が多いと思うんです。

西岡一雄さんという方が書いた『泉を聴く』という本があります。タイトルからしてぐっときますね。泉を見るではなく、泉を聴くなんです。実はこの人が、みなさんもご利用する(アウトドアショップの)好日山荘さんを作った人なんです。

この人はクライミングをかなりやっていた人なんですね。先鋭的な登山をしていた人です。ハードな登山をやってたんだけど、この本ではハードな登山じゃなくて、静かな山のなかで感じられる風の音だったりとか、鳥の声だったりとか、峠を越えて歩く楽しさだったりとか、里山での人の触れ合いだったりとか、森のよさみたいなものを、書いてるんですね。難しい登山をしましょうとか、普通の人ができないことをしましょうとかではなくて、単純に山のなかで自然を感じましょう、ということですよね。

こういうことを書いている静観派、って呼ばれ山の文学があったんです。古い本の中には、こういう本もたくさんあります。今回のPOP HIKE CHIBAとかで集まるような人たちが、好きなスタイルなんじゃないのかなあとも思います。


昔の本を読むと、旅情感を誘われます。すごく“旅感”があるんです。山で何をしたっていう話よりも、山で何を感じたっていう話が多いんです。


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昔の本を読むと、旅情感を誘われます。すごく“旅感”があるんです。山で何をしたっていう話よりも、山で何を感じたっていう話が多いんです。そういう本のなかで、『山のパンセ』っていう本があります。串田孫一さんの本ですね。

こういう昔の人の随筆は、タイトルだけを見ていても面白いです。ちなみに『山のパンセ』のなかに、「不安の夜」っていうのがあります。楽しく夜を過ごすのではなく、山のなかでテントで眠るとき、不安なことってあるじゃないですか。風のバサバサいう音が余計に聞こえてきたりして、べつにたいしたことじゃないんだけど、これからもっと風が強くなったらどうなるんだろうとか。ちょっとした雨の音が気になったりだとか。山で不安な夜を過ごすことって誰もがあると思うんですよね。

そういう誰もが感じる不安な夜って、自然のなかにいるから感じられることですよね。山小屋や街のなかだったらば、感じられないことだと思うんです。山に入って、山のなかで布一枚のテントのなかで寝てるから感じられることです。不安なのは嫌なことかもしれないけど、でもそれって、とても自然を感じられているときでもありますよね。


自然のなかで暮らす、自然を知る、ということに関心がわいてくると、ネイティブの人たちの生き方や考え方にも興味がでてきます。


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知里幸恵『アイヌ神謡集』岩波文庫

自然のなかで生活するっていうことでいうと、たとえばソローの『森の生活』という本がありますが、POP HIKE CHIBAに来ている方は、自然のなかで暮らすとかいうことについては、もしかしたらネイティブ・アメリカンやアイヌといった、先住民とか原住民の人たちの暮らしや知恵とかに、興味がある人も多いかもしれませんね。自然のなかで暮らす、自然を知る、自然を感じる、ということに関心がわいてくると、こういった人々の生き方や考え方にも興味がでてきますよね。

この『アイヌ神謡集』という本は、アイヌの19歳の女性の方が書いた本なんですよ。アイヌ語で口伝えに謡い継がれてきた神謡をまとめた本です。日本人には八百万神(やおよろずのかみ)という考え方がありますよね。今日のハイキング中に見た巨木みたいに、自然のなかで何かを見ると拝みたくなったりします。おそらくネイティブの人たちの感性や考え方とかって、日本人はすっと入ってくると思うんですよね。

『アイヌ神謡集』のような本を読んだ後に山に行くと、自然の感じ方が変わってくるんじゃないかなと思います。木のとらえ方とか、風の音をどう感じるかとか、海をどう見るのかとか、川の流れをどう見るのかとか、水そのものをどう考えるかとか。そういったように自然をどう感じるかが変わっくるのが、とても面白いと思います。


日本人がやっていた北海道のロングハイクの旅。いにしえの日本人の旅に感じるUL的な感性。


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志水哲也『果てしなき山稜』ヤマケイ文庫
河口慧海『河口慧海日記』講談社学術文庫

さっき話していたような、ロングトレイルやロングディスタンスハイキング(ロングハイク)っていう山の長旅のカルチャーがあるんですけれども、それそのものを書いた紀行文っていうのは実はそんなにないんですね。

志水哲也さんが書いた『果てしなき山稜』という本があって、これは、北海道の南の襟裳岬から北の宗谷岬まで、雪の時期に全部通しで歩いた人の話です。実はこの本で書いていることって、アメリカのロングハイクのやり方にとても近いんですよね。

ロングハイクで6ヶ月も歩く、っていってもなかなか想像つかないじゃないですか。あたりまえですが、6ヶ月分の食料なんて担げないじゃないですか。僕らみたいに登山をやっていた人間だと、長く歩くっていうのは全部担ぐっていうイメージをしがちだけど、実は4~5日山を歩くっていうことの繰り返しなんですよね。

たとえばアメリカのロングトレイルを歩くハイカーたちが、どういうスタイルで歩いているかというと、4~5日歩いてはふもとに降りるんです。そこで休憩して、次の分の食料を買って、また4~5日とか一週間とか山に入って、それでまたふもとに降りて、という繰り返しなんです。山を長く歩くっていうのは実はそういうスタイルなんですよ。この『果てしなき山稜』に書かかれている旅では、まさにそういうやり方で歩いているんです。この本が出た当時(※初版1995年)はロングハイクの見方をすることは、ほとんどなかったんだけども、いま改めて見ると、実はそういったロングハイクのスタイルなんですよね。

『果てしなき山稜』は、志水哲也さんが歩いた北海道の旅の記録なんだけど、長く歩いていると、どんどん内省的になってくんですよね。北海道を歩きながら、自然の景色や凄さに感動するんですけど、それ以上に歩いてる自分って何なんだろうとか、そういう方向にいくんですよね。

この本を書いてるときって志水さんが若い時だから、働きもしないで、山をずっと歩いている自分は何なんだ、みたいな感じで、疑問とか葛藤とかも出てくるんですよ。ロングハイクのスタイルだけでなくって、そういった葛藤とか、ロングトレイルを長く旅する人の心持ちも、すごく文章としてあらわれてるんですよね。

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同じような日本人による長旅の本だったらば、河口慧海(かわぐち えかい)という、日本人で初めてチベットに入国をした人の本があります。そのチベットへの旅の話が、『河口慧海日記』という本になっています。

昔の人の歩き方って、かなりUL度が高くなりますよね。UL(ウルトラライト)の文脈だと、グラン・エマ(※1954年に、当時67歳で3500kmにおよぶアメリカのロングトレイルをスルーハイクしたおばあちゃん)の話がよくでてきます。シャワーカーテンをテントにして、Kedsのスニーカーを履いて、ずた袋をバックパック代わりにして歩いちゃう、という話ですね。

そういったように昔の人の旅のスタイルって、いまもヒントをあたえてくれたります。河口慧海は、この当時(明治33年
/1900年)に、チベット仏教の経典を求めて、チベットのラサへ向かう旅をしたわけです。登山として行っているわけではなく、旅ですよね。もちろんテクニカルなテントなんかがあるわけでもないんです。その旅のなかで、いろんな町に行くわけだけれども、それこそロングハイクのように、町から町のあいだは、当然、山のなかを越えなければいけないから山道を歩く、という感じですよね。その途中で野営をしなければいけない場合は、岩陰をさがして野営をしたるするわけです。着ているものとかも、着の身着のままのシンプルなかたちであったりとかします。

そういうのって、ある意味、ウルトラライトっぽいですよね。ウルトラライトって、軽いってことだけじゃなくって、シンプルということが大事なんだ、というときに、こういった本を読むと、気づかされることがあります。

【次ページ:後半はUL哲学について、日本のULの原点から、北米カウンターカルチャーの自然観まで、さらに縦横無尽に語ってくれます

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【POP HIKE CHIBA対談】土屋智哉 × 宮内優里「ULとアンビエントミュージックが”シンプル”にたどりついた理由」


ロングトレイルのカルチャーや、ハイカーによる実践的なノウハウがつめこんだ一冊


NIPPON TRAIL #03 熊野古道 〜山と集落をつなぐハイキングトリップ

文:根津貴央 構成:TRAILS 写真提供:ハイカーズデポ

「UL級軽量化」が当たり前に実現できるようになった今、ウルトラライト(UL)が私たちにもたらしてくれるものは何だろうか。土屋さんは「ULの出自であるロングディスタンスハイキングの本質を知らずして、ULの本質を語れるのか」という問いかけをくり返してきた。そのなかでゼロ年代のUL1.0の渾然とした熱狂の時代を経て、現在の土屋さんは、ULがもたらしてくれる本来の価値を気負いなく見つめている。今はUL1.0的な時代ではなく、あきらかに次のステージにはいった。UL1.0への懐古でなく、現在の視点でウルトラライトの楽しさを享受するために「UL2.0」という名前を使った。

本稿は土屋さん個人の、ロングディスタンスハイキングの葛藤の軌跡を追いつつ、「UL2.0とは何か」というアクチュアルなULの現在地について語られたものである。それは同時に、土屋さんの道具論、ハイキング論の現在地を語るものとなった。

前編から続き、LONG DISTANCE HIKERS DAYでの「ロングトレイル・コンプレックス」という土屋さんの発表を再構成した内容に加え、本レポートでは「UL2.0とは何か」という土屋さんへの追跡インタビューを加えたもので構成した。

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2016年、鳥取に来日したレイ・ジャーディンと対面した土屋さん。「軽さ」だけではない「シンプル」をベースにした道具に対するレイの哲学を聞き、ULの本質に立ち返る。(写真提供) Ryu Katsumata


ULはロングトレイルでも使えるんだ、という証明だけではおわれなかった


本稿の前編でも触れたように、ゼロ年代に興隆したUL1.0の時代は、大きく2つの流れがあった。ひとつはロングディスタンスハイキングのための、軽くてシンプルな道具という流れ。これは自然のなかで長い歩き旅をしたいというモチベーションにより駆動していた。もう一方で、バックパッキングライト(BPL)に代表されるような、極限的な軽さを求める実験的な道具の進化という流れがあった。これは道具やスタイルの革新性を求めるモチベーションによって駆動していた。この2つの流れが一緒くたとなって、UL1.0はあらたなバックパッキングのムーブメントとして成長していった。

しかし「軽さ」というわかりやすい基準を前に、この2つの動きは目的やモチベーションが混合して発展してきた。むしろ渾然一体となった動きに魅了されるなかで、土屋さん自身も、軽さの実験と、ロングディスタンスハイキングの本質との関係性をつかみきれず、ある種の負い目を感じていくこととなる。

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2005年頃。ULの装備で、奥多摩奥秩父主稜線の縦走路を歩く土屋さん。

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2008年ジョン・ミューア・トレイルでの土屋さんの道具。「ULってほんとに使えるの?って議論がまだまだ多かったときなんで、使えるんだよ!っていうのを本場で証明したかったんです」(土屋)

土屋さんの現在にいたるまでの約10 年のなかで、トピックとなるロングディスタンスハイキングを以下にリスト化してみた。

2005年 奥多摩奥秩父主稜線/80㎞・3日間
2008年 ジョン・ミューア・トレイル(JMT)/340㎞・13日間
2011年 コロラド・トレイル(CT)/640㎞・19日間
2012年 コロラド・トレイル(CT)/160㎞・6日間
2014年 100マイルズ・ウィルダネス(アパラチアン・トレイル)/240㎞・10日間
2015年 中央ハイトレイル(CHT)/300㎞・16日間

−土屋 「2005年当時は、ネットの掲示板とかでULはすごい叩かれていたんですよ。僕はふざけるな!ULは使えるんだ!って思ってたので、それを試すために奥多摩奥秩父の主稜線を歩きました。要は実験なんで、ハイキングが楽しいというよりも、ULの証明に一生懸命になっていたんだと思います(苦笑)。JMTもそう。ULってほんとに使えるの?って議論がまだまだ多かったときなんで、使えるんだよ!っていうのを本場で証明したかったんです」

2005年奥秩父縦走〜2008年JMTまでは、ULは使える道具だ、という証明のためのロングハイキングだった。ハイカーズデポ開業から3年ほどたった頃、ULも一定に認知を獲得し、ULの有用性を示す実験的なハイキングの必要性も薄れてく。2011年のコロラド・トレイル以降は、「UL誕生の母体となったロングトレイルの旅とは何か」というリアルな体験をすることが、あらたな旅の目的となった。

−土屋 「この頃は舟田くんとか長谷川とかが言う、リアルなロングディスタンスハイキングっていうものを、自分もきちんと実感しようという思いが強かったんです。それで2011〜2012年のコロラド・トレイルとその後のアパラチアン・トレイルのセクションハイク。ただこの頃は、街で補給しながら、トレイルと街をつなぐ旅さえすればロングディスタンスハイキングになるのかな?と思っているふしがあるわけです。でも補給をしながら一定の長さを歩いたけれど、『日常と非日常の逆転』とか『非日常の日常化』みたいなスルーハイカーたちが話していたロングトレイルの醍醐味が味わえない。体感知としてわかんない!って言うのが、このときの正直な感想だったんです。だから帰ってからも悶々としているわけです…」

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ULの証明のためのハイキングというステージを通過し、ULスタイルでのリアルなロングトレイルの旅を求めて歩いたコロラド・トレイル(2011〜2012年)。しかしスルーハイカーの実感をつかみきれずに帰国することに…


土屋さんのUL前史。目的とチャレンジが前面にあった探検部時代。


土屋さんが、スルーハイカーの話から汲み取った、ロングディスタンスハイキングの4つの要素。「日常と非日常との連続性」。誰もができる「特別ではない普通のこと」。長いがゆえ「がんばらなくなる」「気負わなくなる」こと。それはおそらくは、純粋なハイカーであればジョン・ミューア・トレイルやコロラド・トレイルでも、十分に味わえることだと土屋さんは言う。問題はトレイルや距離ではなく、土屋さんのなかで積み重なってきた歴史だった。

−土屋 「振り返ってみれば個人旅行とか自分のための旅っていうのが、僕にはほとんどなかったんです。僕は学生時代から山をやってるんで、今まで25年間くらい山やってるんですよね。昔は探検部で、洞窟調査とかで海外遠征はよく行っていたんです。アラスカ、ニューギニア、東チベットとか。2~3ヶ月にわたって海外に長くいるという経験もたくさんしている。ただ、それがぜんぶ旅行じゃないんですよ。目的がある遠征だから。計画書をつくって、トレーニングして、渉外やって、許可証とって、隊員のマネジメントもやって。お仕事だし、充実感もあった。ただ、すべてが目的をもっていく旅だったんです」

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学生時代からずっと土屋さんのアウトドアの旅には、明確な目的があった。ULに衝撃と可能性を感じたあとも、「ウルトラライトのための」旅を続けた。それがロングトレイルのリアルを体感したいと思ったときに、知らずのうちに邪魔をするようになっていた。

−土屋 「その性分みたいなものは、自分のなかにずっと残っているので、実は今までやってきたロングディスタンスハイキングも、自分個人の旅をしているようでも、ぜんぶ実験とか、目的が強すぎるんです。山や自然を楽しむとか、歩くことを楽しむとか、そういうのって感じてはいるけど、そこじゃない目的があまりにも強すぎたんですよね」

土屋さんの2014年までのハイキングトリップは、ULの実験だったり、ロングディスタンスハイキングの体感だったりと、そのすべてに目指すべき目的がしっかりとあった。目的が強すぎたことが、ロングディスタンスハイキングの本質を見えづらくしていた。そのことに気づいたのは、2015年の中央ハイトレイルの旅だった。


母国日本でのロングディスタンスハイキングが教えてくれたこと


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−土屋 「2015年に歩いた奥多摩奥秩父〜北アルプスまでの中央ハイトレイルは、原点回帰のULスタイルで日本を長い距離歩こうということは決めていたんです。でも今までのような強い目的はなかったんですよ。でも目的がないことに慣れていないので、前半はどうしていいかわからなくて戸惑っていて。でも、後半からすごく楽しくなって。たぶん目的がないことに慣れたのかなって。それが自分にはすごく新鮮だったんです。今日はビール飲みたいから山小屋泊まろう!とか、今日はこの谷を下りたところにタープ張ろう!とか。森の中でコーヒーを飲みながら横になって一服したりとか。とにかく自由で楽しかったんですよね。この感覚がロングハイクをした人と同じだったのかなぁって思いました」

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言葉も文化もわかる母国日本でハイキングをする楽しさ。日本の山や自然、その間にある街や宿を、気負いなく楽しむロングハイクをしたときに、土屋さんは本当に自然体のULハイカーになっていたのだろう。そこにはULの有用性を証明する実験もなく、本場アメリカのロングトレイルを知るという目的もなく、ただULスタイルで日本をハイキングする土屋さんがいた。

半年間にわたるスルーハイクでなくても、ULの道具と思想は、ロングディスタンスハイキングの本質的な体験を与えてくれる。日本の中央ハイトレイルの旅は、土屋さんにそのことを教えてくれた。「日常と非日常との連続性」「特別ではない普通のこと」「がんばらなくなる」「気負わなくなる」というのは、ULの軽さがもたらしてくれる旅の自由であり、言葉も文化もわかる母国日本だからリラックスできる「心の軽さ」が気づかせてくれたハイキングの本質だった。

【次へ:UL2.0 土屋さんの道具論、ハイキング論の現在地】

文:根津貴央 構成:TRAILS

土屋智哉。トレイルズ読者には、もはや説明は要らないであろうこの男。ウルトラライトハイキングと言えばこの人あり。日本でウルトラライトを広めた立役者であり、東京は三鷹にあるハイカーズデポのオーナーである。しかし、ウルトラライトが誕生する母胎となったロングディスタンスハイキングに対して、土屋さんは常に挑戦と葛藤をくり返してきていた。それは率直に土屋さんの「コンプレックス」でもあった。

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2005年、2007年にULの道具で奥多摩奥秩父全山縦走をした土屋さん。カリッカリのULの可能性にチャレンジしていた。これから10年近くの時がたち、ULカルチャーは大きく発展した

「ULは軽量化のための軽量化(手段の目的化)という落とし穴にはまったのではないか」。「ロングディスタンスハイキングの本質を知らなければ、ULは語れないのではないか」。そんなULのアイデンティティに抵触するような、すれすれの問いかけを自分に課していた。しかし、現在の土屋さんは今まで以上に軽やかだ。その契機となった、昨年、一昨年にあった2つの出来事。1つは「中央ハイトレイル」と名付けた奥多摩・奥秩父から八ヶ岳・北アルプスまでのスルーハイク。もう1つはULの父であるレイ・ジャーディンとの鳥取での邂逅だ。

ウルトラライトは、ゼロ年代から本格的なムーブメントとして勃興してきた。それから現在までの10数年間という時間をかけて、極限までつきつめた軽量化の実験と、ロングディスタンスハイキングの本質への希求との間を、行ったり来たりを繰り返すことで現在の形へと到達してきた。そのウルトラライトの約10年の歴史は、そのまま土屋さんが、ウルトラライト専門店の開業を決意してから、現在にいたるまでの10年と呼応する。

だから、今このタイミングで土屋さんの10年間の個人史を語ることが、日本のウルトラライトのネクストステップを語ることにつながると考えた。今回の記事は、今年の初めに開催されたLONG DISTANCE HIKERS DAYで、土屋さんが話した「ロングトレイル・コンプレックス」という発表をもとに、歴史的なバックグランドや、発表後の土屋さんの所感や発言などを補足し、再構成されたものである。

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2008年のハイカーズデポの立ち上げ直前にスルーハイクした、ジョン・ミューア・トレイルにて。


ウルトラライトの母=ロングディスタンスハイキング


ウルトラライトハイキング(ULH)ーー。これは軽い荷物で山を歩く行為のことだが、何をもってウルトラライトというのか。そこには、ベースウェイト(水・食料・燃料などの消費材を除いたバックパックの重量)が10ポンド(約4.5kg)以下であること、という一定の定義がある。

−土屋 「ULHがなんで生まれたかというと、発端はロングトレイルなんです。アメリカの三大トレイル ー アパラチアン・トレイル(AT)、パシフィック・クレスト・トレイル(PCT)、コンチネンタル・ディバイド・トレイル(CDT)ー をスルーハイクしようと思ったら、半年くらい必要になる。それだけ長期間歩く上では、装備はシンプルなほうがいいし、軽いほうがいいわけです。それでULHが実践されるようになったんです」

1992年にレイ・ジャーディンが出版した『Pacific Crest Trail Hiker Handbook』(後に『Beyond Backpacking』『Trail Life』と改題)。数々のロングトレイルをスルーハイクした彼ならではのライトウェイトでシンプルな方法論こそが、ULHの始まりだった。

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ロングディスタンスハイカーが育んだウルトラライトハイキング。長い歩き旅の生活を、快適にすごすための道具として生まれてきた。(写真提供) 左:清水秀一/中:ハイカーズデポ/右:清水秀一

レイ・ジャーディンが自身の著作で語っていることは、自然の中を長い期間にわたってより快適に旅するための方法であり、そのときの道具との向き合い方に関する哲学だ。昨年、レイ・ジャーディンが来日した際にも、「Comfortable」(快適)であることが大事だと語っている。「道具は自然を味わうための手段だからね。なにより自然を楽しめるなら何を持っていこうとも構わない」。バックパッキングという自然の中を旅するスタイルは、レイ・ジャーディンのイノベイティブな軽量化の手段を得て、重さやそれにまとわりつくシリアスさから自由になり、その姿はバックパッキングというよりもハイキングと呼ぶにふさわしいものになった。それが「Beyond Backpacking(バックパッキングの先にあるもの)」というタイトルに込められた思いではなかったか。そう、「軽さ」自体が目的ではなく、そこから得られるメリットこそ、真摯に受け止めるべきだったのだが・・・。


週末実験室的なULへの熱狂。その中で逃げていくロングディスタンスハイキングの本質


ところが2000年代以降レイ・ウェイはどう変化し、どこに着地していったかというと、スルーハイクを目的とするロングディスタンスハイカーにではなく、ULそのものを目的とするウルトラライトハイカーに定着していく。

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土屋さんの2008年JMTスルーハイクのときの道具。”超”がつくほどのカリッカリのULスタイル。しかし現地で出会ったリアルなハイカーには、ここまでの”超”ULなスタイルの人はほとんどいかなったことに違和感を覚え始めた、という土屋さん。

−土屋 「2000年代の中盤から、ULというものがマニアの遊びになってくるんです。僕自身は、ULによってより長く歩けるはずだ!と思って、日本で縦走したり、ジョン・ミューア・トレイル(JMT)を歩いたり、自分のお店をオープンしたりしたわけです。2008年に歩いたJMTの時なんかは、バックパックの自重は180g、タープも自分が寝られるだけといった感じで、カリッカリのUL。でも、僕みたいな人はJMTにほとんどいなかったんですよ。リアルなスルーハイカーに “超” ULな人なんてほとんどいないんですよ。ここで矛盾がでてきちゃいました、どうしよう俺 !? みたいな感じなんですよ」
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バックパッキングライト(BPL):ULハイキングの情報を発信する米国のウェブサイト。ハイカーが集う各種のフォーラム(掲示板)では、グラム単位でのきりつめた軽量化のアイディアなども盛んに議論されていた。Pic via https://backpackinglight.com/

ライアン・ジョーダンが主宰するバックパッキングライト(BPL)が、手法としてのULの熱量を集める中心地となり、ULの方法論や道具に革新的な発展をもたらした。またULをロングディスタンスハイカーという限られた層だけでなく、多くのハイカーに触れる機会を作り、ULを入り口にしたあらたなハイカーが生まれていった。しかし、リアルなスルーハイカーに “超” ULが必要だったのかといえば、必ずしもそうではない。土屋さんはこの当時の自分を振り返り、ロングハイキングに必要なものとして生まれたULと、自分が没入したULとの違いに気づき始めていたという。

−土屋 「手段であったはずの軽量化が、目的になっていったんです。ULがデイハイクにおける数字遊びであったり、ウィークエンドで1〜2泊する際に『こんなに軽くできるぜ!』という競争的なものだったり。もちろん、これはこれでカルチャーとして楽しいし、ここから革新的な道具も生まれてきたんです。メーカーの研究開発(R&D)みたいなことを本気でやっていて、それが促した技術や手法の革新はすごかったんです。でも、僕自身はロングディスタンスハイキングにつながるものとしてULを始めたわけなので、いまのULって、ぜんぜん違うところにあるの?どうしよーみたいな。そんな葛藤が生まれてきたんです」

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BPL主宰のライアン・ジョーダン。日本でもULが盛り上がり始めた2000年代の半ば、日本の最先端のULハイカーも、彼の発信する先鋭的なULスタイルを熱心にチェックしていた。 Pic via http://ryanjordan.com/


「ホンモノ」のULって? 「ホンモノ」のロングトレイルって?


「自分がやってるULは手段に過ぎないのか? それは母胎であるロングディスタンスハイキングに通底する何かがあるのか? ホンモノのULって何?」という問いが土屋さんの頭のなかをぐるぐるとかきまわす。そして土屋さんが抱きはじめた矛盾や葛藤は、日本人のスルーハイカーが増えるにつれて、さらに大きなものになっていく。

−土屋 「日本人初のトリプルクラウンである舟田くん(舟田靖章)と親しくなったり、ハイカーズデポのスタッフの長谷川(長谷川晋)がPCTのスルーハイカーになったり、さらに他のロングディスタンスハイカーがウチの店に集まってくるようになったり。みんなULのエッセンスは取り入れてくれるんだけど、僕個人としてはなんとなく取り残された感が出てくるんですよ。自分もJMTを歩いてるんだけど、みんなのようにロングトレイルを歩いた感じはなかったんですよね。だから、お店のなかにいても、なんか僕だけ仲間外れというか(笑)。でも、このコンプレックスがきっかけで、ロングディスタンスハイキングで得られるものとは何か? を考えるようになりました」

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2010年頃、ULのスタイルを取り入れた日本人スルーハイカーも多く登場する。ハイカーズデポは、ロングディスタンスハイカーの集まるターミナルとなっていく。土屋さんは、そのようなロングディスタンスハイカーのリアルに触れることで、自身が体験してきたULハイキングとのギャップも感じるようになる。(写真提供) 舟田靖章

2010年前後からロングトレイルという言葉がメディアでも取り上げられ、日本でも認知されるようになっていく。でも、そもそもロングトレイルとは何なのか?どのくらいの長さがあればそう呼べるのか?は明確になっていなかった。そこで2011年、前述の舟田氏と長谷川氏の二人が話し合って導き出した定義が、『1回以上の補給をともなう距離、時間のハイキング』だった。

−土屋 「舟田くんとか長谷川の話を聞いていて、ロングトレイルの面白さっていうのはきっと補給にあるんだろうなと思うようになったんです。でも、JMTを13日間歩いた際に補給もしたんですが、どうもしっくりこなかった。なんでだろう? と思ったときに、期間が足りないんじゃないかと。1カ月以上、800㎞以上歩けば違うんじゃないかと思ったのです」

そして土屋さんは、2011年、2012年と連続でコロラド・トレイル(CT)に足を運ぶ。歩いた距離は800㎞、日数は25日にもおよんだ。

−土屋 「CTを歩いて気づいたのは、大事なのは補給をすることよりも内面における変化だということ。それは山と街との関係の変化です。ロングディスタンスハイキングでは補給が必要なので、ずっとウィルダネスというわけではありません。自然のほかに人との関わり、街での出会い、文化との触れ合いがあるわけで、そういう山と街との関係をどうとらえるかが重要なのだろうと思ったんです」


ロングディスタンスハイキングで経験する「非日常の日常化」を求めて


土屋さんが気づいた山と街との関係性の変化。これに関して、舟田氏は「日常と非日常の逆転」と言い、長谷川氏は「非日常の日常化」と表現した。

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ロングディスタンスハイカーの「日常」。土屋さんはジョン・ミューア・トレイルでも、コロラド・トレイルでも、ロングディスタンスハイカー特有の日常感覚を得ることができなかったことで、葛藤が深まっていく。(写真提供) 舟田靖章

土屋さん自身は、JMTおよびCTを歩いた際に、そういう感覚は得られなかったと語る。でも、自分自身の体験と照らし合わせて、ロングディスタンスハイキングにおける4つの内的要素を導き出した。

−土屋「まずは『日常と非日常との連続性』。次に、この行為自体は誰もができることなので『特別ではない普通のこと』。そして、長期にわたる行為ゆえがんばりつづけるのは難しいため『がんばらなくなる』『気負わなくなる』。これらの感覚を見出せれば、たとえ半年間にもおよぶスルーハイクをしなくても、ロングディスタンスハイキングの楽しさが味わえるんじゃないかと考えたのです」

「ロングディスタンスハイキングの本質を知らずして、ホンモノのULを語れるのか」そんな葛藤のなかで見えてきた、解答を示すぼんやりとした光。そこにウルトラライトの本質と、ロングディスタンスハイキングの本質とを結びつける、ミッシングリンクがあるのではーー。

(後編につづく: 週末UL実験室の終焉とUL2.0)

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土屋智哉の10年 ウルトラライトとロングトレイル / (後編)週末UL実験室の終焉とUL2.0


土屋智哉のウルトラライト・ハイキング2.0 「中央ハイトレイル」を行く#3

取材:TRAILS 構成:三田正明 写真提供:土屋智哉

この夏、TRAILSは奥多摩から北アルプスまで“中央ハイトレイル”と名付けられたロングトレイルを歩く土屋さんを追いかけました。奥多摩で旅立つ土屋さんを見送り、食料補給で訪れた清里では土屋さんのダークサイドに遭遇し、そして最後に土屋さんのゴールの瞬間を見届けようと、北アルプスに飛んだのです。室堂から立山に入り、五色ヶ原方面からの縦走路をやってくるから土屋さんが必ず通るであろう一ノ越で午前10時から待ちました。ですが、昼になり、午後になり、午後4時をまわっても土屋さんは来ません。何らかの理由によって予定が遅れたと判断、翌日は朝から雨混じりだったため、ゴールの剣岳の手前、劔沢のキャンプサイトで待つことに。けれど、来ない、来ない、土屋は来ない。いくら待っても一向に現れない土屋! 土屋とは一体何なのか? 本当に土屋は実在するのか? もしかして本当に妖怪ぬらりひょんではないのか? 土屋、ツチヤ、つちやややや……。結局、その日、土屋さんは現れず、ゴールを見届けることは叶わなかったのです。OMG!

(その理由はこれから始まる本編に詳しいわけですが、とにかく土屋さんは劔岳に予定していたゴールを変更し、立山の雄山をハイキングの終着点としたため、その日に下山してしまっていたのでした。)

そんなわけで、「リアルタイムで速報していくゾ!」と意気込んでいたTRAILSの目論みは、こうして最初から最後までバラバラに崩れ去ったのでありました…。ですが、僕たちは諦めません。再度土屋さんに食い下がり、三鷹阿波踊りの練習に忙殺されるなかロングインタビューを敢行、最終回となる連載第三回目をここにお届けします!

当初の予定とは大幅に変わりましたが、それでもなおTRAILSはこのハイキングを意義あるものと考えています。アメリカとは文化も環境も幕営などのルールも違う日本で、日本ならではのULスルーハイキングの方向性や可能性を指し示してくれたこと。トレイルとトレイルを繫ぎ、「ロングトレイルは自分で作れるんだ」という実はあたり前の事実を教えてくれたこと(その前に同じくハイカーズデポの長谷川晋氏による“五国ロングハイク”という重要な一歩もありましたが)。そして日本でも補給を挟みつつ、ULの装備でどこまでも歩く旅が可能なのだということを証明してくれたこと。どれもこうして実現してみれば簡単なことのようにも思えますが、ひと昔前ではまったく考えられないことでした。そういった意味でも、この10年に渡る土屋さんを始めとした多くの日本のハイカーの経験や知識や試行錯誤の上に成り立った、まさに「日本のウルトラライト・ハイキング2.0」といえる旅だったのではないでしょうか。

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■真教寺尾根でのビバーク

それではあの「闇しか見えねえ」だった清里の後の顛末を順番にうかがっていきます。土屋さんからのメールで「八ヶ岳のあたりからだんだん気分よくなった」とはきいていたんですけれど、具体的に何かきっかけがあったんですか?

一晩寝て、翌朝に泊まっていた「ゴリー」さんっていうペンションのおやじさんと話したのね。俺のやっていることとかこのハイキングのこととか話して、そしたら「面白いね~」なんていってくれて。それでちょっと楽になった。三田さんも佐井さんも結局内輪の人間というか身内であって、かつ「取材をする側・される側」っていう立場じゃない? しかもあの段階だと俺「取材されたくない病」でさ。「友達として来るのはいいけど取材には来てくれるな」みたいなブラックモードに入っていたでしょ(笑)。そんな時にまったく部外者と話したら、ちょっとすっきりしたんだよね。その日は空も晴れて八ヶ岳がくっきり見えて、気分よくなっちゃって。そんなことで気分よくなるなんて「俺ってちょろいな~」って思ったんだけど(笑)。

出発前に清里のペンション『ゴリー』のご主人と。

(笑)。たしかにそれまでずっと台風でしたしね。

そうそう。台風のなか歩いていて「こんなの意味あるのかな」とか、「UL(ウルトラライト・ハイキング)ってなんなんだろう?」とか、「取材されるってなんなんだろう」「これって俺のハイキングなのかな」とか、いろいろ考えちゃってどんどんブラックになっているのが雨風でさらに倍化されるわけじゃない? そういう負の連鎖が続いてるなかで、スコーンと晴れたらすごく気分よくなっちゃって。

トレイルヘッドまではクルマで送らせてもらいましたけど、あの後歩き始めてすぐその状態になったっていうことですか?

いや、実は別れる前から気分は良くなっていたんだけど、それを素直に出せない自分がいて(笑)。TRAILSの前でテンション上がったのとか見せると、「昨日のあれはなんだったんだ!?」って思われそうじゃん(笑)。

(笑)。

で、清里から赤岳に続いている真教寺尾根を登っていったんだけど、八ヶ岳のなかでも主要ルートじゃないし、冬山のとき下山ルートに使うところだから地理もわかっていて、途中で谷に下りてステルス(・キャンピング)しちゃおうと思っていたのね。海の日の3連休だったから行者小屋や赤岳鉱泉まで行っても時間的にテントサイトもいっぱいだろうし。

真教寺尾根から富士山を望む。

結局その日はどのへんまで行ったんですか?

その日は最終的には赤岳までいかずに真教寺尾根と県界尾根との間の谷に下りていった。12時くらいには真行寺尾根をそこそこ進んでいたんだけど、思った以上に人は歩いてくるから。雨も降ってきたし、どうしようかなと。ちょっと様子みようと思って谷側にいくらか下りていったところにひとりぶんくらいちょうど雨を凌げるような倒木と倒木の間の隙間があってさ、そこに「超ヒマだわ~、やることね~」って感じでレインウェア着たまま座ってた。

そりゃまたずいぶん詫びた光景ですね(笑)。

いま考えると時間的には赤岳の上まで登っちゃってもよかったんだけどね。今回は小屋泊まることに関しては全然抵抗なかったし、むしろ各山域で一カ所づつくらいは泊まろうとも思っていたんだけど、さすがに連休で激混みだろうし、その日はなんとなくひとりで静かに山で眠りたかったから、時間をもてあましながら停滞していた感じかな。赤岳頂上小屋はその日200人くらい泊まってたらしいからさ。

木の間には何時間くらいいたんですか?

2時間くらい挟まってたよ。たま~にタバコ吸ったりしてさ。で、もうここ座っててもしょうがないやと思ってビバークできるところ探しに谷に下りていった。

(写真を見て)これぞULのタープ泊っていうシチュエーションですね。

土屋さんの自作タープ”マンタレイ” 。耐候性は良かったものの天井高が低く、停滞時などには苦労したとか。

蚊が多いからバグネット被ってね。でもこのときのキャンプがいちばん自由だったな。タープも高く張れてね。飯食って、だらだらして、ちょっと音楽聴いて、タバコ吸って。

いい感じじゃないですか(笑)。

他に誰もいないし、俺にとっては理想的だったね。アメリカのテン場みたいに人目につかないで自由っていうか。

それで翌朝になって。気分的にはそのときどうだったんですか?

とりあえず自分が好きなスタイルが一回できたから、気分は良かったよね。そのときあらためて思ったのが、俺はキャンプをどこでも自由にできるってことが好きなんじゃなくて、人や自然に迷惑をかけないでかつ安全な幕営地を探す行為が好きなのかもしれないなっていうこと。アメリカのトレイルって自由にどこでも泊まれるイメージがあるけど、とはいえ幕営に適した場所とそうでない場所があるわけで、どこでも泊まれるわけじゃないじゃない? それを探す問題解決のプロセスが好きってっていうか。

ただキャンプをするにしてもスキルがいるというか…。

タープを張ること自体は飯を作って食うのと一緒で別に難しいことじゃないけどね。その日は昼過ぎから尾根の上は風が強かったから、そこからどこの谷に下りたら雨風をしのげそうだとか、上に登ったら岩稜帯だから無理だろうなとかさ、そういう幕営に関しての現状の問題を解決するのが俺は好きなんだろうね。それが満足感に繋がるというか。

「自分の力で今夜の寝床確保したぞ!」っていう気分ですね。

そうそう。地形とか天候とかいろんな要素を含めた状況解決が楽しいというか、「自分で全部ジャッジして決めていく自由」だよね。別に結果としてキャンプ場に泊まったっていいとは思うのよ。それが誰かに与えられたんじゃなくて自分なりに考えて決めた最良の結論ならばね。奥多摩~奥秩父のセクションはもう自分なりにどこで幕営するかはっきりわかっちゃっているから、今回の旅のテーマに自分がうまく切り替わっていかなかったんだけど、この時のキャンプでアメリカでキャンプしていたときの気分を思い出せたのね。「まだこの時間だけどここから峠をひとつ越えるべきかやめておくべきか」とか、「雷が鳴っているけどどうするか」とか、いろんなこと判断しながら泊まる場所決めていくんだけど、それと同じようなことをここでできて、それでようやく気持ちが切り替わった。

■北八ヶ岳~白樺湖~霧ヶ峰はまるでアメリカだった。

それで翌日は清々しく赤岳まで登って、頂上着いたらやっぱり人がいっぱいで「うわっ」っと思ったけど(笑)。最初の計画ではなるべく稜線を行かないで樹林帯に下りて歩こうと思っていたんだけど、どうせどっち行っても混んでるし、「なら稜線がやっぱり気持ちいいよね!」って赤岳~横岳~硫黄岳と主稜縦走路を行ったのね。

根石岳から東天狗への稜線。

その日はどこまで行ったんですか?

高見石小屋まで。でも1時くらいに着いたらテン場にまだ昼休憩や食事している人がいっぱいいたのね。だからもうちょっと先まで行こうかなと思ったんだけど、そうすると八ヶ岳一日で終わっちゃうなって思って。

たしかにそれもちょっと寂しい気がしますね(笑)。

だから小屋の人に「今日テント張ります」っていってテン場が空くのを待っていたんだけど、小屋のスタッフが「土屋さんですよね?」って。で、『ワンダーフォーゲル(山と渓谷社)』っていう雑誌で鈴木みきちゃんがアウトドア業界の人の奥さんの取材をする連載をやっていて、そこでうちの奥さんも取材されたんだけど、その前の回が高見石小屋のご主人(原田茂さん)の奥さんだったのよ。そんな縁もあって小屋のスタッフがご主人にも紹介してくれて、話し込むうちにこれでテン場に泊まるのもなんだかなって思って、「今日やっぱり宿泊にします」って。人も少なかったしね。だからその日は昼から飲んでた(笑)。夜は高見石のご主人が星が好きな人なんで天体望遠鏡出してくれて、お客さんで星の写真を撮りに来ている女の子たちがいたんだけど、一緒にいろいろ見せてくれて。

楽しそうですね(笑)。

だから結果として泊まってすごく良かった。それで次の日は普通に縞枯山とか行ってもよかったんだけど、なんとなく池めぐりをしてみようかと思ったのね。北八ヶ岳のあたりって白駒池とか雨池とか双子池とかいろいろあるじゃない。

ロングハイクのなかの一日で池めぐりの日があるってのもなんかいいですね。

そしたら大正解。ここはもう、アメリカだった! 結局この日は高見石から雨池~双子池って歩いて、滝ノ湯川沿いに下ってビーナスライン通って白樺湖越えて、霧ヶ峰も越えて八島ってところまで行ったのね。この日がこの旅でいちばんの収穫だった。

東天狗山頂から北八ヶ岳を望む。

双子池。

へ~、意外!

山を歩かなくても、山を見ながら歩くのってやっぱりこんなに楽しいんだって。

白樺湖とか霧ヶ峰って観光地としては有名だけどわざわざ歩きに行こうって感じの場所じゃないですよね。

でもべーさん(ハイカーズデポの勝俣隆さん。 TRAILSでは『Meet The Hikers!』などにも登場している)が歩いたことあって「良かったよ~」っていってたんで、行こうとは思っていたんだよね。雨池から双子池も「山と高原地図」で破線になっているトレイルで舗装路歩かずに行けて、その先の林道も舗装路じゃくてジープロードって感じさ。水場もあるし、ステルスできそうな場所もあって。

(写真を見せてもらいながら)たしかにアメリカのトレイルみたいですね。

白樺湖のあたりもスキー場なんだけど、「コロラド・トレイルでもこういうとこいっぱい歩いたな」って感じで、退屈だけど嫌ではなかった。で、霧ヶ峰に入っていくと湿原とかあって、日本っぽくない景色なんだよね。アメリカで見たメドー(高層湿原)みたいでさ。白樺湖も霧ヶ峰も山歩く人には「観光客が行く場所でしょ」ってスルーされる場所だと思うけど、通しで歩くことに寄ってそういうの全部取っ払われた感覚で見てみると、やっぱりすごくきれいな場所なんだよね。

それだけきれいな場所だから観光地化されたともいえますしね。

そうそう。むしろ他にはないようなすごくきれいな景色が広がっていてさ。

たしかにヨセミテも観光地ですからね。清里もすごくきれいな場所だったし、信越トレイルでもなんだかんだいって景色がいちばんきれいなの観光地の斑尾高原だし。

「観光地」っていうだけで排除しがちだよね。たしかに、2泊3日とかでわざわざ行こうとは思わないかもしれないけど。

逆に今回のように長く歩いているからこそ変な先入観が消えて素直に味わえるのかもしれませんね。

八子ヶ峰の尾根筋。

白樺湖。

■山と山を繋いでいる感覚、旅をしている実感。

松本には次の日着いたんですか? このあたりから舗装路歩きが多くなりそうですね。

次の日は霧ヶ峰から和田峠越えて、美ヶ原へ行って松本に下ったんだけど、霧ヶ峰から美ヶ原は全部舗装路だと思ってたの。でも「山と高原地図」だとわからないけれど霧ヶ峰から美ヶ原へはちゃんとトレイルがあるんだよね。車道の脇に「中央分水嶺トレイル」っていうのが続いていてさ。だから結果として白樺湖から美ヶ原まで舗装路を歩いたのは霧ヶ峰の周辺で1時間くらいだけだと思う。で、美ヶ原もやっぱりキレイだった。ここはイギリスだったね(笑)。「スコットランドじゃん」って。行ったことないけど(笑)。

湖水地方的な感じですか?

フラットな高原って感じかな。(写真を見せながら)日本じゃないみたいでしょ?

車山乗越から蝶々深山へのトレイル。

茶臼山方面から望む美ヶ原。

本当だ。「こんな場所をバックパッキングでどこまでも歩いていきたい」って感じですね。

でしょ。だからこのへんはテント泊はやりにくいけど、歩くだけならすごくいい場所だよ。こういうとこハイキングするのもすごく楽しいなって。

たしかにこのどこまでも続く草原地帯ってイギリスっぽい気がしますね。僕もいったことないけど(笑)

で、ここからがずっと心配だった長いロード歩きの区間に入ってくるんだけど、どこか泊まれるようなところがないか探していて、ある程度ここなら迷惑かけないかなっていうところは見つけられたんだけど、やはり昼過ぎからダラダラしてもすごいヒマなのね。で、やっぱりその日のうちに松本まで行くことにして。

松本までそこから何キロくらいあったんですか?

20km。時速5kmと考えると4時間、かかったとしても5時間くらい? まあ午後6時には着けるかなって。計画では次の日をロード歩きの日にしようと思っていたのね。美ヶ原から松本を通り過ぎて島々谷の登山口まで行って、新島々から電車で松本に戻ろうと。そうすれば1日短縮できて、北アルプスにも余裕を持って臨めるなって。でもその日松本まで行っちゃえば街で飲めると思ってさ(笑)。そこからはずっと舗装路だったけど、下りだったから結構速く歩けて、実際4時間かからないくらいで松本に着けた。

舗装路の上を歩くのは辛くなかったですか?

美ヶ原からは松本の街が見えて、その向こうには北アルプスが見えるんだよね。その景色を見たときに、これからあの街に下りて行って、その次の日にあの山へ登っていくんだっていうのがビジュアルとして見えて、それを実際に自分の体で行動してみたときに、「あ、悪くないな」って思ったんだよね。山と山を繋いでいる感覚、旅をしている実感がすごくあって。

八島ヶ原湿原。

松本の街の向こうに北アルプスを望む。

たしかにそれってむかし歩いて旅をしていた時代の旅人の感覚かもしれないですね。

アメリカでもロード歩きはしたけど、それは部分的にトレイルがジープロードになったり舗装路になったりって感じで、山域と山域を繫いでたわけじゃなかったのよ。でもこのときは明確に山と山を繫ぐためにロードを歩いてて、その途中に街があるってのが視覚的にも実感的にもあると、すごく「旅感」があって良かったんだよね。たしかにロード歩きって足にもダメージくるし、「そこスキップしたほうが良くない?」って思いがちだけど、このときは意外と楽しめた。

取材:TRAILS   写真:三田正明  /佐井聡 構成:三田正明

この夏、奥多摩から劔岳を目指して「中央ハイトレイル」と名付けられたロングトレイルを歩くハイカーズデポ土屋智哉さんを追い掛けて、TRAILS取材班は補給物資を携えて一路最初の補給地である清里へと向かいました。出発翌日に台風に見舞われたものの快調なペースで歩き続けた土屋さんは、途中金峰山荘で停滞を余儀なくされたものの、結局その日も荷揚げの手伝いをしていたのだとか。

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再会したその日も金峰山荘から清里駅まで半日で歩き、さらに八ヶ岳の真教寺尾根のトレイルヘッドまで歩いてしまったというから驚き。日常の雑事から解放されさぞや快調かと思いきや、出会って早々、口をついて出てくるのはネガティブなことばかり。なんでも、今回のハイキングで自分に課したタープ泊が精神的にかなりの障害になっているらしく…。

「タープでは寝るのはいいんだけどさ、メジャー山域でタープ泊をすることのストレスがかなりある。テン場でまわりから奇異な目で見られるのがね。いつもみたいにツェルト泊なら使っている人も普通にいるし何も問題ないけど。」

三鷹の怪人、清里に現るの巻。

さらに精神的障害になっているのが、日本独特の山行の常識。アメリカでは日本のようなキャンプ指定地というものがないトレイルが多いため、例えば夕方にトレイル上で夕食を食べ、さらに暗くなるまで数時間歩いてどこか適当なキャンプ地を探すという方法論がULではポピュラーだけれど、日本の、特に土屋さんが今回歩く奥多摩~奥秩父や八ヶ岳、北アルプスといったメジャー山域では幕営指定地以外のキャンプは禁止されていて、さらにキャンプ指定地には午後4時頃までに着くことが常識とされている。そんな不文律は守らなくとも問題はないともいけるけれど、タープ泊の場合は一般的な山岳テントよりも場所を食うのでキャンプ指定地には早く着く方がベターではあるし、アウトドア・ショップを経営している土屋さんの立場上、あまり常識外れの行動は慎むべきでもあります。そのため2日目の将監小屋から甲武信小屋までも午後1時に着いてしまったし、3日目の甲武信小屋から金峰小屋までも昼12時に着いて行動を止めざるを得なかったのだとか。「もういちど日本の山でのUL(ウルトラライト・ハイキング)を確立してみたい」という意気込みで歩き始めたものの、なかなか自分の思い描くハイキングができていないジレンマがあるようで…。

そんなわけで、清里のペンションでの悩める土屋智哉の激白をお聞きください!!!

街に着いたらとりあえずソフトクリーム♪

いままでももちろんULのスタイルで日本の山を歩いてはきているけれど、自分にとっては当たり前のことだったし、23日の行程だったり、人と一緒に歩く場合はいろいろ調整するのが当たり前だから、あまり「ULであること」というのを強く意識していなかったのかもしれない。実際、この23年は店としてもULよりもロングハイクを提案することに重きを置いていたこともあるし。ただ、今回あらためて「ULであること」「ULで長く歩くこと」というテーマを掲げて歩いてみると、当たり前の現実がやっぱりあらためて刺さってきているんだよね。自分にとっては店を始める時点で片付いていると思っていた問題が実はやっぱり大きな問題だったというか。」

でも、大好きなソフトクリームを食べ終わってしまったらこの表情。どよーん。

「“五国ロングハイク(*)”でマイナーな山域を歩いた晋(ハイカーズデポ・スタッフの長谷川晋さん)は晋で、明日自分が行く場所がどんな場所かわからない辛さがあったと思うけど、今回メジャーな山域を歩いている自分は自分で、テン場が決められているせいで行動が制限されちゃう辛さがすごくある。2日目に将監小屋から甲武信小屋まで歩いたときも、甲武信に着いたの1時くらいだったのよ。で、甲武信から金峰小屋とかは、12時くらいに着いちゃって。『俺、もっと歩けるのにな』って。今後もそういうことがあるんだろうなと。そんなこと自分の中では「当たり前でしょ、今さら何いってんの?」で片付いていたはずだけれど、まさか今回ここまでシビアに自分に突き刺さるとは思っていなかった。」

休憩時に履いていた手製のワラーチ・サンダル。

「タープでこうなるのは、わかっちゃいたんだけどね。これまでもキャンプ指定地でタープ泊やってはいたんだけど、それは無意識に人のいない場所で人のいない時期を選んでいたんだよね。ODボックスで働いていた頃から、山には基本的に平日しか行ってなかったし。それが今回のように距離も期間も長くなるとそうはいかない。やっぱり日本の山でタープを張るのは不自然なんだよ。だから「海外ではタープ、日本ではツェルト」っていうのが自分のなかの回答だったし。でも、今回はあえてそれをぶっ壊してみるっていうのもテーマだったからね。だから俺、八ヶ岳はさっさと抜けたいのね。三連休で赤岳鉱泉か行者小屋に泊まるから、絶対人多いじゃない? いまそれがストレスなんだよ。美ヶ原とか霧ヶ峰あたりの方が自由に歩けるんじゃないかなって。」

五国ロングハイク 2013年に長谷川晋氏が行った河口湖から秩父~軽井沢~草津温泉~湯沢~信越トレイルまで、5県400kmを繫いで歩いたハイキング。途中舗装路や林道歩き、街での補給を挟みつつトレイルを繫いで歩くそのルートは、PCTで本場のロングディスタンス・ハイキングを体験した長谷川氏ならではのアイデアで、日本ならではのロングトレイルのあり方に一石を投じた。

清里のペンション『ゴリー』にて。ご主人は山岳ガイドもされているとか。

「今回は『店としても自分としても、もう一度ULにこだわってみよう』っていうところから始まったことなんだけど、たとえば晋はPCT(パシフィック・クレスト・トレイル)のあと”五国ロングハイク”を歩いてひとつ完結したものがあったから、俺もJMT(ジョン・ミューア・トレイル)を歩いて、コロラド・トレイルを歩いて、今回ここを歩いて、日本の山をULでハイキングすることにひとつの着地点を見つけたい気持ちがあるんだよね。でも歩きながら、晋のPCTから引きずっていた心の葛藤のでかさがよくわかった。長く歩くのって、やっぱりいろんなこと考えちゃうんだよ。これが初めてだったら何も考えなくて済むのかもしれないけど。JMTのときは何も悩まなかったもん。歩くことしか考えていなかった。だから初めての体験ってやっぱりすごいんだよね。でも、そのときのセンスに戻ることは絶対にないんだよ。それに気づけただけでも良かったけど。」

これから先のルートを確認。

「正直、いまはこのハイキングがどう落ち着くかわからないんだよね。途中でやめちゃう可能性がゼロじゃない。いま四日間歩いてみて感じているのが、今回はULにこだわろうと思って始めたのにこだわりきれていないもどかしさなのね。装備の面ではULでできるし、歩くこともできるんだけど、でも本当にULっぽいハイキングができているのか。当然ガシガシ歩くことがULではないんだけど、装備が軽くなることによってより遠くまで、より自由にっていうのがULだと俺は思うんだよね。でも、その『より遠くまで』『より自由に』ができているのかといえば、自分のなかで消化不良な部分がすごく多い。『ただのロングハイク』って思えばなんでもいいんだけど、それで劔まで歩いてみたって普通に縦走するのとなにが違うんだろうって。まあ、そもそも違わないんだけどさ。でも、そこに俺はどうにかUL的なエッセンスを入れてみたいわけで、そうすると自分がどういう着地点を目指すのかが見えて来ないんだよね。今回の旅は「もう一度日本のトレイルをULにこだわって歩いてみよう」っていうので始まっているから、そうじゃなかったとしたらそもそもやっている意味あるのかっていうことまで考えちゃってさ。だから体力的にとか精神的に辛くて嫌になってやめるってのはないと思うけど、何か違うからやめるっていうのはないわけじゃない。」

え、マジですか? そこまで行っちゃってますか!? もちろんリタイアする、しないは土屋さんの自由ですが、ここまで追っかけてしまっているTRAILSとしては当然ゴールまでレポートしたい気持ち満々なのですが! そもそも土屋さん的にもこの旅をアーティクルとして残したい気持ちはあるものの、「このハイキングをリアルタイムで速報していく!」と前のめりで鼻息荒くしているTRAILSにも少々「うざったさ」を感じていたようで…。

今回TRAILSが届けた食料。土屋さんの奥様のレシピによる焼き玄米の袋飯とお味噌汁。これで清里〜松本間の約5日分。

「そんな状態だから、これが(この記事が)出ちゃうことによって歩かなきゃないけなくなるのが嫌なのよ。ぶち上げたはいいけど、最後しょぼーんって終わっちゃうのは嫌だからさ。やってる最中にこれが出ちゃうと、それがノイズになっちゃう。メディアとしてリアルタイム配信っていうのは面白いと思うんだけど、俺はハイキングをSNSとかでリアルタイムで発信するのって、もともとそういうこと一切やらないタイプだから、感覚がわからない。今回会う人にもよく『プライベートですか? 仕事ですか?』ってきかれるんだけど、それが自分でもわからないんだよね。これがプライベートなのか仕事なのか、自分のなかでも着地点がなくて。そういうのも気持ち悪いの。こういうことは記録として残したほうがいいんだろうなとは思うから取材を受けるのは全然構わないし、受けるんだったらこういうニュアンスをいちばんわかってくれるのはTRAILSだから、記録として残してくれるのはありがたいんだけど、でもこれが歩きながら公開されると、ますます自由じゃなくなっちゃう。店から望まれていること、TRAILSから望まれていること、そういうのが全部うざったい。自分が歩きながらこういう風に揺れているのを出してくれるのは全然構わないし、終わってみたら『超良かったよ~』ってなって、『この清里のときの土屋なんだったんだよ!?』っていうのも面白いと思うしさ。でもいまは悩みしかない。闇しかねえよ。」

湿った装備を乾かすの図。こうして見るとスルーハイク中のアメリカのモーテルに見えなくもない。

いかがでしたでしょうか。“ATフィールド全開”の、読んでいてこちらまで暗くなってくるネガティブ発言の数々。ですが「軽いって自由」という言葉をお店のキャッチコピーとして掲げる土屋さんの、「自由になりたくてハイキングしているのに、それがメディアに載ると自由になれない」という気持ちも痛い程よくわかります。当初「速報で公開していくゾ!」と意気込んでいたTRAILSもリアルタイム更新を諦めざるをえず、せめてリアルには伝えたいと、今回は清里での土屋さんの発言を生々しくお伝えした次第です!

とはいえ、最初から最後まで普通になんとなく楽しかった旅って、実はたいして印象に残らないものですよね。それよりも不安や恐怖と戦い、艱難辛苦を乗り越え、やっと何らかの境地に辿り着く旅の方がずっと印象深く、自分の財産となり、結局は楽しい思い出として残ったりするもので。そう考えると、土屋さんは順調に実りある旅のルートを辿っているといえるのかもしれません!

呆然と虚空を眺めながら「闇しかねえよ」と呟く土屋さんに、せめて一条の光が差すことを願いながら、言葉少なに取材班は清里を後にしたのでした…。

HAPPY TRAILS!

(次回に続きます)

取材/構成/写真 三田正明

TRAILSではお馴染み、ハイカーズデポの土屋智哉さんが、TRAILSでの連載『Meet The Hikers!』♯3寺澤英明さんとの対談でも話された通り、この夏、東京の奥多摩から奥秩父、八ヶ岳、北アルプスまで「中央ハイトレイル」と名付けられた(命名 ハイカーズデポ 長谷川晋氏)ロングトレイルを、予備日やゼロ・デイを含めて全18日、総距離約300kmに及ぶハイキングを行いました。しかも2008年の土屋さんのジョン・ミューア・トレイルでのスルーハイキング時を越えるような、「カリカリに」ULなスタイルで!

と聞けば、このマニアックなウェブマガジンに隅から隅まで目を通しているあなたなら、思わず「おおっ!!」となりますよね? 当然のことながら、取材時から「おおおおっ!!!!」っとなっていたTRAILSは、このハイキングへの肉弾取材を敢行し、その模様をリアルタイムでお伝えしていく予定でありました。

が、諸般の事情で断念……。その理由はおいおい明らかにしていきますが、ともあれ! TRAILSはこのハイキングへの肉弾取材を行ってはいたのです。

そこで、このシリーズでは当初のコンセプト通り、土屋さんのハイキング前、ハイキング中、ハイキング後にそれぞれ行った取材を元に、すべてが終わった後の「まとめ」ではなく、あくまで「現在進行形の何か」として、このハイキングをレポートしていきたいと思います。タイムラグはひと月ほどありますが、こんなやり方もTRAILSらしいのではないかと……え、ダメ!?

まあ、そんな言い訳はともかく、現時点で土屋さんへの最後の取材が終わっていないので、僕たちにもこのアーティクルの結末がどうなるか、まったくわかっていません。けれど「日本のウルトラライト・ハイキング2.0」ともいえるこの旅を、僕たちはとても重要なものだと考えています。そんな土屋さんのハイキングに寄添ってみた(押し掛けた?)TRAILSなりの「ハイキング」に、どうぞお付き合いいただけたら嬉しいです!

そんなわけで第一回目となる今回は、出発前に土屋さんに語っていただいた今回の旅の展望と計画編、そして奥多摩での出発編をお送ります!

■ハイキングのコンセプト

「7年前、ハイカーズデポを開店する前にジョン・ミューア・トレイルをULでスルーハイクしたことは当時の自分にとっても大きなチャレンジであり、ひとつの区切りになった出来事でした。その後自分自身もコロラド・トレイルを歩いたり、アラスカの無人地帯をハイク&パックラフトで旅したりという経験を積み、日本国内でもULやロングディスタンス・ハイキングの認知度が上がってきたいま、もう一度自分自身もULの初心に戻ってみたくなりました。それも海外ではなく国内で。

ハイカーズ・デポではロングディスタンス・ハイキングをアメリカのロングディスタンス・トレイルの例に沿って「途中街に下りての補給を伴うハイキング」と定義しています。その定義に則ってハイカーズ・デポの長谷川(晋)が「五国ハイク」と称して街に下りながらいくつかの山域を繫いで歩いたように、自分自身も日本の山を街での補給を挟みつつ歩いてみたいと思いました。

行き先は当初九州や東北を考えていましたが、長谷川の強いサジェスチョンもあり、あえてハイカーズ・デポの「地元」奥多摩・奥武蔵から八ヶ岳を経由し、北アルプスの剱岳までという日本でももっともメジャーな山域を歩いてみることにしてみました。うまく繋げて歩ければ樹林帯から高山帯までバラエティに富んだ、距離的にも内容的にもジョン・ミューア・トレイルにも負けないトレイルを描けると思っています。」

■行程計画
「ゴールとスタートはトレイルヘッドからトレイルエンドまでとしても良かったのですが、ルート選びには遊び心があっても良いと思い、アメリカのアパラチアン・トレイルがスプリンガー・マウンテン山頂からマウント・カタディン山頂までとなっていることにならって、あえて奥多摩の雲取山山頂から北アルプス立山連峰の剱岳山頂までとしてみました。ルート選定にあたってはハイキングらしくそれほど標高を上げすぎないことを意識し、たとえば八ヶ岳では赤岳~横岳~硫黄岳という主稜縦走路をあえて外したり、タープ泊であることも考えてなるべく稜線上ではなく、安全圏に下りてキャンプすることを考えました。たとえるならば山の中を山を見つつ歩くような、アメリカのトレイル的なイメージです。途中の補給は清里と松本を予定しています。」

■行動計画
「ルートは概算で300km。歩かないゼロ・デイ(予備日・休息日)を除く行動日は15日間なので、平均時速2kmと考えると1日10時間ほどの行動時間です。アメリカのトレイルでは17時~18時頃に夕食を済ませ、そこからさらに19時~21時まで歩き続けて適当な場所でステルス・キャンピングをする方法がありますが、幕営地指定のある日本のメジャーな山域でそれはできません。なので朝4~5時には歩き始め、夕方5時くらいまでにはキャンプ地まで着こうと思っています。ですがその日の行程上ちょうど良い場所にキャンプ指定地があるわけではないので、ルートを考える際もここには頭を悩ませました。そしていちばん心配なのが公道歩き。距離は順調に稼げるでしょうが、たとえば20kmほどコンクリートの上を歩き続けた場合、どれだけ体にダメージが来るのか未知数ですね。」

■食料計画
「奥多摩・奥秩父、八ヶ岳、北アルプスの各セクションごと4日~6日分の食料を携行し、清里と松本で局留めで送った荷物を郵便局でピックアップします。松本の郵便局は週末も空いているので助かりましたが、清里の郵便局は閉まっているそうなので清里ではTRAILSに食料を持ってきてもらうことにしました。今回はできるだけ軽量化して歩くのがテーマのひとつなので、最初のセクションでは玄米焼き米しか持っていきません。時間のあるときは山小屋の昼食も積極的に活用し、街へ下りたときにはコンビニ等で菓子パンや菓子など日持ちするものを探すつもりです。」

左上から時計まわりに レインウェア(アメノヒ)、トイレ&エマージェンシー・セット、ヘッドネットやヘッドライトなどの小物類、シェルター、ウェア類、サコッシュ(中に文庫本、財布、iPhoneなど)、トレッキングポール、傘、スリーピングバッグ、クッカー&ストーブ、ウインドジャケット(パタゴニア・フーディニ)。下にバックパック(BUMMER)、パックライナー、マット(エバニューEXP ). 

 ■装備計画

「JMTでは当時の自分にできる限界のUL装備に挑戦しましたが、それ以降は正直安全マージンを多く取るようになり、装備が少し重くなっていました。今回は初心に帰る意味もあり、ふたたび限界に近い軽量化に挑戦しています。とはいえ、全体としてはいつも使っているものを多少アップデートしてみただけですが。ベースウェイトは3キロほど。水と食料を加えても6~7キロに納めたいですね。」

・バックパック:TRAIL BUM  BUMMER
「バックパックは自分が制作に携わっているTRAIL BUMのBUMMER。30Lほどのサイズで、ウエストベルトもチェストストラップもないシンプルなデザインです。」

巻きタバコ&ペットボトル。

・サコッシュ:TRAIL BUM 試作品

「サコッシュはTRAIL BUMの試作品をテスト。ですが今回はあまり肩からかけずにザックの中の小物入れとして使うつもりです。」

・シェルター:自作タープ「マンタレイ」
「スピンネーカー生地で197g。梅雨のまっただ中に出発することもあり、天井高を低くして居住性より耐候性を意識しています。JMT時はタープにビビィを組み合わせていましたが、結露が激しかったので結局ほとんど使いませんでした。なので今回はグラウンドシートを携行。ゴーライト・ユートピアのバスタブ付きのグラウンドシートを仕立て直して使用します。」

初めて自分で縫ったというタープ『マンタレイ』。

・スリーピングバッグ:ハイランドデザイン トップキルト
「ハイランドデザインの化繊キルト。自分の定番です。430gで想定適応温度は6℃〜12℃です。」

・マット:エバニュー EXPマット
「いつもの山と道のマットでも良かったのですが、もう優れた製品であることはわかっているし、自分の持っている15sは湿気を貯めやすいという弱点がある(表面加工をした15s+ではその問題を解消済み)ので、雨に降られそうな今回はエバニューのマットを試してみることにしました。140cmにカットして100gにしています。」

・クッキングシステム:クアトロストーブ&テラノバ370チタンマグ

「ストーブは自分のスタイルでは固形燃料に固まっています。クッカーも370ccのマグですが、お湯を沸かすだけなのでこれで充分ですね。」

・レインウェア:アクシーズクイン アメノヒ2.5
「JMTではインテグラルデザインのシルケープを使用しましたが、今回は標高の高い場所も歩くのでプロテクションも重要になります。ただレインスーツでも面白くないので、JMTからの進化という意味も含めてカグール・タイプのアメノヒにしてみました。Pertex Shield 2.5使用で約200gです。」

・インサレーション:ハイランドデザイン ダウンジャンパー
「インサレーションはウチの店のダウンジャンパー。160gです。」

・ウェア:
「行動着はいつもと同じように短パンとTシャツです。今回は宿泊も予定しているので、着替えにウインドパンツと同じくらい軽いアクシーズクインのアオネロというパンツと長袖と半袖のTシャツを一枚づつ持ちます。」

・シューズ:アルトラ・スペリオール2.0
「公道を歩く距離が長いことも考えるとローンピークも捨て難いのですが、ソールが自分の好みからするとやや厚いのです。ここは悩みどころですね。」

■出発

朝8時半に奥多摩駅に現れた土屋さん。2日前に取材をさせてもらったときは「JMTの前より緊張しているよ」と言っていたけれど、やはり少々緊張の様子。18日間で300kmは土屋さんの脚力からすれば不可能ではないけれど、ハイキング後はアメリカ出張の予定が入っており、梅雨が長引き台風が接近中という状況でも日数はこれ以上延ばせないのだ。

「でも昨日1日ハイキングの準備をしていて、ちょっと落ち着いた(笑)。ま、やるだけやってみようかなって感じかな。今回はJMTの時の気持ちに戻ろうっていうのがテーマでもあるんだけど、それから7年たっているから自分自身変わっている部分もある。あの頃はロングハイクの何たるかをあまりよくわかってなかったんだよね(笑)。気持ち的にはアドベンチャー・レースに挑むアスリート的なノリに近かった。ロングハイクを楽しむっていうよりはチャレンジするっていうか。でも自分もそれからコロラドを歩いたり、日本でもJMTやATを歩いているハイカーがすごく増えてきてスルーハイカーがどんなことを体験するのかどんことを感じるのかっていうことがだんだんわかってきたなかで、今回もチャレンジではあるけれどロングハイク的な楽しみも入れていけたらいいな。」

確かに、今回のような大きなハイキングをするならば当然最後まで歩きたい。けれど、たとえばピークを目指して登る登山とは違って、歩く過程そのものを楽しむのがハイキングなのだから、踏破に成功しようがしまいが、自分自身が納得できればそれでいいのだ。

「『是が非でも歩ききる!』ってなると大学の合宿みたいになっちゃうしね。今回は日程がタイトだから踏破できるか心配な面もあるけれど、日程さえ余裕あれば誰でも歩けるからさ。見た人にも「あ、ちょっとこうすればできるじゃん」って思って欲しいし。それに外国の人にも知ってもらいたいよね。奥多摩から北アルプスまで歩けば樹林帯から高山帯まで日本の山の全部が見れるじゃん? ひと月くらい日本を旅してここを歩いたってすごくいいと思うし。だからのんびり歩こうってわけじゃないし、ガツガツ歩こうってわけでもないし、その良い落としどころを探りながら歩くって感じかな。それを無理せずやって全部行けたらラッキーだし、天気に恵まれたら嬉しいし、でも恵まれなかったらそれはそれで次にまわしてもいいかな、ぐらいの余裕を持ちつつ行きたいな。」

と言いつつ、鴨沢から雲取山への登山道をガツガツ歩いていった土屋さん。2日目には東京にも大雨が降ったけれど、無事歩けているだろうか? HAPPY TRAIL!

(次回に続きます)

取材:TRAILS 写真/構成:三田正明 写真提供:寺澤英明

日本UL史の奥の細道を行く土屋智哉さんの『Meet The Hikers!』。あの伝説的ブログ『山より道具』の寺澤英明さんを迎えた連載第3回の後編を公開します!

今回は毎回話題に上っている土屋さんの2008年JMTスルーハイキングの日本UL史における位置の話に始まり、ハイカーズデポにその後のシーンにおいて重要な役割を担う人々が梁山泊的に集まってきた時代の話、そしておふたりの著書『ウルトラライトハイキング』と『ウルトラライトハイキングギア』の裏話などなど、前編にも増して盛りだくさんな内容でお送りします!前編はこちら

対談はおふたりの地元・西荻窪のいきつけの沖縄料理屋さんで行われました。

■JMTを歩いた店主の店か、JMTを歩いていない店主の店か

寺澤 俺はJMT(ジョン・ミューア・トレイル)を2007年にセクションハイク(*1)したんですよ。その前にmixiで「ヨセミテ準備室」ってコミュニティを作って、そこにはべぇさん(勝俣隆さん)とか軍曹(前編参照)とか、あとJoxterさんっていうハンドルネームで呼んでいた友達がいたんだけど、彼らと歩いたの。行くと決めたのは5月とか6月くらいで、それから急速に準備して実際に歩いたのは7月。まあ、当時サンフランシスコに住んでいたべぇさんに全部かかりっきりで行ったんだけど。

土屋 俺はそれを見て、「もうこんなことやってる場合じゃないから店やめる!」って思ったんだ。

寺澤 それでヌラさん(土屋さん)が店の準備が始めるわけですよ。そしたら「店のオープン前にJMTを歩くかどうか悩んでいる」っていうのね。だから俺と軍曹でこういったの。「『JMTを歩いた店主の店』という看板を出すか、『JMTを歩いていない店主の店』という看板を出すか、どっちがいいんだよ?」って(笑)。

2007年、JMTを歩く寺澤さん(『山より道具』より)

土屋 最初にその話が出たときって、まだ物件が決まってなかったんですよ。ODボックスに退職願を出したのが2007年の暮れで、でも引き継ぎとかもあるからなかなか受理してもらえなくて、2008年の5月にようやく辞めて、平行して物件も探してたんだけどぜんぜん見つからなくて。

寺澤 俺と軍曹の思いとしては『JMTスルーハイカー(*2)の店』として出したほうがいいと思ったんだよね。それともうひとつあったのが、俺たちがJMT行った時点で、なんとかUL(ウルトラライト・ハイキング)で歩けるのはわかったと。だからヌラさんが行くときは、もうカリッカリの、当時最高に軽い装備で送り出したかったのね。「全部俺と軍曹が貸すから、世界で日本のULとして戦ってこい!」って。

土屋 厨二病だね~(笑)

ーー日本代表を送り出すみたいな(笑)。

寺澤 そうそう。まさに日本代表ですよ。

土屋 俺も一応道具は揃ってたんだけど「でもこっちのほうが軽いから!」って。

寺澤 俺と軍曹が許さなかったからね(笑)。

土屋 そういう話をしていたときに物件が決まっちゃったんですよ。これはもう、降りてきたというか(笑)。しかも5月に物件が決まって7~8月で自分たちで内装やって9月にオープンって決めてたから、6月が空いちゃったのね。「じゃ、もう行けるっしょ!」ってなって。で、べぇさんからどんどんメールで資料が送られてくるわけですよ。さらに荻窪の「かみや」って飲み屋で集まったときに、みんな道具を大量に持ってくるのね。「このザックを使えばいい」「これも使え」って。でも、あのとき実は実際に使ったのとは別の道具もアメリカまで持っていっていたんだよね。一応みんなの厚意は受けていくけど、ギリギリまで悩もうと思って。なかには使ったことのない道具もあったわけで。でもべぇさんちでパッキングするとき、「やっぱりみんながこれを渡してくれたからな」って思って、結局全部それにしたの。

ーーそれ悩むのも土屋さんぽいし結局それで行くのも土屋さんっぽいですね。
寺澤 あのときの装備表、俺のブログに載っているよ。

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2008年JMTスルーハイキング時の土屋さんの装備表(『山より道具』より)。土屋さんのJMT装備表はハイカーズデポのウェブサイトにより整理された表も掲載されています。

土屋 そのとき軍曹に「もし歩けなかったら店に『JMTセクションハイカーの店』ってスプレーで大書きしてやるから」っていわれて、「この野郎、絶対歩いてやる!」って思ったの憶えてる。(笑)

寺澤 たぶんまだJMTスルーハイクした日本人が10人いたかどうかっていう時代だよね。しかもULで歩いた人はまだいなかったはずだ。

土屋 こっちもそれまで培ったものを全部投げ打ってULの店出すわけじゃない。そのときいろんな営業担当さんに「お店辞めて何やるんですか?」ってきかれたとき、「ウルトラライト・ハイキングの店を…」っていうと、みんな「え!?」ってなってたもん。「それすごくいいですね」っていってくれたOD時代の営業担当さんはゼロ。「本当にそれでやっていけるの?」って感じだった。某メーカーさんの展示会に行ったときもそこの社長さんにこんこんと諭されたからね。けど、「いや、ウチはこれなんです」って。

寺澤 かぶとの契りの後ですからね。

土屋 だからアメリカまで行ったときはこっちとしても後に引けなくなってるよね。「これで歩けなかったらどうなるんだろう?」って、切羽詰まってる感はあった。やっていることはただのハイキングなんだけどね。でも、あの当時の自分としては人生賭けるみたいな思いがあって、実際問題あのときの装備がいちばん尖ってた。

寺澤 俺も軍曹もできるだけカリカリで送り出したかったからね。「1gでも軽いものを」って。

土屋 耐久性なんか誰も考えていなかったもんね。あのときはお酒も持っていかなかったもん。

寺澤 それで無事スルーハイク成功して帰ってきて、俺も「よし、土屋さんULの店出してよし!」って思ったからね。

土屋 どんなお墨付きだよ(笑)。

■日本のUL幼年期の終わり

寺澤 でもね、あれがひとつのピリオドだったと思うんですよ。それまでのULに焦がれて探求してきた時代があそこで一段落ついたかなって。

土屋 それはいえるかもね。でも、改めて考えると俺ってモルモットだったんだ(笑)。

寺澤 まさしくそうだよ。あれで日本人がULの装備でちゃんと歩けるんだってことを実証できたわけで。それまでは本当にこれで山行けるのかってこともわからなかったからさ。あそこでそれまでの切羽詰まって軽量化の追求していたのが一段落したんだよね。その頃からブログがきっかけで出会った人といわゆるオフ会的な形で会うことが加速度的に増えてきた。それがすごく面白くて、そのために続けなきゃってモチベーションに半分くらいなってきて、そこから後は惰性で続いてたっていうのかな。

土屋 たしかにあそこで「ULのためのUL」は一区切り着いた気がする。あのとき日本でULをやってた人たちの思いはひとつ形にできたと思うし。そのあとハイカーズデポがオープンしてそれまでの原理主義的に方法論を模索していたULから、もっと大きな「ハイキング」ってものにシフトしていったんじゃないかな。それはお店のスタンスだけじゃなくてまわりのユーザーさんも一緒だったと思う。ある意味あそこで区切りをつけたから、すごく日本のなかでのULの文脈が幅広くなったと思うんだ。

寺澤 うん、広がったとおもう。

土屋 たとえばキャンパーの人たちがオートキャンプのなかにULの道具を持ち込むとか、ULのなかのMYOGって部分にフォーカスする人たちが現れてきたりだとか。最近はPCTのスルーハイカーも多くなってきて、ULを生み出したロングディスタンス・トレイル(*3)への原点回帰的な部分も出てきたしね。それだけいまの日本の状況ってULのなかでも触れ幅ができていて、渓流釣りとか山スキーとか、日本のなかでずっと続いてきた文脈も包括できるようになってきた。これってもしかしたら日本ならではなのかなって思わなくもない。だからテラさんが最近ブログ書かないっていうのも、そのピリオドがあそこであったからなのかもね。でも、それは俺が打ったんじゃなくて、ある意味テラさんが俺をモルモットみたいに使って一緒に区切りを打ったんだよ。

寺澤 最初はブログ繋がりで出会ったけど、面白い出会いではあったよね。よくこの店でふたりで泣いたよね。わーっと話して、最後は結局ULを日本でどう根付かせていったらいいんだって(笑)。

土屋 話聞くだけで厨二病だよね(笑)。

寺澤 この店の外の席でふたりで泣いているっていう(笑)。で、俺はそのころから渓流釣りを始めたんだ。当時BPLのフォーラムでアメリカの連中が「テンカラ(*4)はULだ」って盛り上がっているのを見て、それをローカスギアの吉田丈太郎さんと話したらテンカラの釣り竿を1980円で買ったっていうから「じゃあ俺も買う!」って。それで最初丈太郎さんと行ったんだけど、ぜんぜん連れなくてさ。そしたらヌラさんがこのあたりで飲んでいたら隣の人と仲良くなって、その人が『別冊つり人 渓流』っていう雑誌の編集者だったの。それで「今度誌面でULの道具を紹介してください」って話になって、でもそのときはまだヌラさんは一匹も釣れてないときだったんで、「ヘルプに来て」っていわれて。それで俺も軽い道具を山のように担いで行って、ロケやって山で泊まって、その次から俺のほうが「ULの道具で釣りやってる変なおっちゃん」みたいな感じで『渓流』に出るようになった。釣り方面でもそういう流れが出てきたし、UL方面の人もその頃から走ったり、カヤックやったり、岩登り始めたり、いろんな広がりが出てきて。それまでみんな「道具道具道具!」っていってたのが、2008年あたりからぱーっといろんなとこ散って、そこでやりたいことのための方法論としてULを使うっていう流れがその頃から見えてきたよね。

土屋 だからそれまではULとしても準備期間だったのかもね。そのあたりで臨床実験が終わって、「じゃあこの方法論でいろんなことをやってみようよ」って。

寺澤 あとイギリスにもULのサイトがあるんだけど、そこの連中が「日本にもこんなサイトがある」って感じで、俺のことを書いていたんですよ。そのなかで彼らが”It seems we’re not alone”と書いていたんですね。ULってのはカリフォルニアみたいに乾いた土地の方法論のように思われていたけど、イギリスも日本と同様、雨の多い土地じゃないですか。そういうところでもULにトライする人たちがいるってことがわかって、すごく広がりを感じはじめたのもそのあたり。

渓流釣りを楽しむ寺澤さん(『山より道具』より)

■スタッフ全員がスルーハイカーの店

ーー話はちょっと戻るんですけど、さっきの「『JMTをスルーハイクした人の店』っていえるのといえないの、どっちがいいんだ?」っていう話って、考えたらいまだにハイカーズデポっていうお店のアイデンティティになってますよね。

土屋 そうだね。だからそれはありがたかった思う。まずオープン当初の俺一人でやっていたときは「ウチにはJMTの情報があります」っていうことがひとつのウリで、それで舟田靖章君(日本初のトリプルクラウンハイカー。TRAILSでもTRAIL TALKでロングインタビューを行っているので参照のこと)なんかも訪ねてきてくれたしね。長谷川が入ったあとはPCT(パシフィック・クレスト・トレイル)の情報も教えられるようになったし、その後入ったニノ(二宮勇太郎さん)にしてもいまイベントとかに出てもらっているべぇさんにしても、一回のハイクで歩いてた距離に関していったならば俺がスタッフの中でいちばんおミソだしね(編注;長谷川さん、二宮さんはPCTスルーハイカー。べぇさんこと勝俣さんはアパラチアン・トレイルのスルーハイカー)。それがモノを売るだけじゃなくカルチャーを伝えるっていう部分の大きな柱になっているのは間違いない。国内海外含めてULやロングディスタンスを歩いた実践例、経験と知識に関しては世界中のどの店よりも間違いなくウチがあるはずだし、世界的に見てもウチはオンリーワンの専門店だって自負はある。

ーースタッフ全員がスルーハイカーの店なんて他にないですよ。

寺澤 仕事やめてスルーハイクして、帰ってきたらリハビリに土屋さんとこで働けばいいんだよ(笑)。

土屋 ウチにそんな金はないよ~(笑)。

ーースルーハイカーの駆け込み寺にはなりたくないと(笑)。

土屋 でも結果としてそうなっているのはテラさんや軍曹たちのせいだからね!

ーー土屋さんって大学探検部出身でその後ケイビング(洞窟探検)にどっぷり浸かり、ODボックスに入ってからはクライミングなどに傾倒しつつもお店でも責任あるポジションに立たれて、ある意味アウトドアの世界のど真ん中を歩いてきた人ですよね。でもそういう人が作ったお店がメーカーの人だったりお店の人だったり、もしくはプロのクライマーだったりメディアの人だったりっていう、いわゆる業界の人じゃなく、寺澤さんや軍曹さんみたいな業界外の素人の方の影響がすごく大きいっていうのが面白いですね。そのへんもすごくハイキング・カルチャー的というか。

内装工事中のハイカーズデポに佇む寺澤さん(『山より道具』より)

土屋 実際、店を初めて最初の2年間くらいはあえて直輸入品は扱わないで、日本で手に入るものでやっていこうって決めていたんで、正直、品揃え的には厳しかったのね。そしたらテラさんが私物を「ヤフオクで出すくらいならヌラさんの店に置くよ」っていってくれて。

寺澤 最初はみんなの委託品もけっこうあったよね。

土屋 店のオープン当初はそれですごく助かった。

寺澤 さっきいったみたいな業界の人たちが集まったら高いとこ登ってナンボだとかって話になっちゃうかもしれないし、たしかに我々ハイカーから見たらロングディスタンス・トレイルはエベレストに登る的な感じもあるけれど、かといってPCT歩いてないからダメとか、偉くないとか、そういう価値観は漂っていないよね。そういうところがギスギスしていなくて良いところだと思うんですよ。PCTなんて半年歩いたら社会生活を棒に振るってわかっているしね(笑)。ゴッサマーギアのグレンさん(グレン・ヴァン・ペスキ氏。ゴッサマーギア創業者)が来たときにみんなで奥秩父歩いたじゃないですか。あのときもグレンさんいっていたけど、「日本のハイカーはみんな喋りながら楽しそうに歩いていた」ってどこかに書いてたんだよね。

ーーグレンさんの来日はその後に開かれたハイカーズ・パーティ(*5)を含めてひとつのエポックでしたよね。けっこうあそこで出会った人も多いし。

寺澤 そうですね。だからいろんな人にも会えたし、気が済んだってのはあるよね。当時は俺も使える金もあったんで、べぇさんと「毎月1000ドルは買わないと今月はサボってるよね」なんて話してたけどね。

土屋 バカでしょ(笑)。

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2010年、来日したゴッサマーギアのグレン・ヴァン・ペスキさんと共に土屋さん、寺澤さんを始めローカスギアの吉田丈太郎さん、ムーンライトギアの千代田高史さん、ロータスの福地孝さん、Beyondxブログの吉富由純さんらが奥秩父主稜縦走路をハイキングした。左から4番目の背の高い男性がグレンさん(『山より道具』より)。

■UL梁山泊

寺澤 ちょっと買い物依存症になってたかもしれない。でも子供たちも上の学校上がって使える金も少なくなって、いまはすっかり治った。買わなくてもいられる。いまはメーカーも増えたから全部買ってはいられないし、種は蒔いたと思うしね。いろんな人がいて広がってるのを見るのが楽しいんで、いまは撒いた種を収穫させてもらってるみたいな感じだよね。いまは山やアウトドアへの入り口としてULから入る人も多いじゃないですか。

ーー現在はローカスギアで働いている尾崎光輝さん(TRAILSでは『第4回鎌倉ハイカーズミーティング報告』に登場している)なんかも「フレームの入ったザックを背負ったことがない」っていってましたからね。

土屋 彼はまだ深大寺に住んでたときにウチの店きて、ああいうキャラクターだから、出会ってすぐいきなりタメ口でさ(笑)。最初にゴーライトのジャム(バックパック)を買って、すぐ他にも何か買いたいっていうから、「ジャム一年間使ってからでないと売ってやんねえ」っていったのね。「山始めたばかりのときにザックなんて新しいの買わなくていいから、いまはとにかくこれで行け」って。そしたら彼も道具好きだから、自分でも作るようになって。

寺澤 彼はBPLのMYOGフォーラムでも注目を浴びてましたからね。

土屋 当時は面白かったよ。ハリヤマ・プロダクションの三浦卓也くん(TRAILSでは『第4回鎌倉ハイカーズミーティング報告』等に登場している)も奥多摩の山帰りにしょっちゅうウチ寄ってて、ザック作りたいっていうから「じゃあスピンネーカー(*6)ウチで余ってる生地あるからこれ売ってあげるよ」っていって、店にあるザックも採寸させてあげてさ。

ーー僕も他所でゴーライトのシャングリラ1(フロアレス・シェルター)買って張り方だけ聞きにいったことあります(笑)。

土屋 その頃のウチ、隣のショールームがなかったから廊下で立ててたよね(笑)。山と道の夏目彰さん(TRAILSでは『第4回鎌倉ハイカーズミーティング報告』等に登場している)なんかも店によく来てくれるようになって、あるとき「実は飲みたいんですけど」っていわれてさ。で、「実はいまこういう仕事をしているんですけれど、ULの文化にすごく興味があって」って話をするなかで、「実はバックパックを作ってそれで独立したい」っていわれて。個人的には「ええ~! まだ山始めたばかりなのにバックパック作るって!?」って思ったけど、それはいま考えたら俺の頭が固かっただけなんだよね。

寺澤 夏目さんはグレンさんのハイカーズ・パーティのとき、二次会か三次会まで着いてきたんだよね。それで最後は俺と夏目さんとビヨとかで朝の三時くらいまで飲んだんだけど、そのときも彼が「僕バックパックを作ってみたいんですよ」って話になって、話聞いてみるとちゃんと名の通った会社で仕事をしている人だから、正直やめた方がいいんじゃないかって思ってたの。でも彼はそのあと丸1年開発に費やしてザックを作って、山と道を立ち上げたんだよね。

2010年、奥秩父縦走時の福地さんとグレンさん(『山より道具』より)

土屋 ムーンライトギアの千代田高史くん(TRAILSでは『第4回鎌倉ハイカーズミーティング報告』等に登場している)もそうだよね。「話があるんですけれど、実は店をやりたいんです」っていわれて、「おまえは俺にケンカ売ってるのかコラッ!」って思ったけど(笑)。

寺澤 俺も当時タープをチヨちゃんに売ったことあるよ。ブログ見て連絡してきて、「タープ譲ってほしいんですけど」っていわれてさ。当時彼、神田あたりで働いていたんで、さかいやスポーツのある神保町の交差点で待ち合わせて受け渡してね。「変なヤツだな~」って思ったけど、まさかその後店やるとは思わなかった(笑)。とにかくいろんなヤツがいて面白かったよね。

土屋 さっき「ULはパンクだ」って話で出てきたワンダーラスト・イクイップメントの粟津くんとかも、当時ブログで山小屋廃止論とか唱えててね。そういうこと歯に衣着せずいえる人ってなかなかいないから、過激だけど面白いなって思ってたの。そしたら店に来てくれたときに、リッジレストを切っていくつかのパーツに分解したやつをワイアーで繫いですごく小さく畳めるのを見せてくれて、「わ、これバカだわ~」って(笑)。だから当時のMYOGってエマージェンシー・ブランケットでハンモック作ってみるとか、バカなアイデアなんだけどとにかくがむしゃらに何か作ってみたっていうのがあって面白かったよね。最近のは縫製がきれいだったりデザインが格好よいものは多いんだけど、どこかで見たことあるようなものが多いんだ。

寺澤 そう、それです。誰かの模倣で作ったなら、それをどっか表に出すときはどこにインスパイアされたかははっきり書くべきだよね。「いかにも自分がゼロから考えてやりました」っていうのはいかがなと思うよ。

土屋 あの頃はもうSNSはあったけれどコミュニティーがまだなかったから、ハイカーズ・パーティも来ればテラさんに会えたりして、ひとつの情報交換の場になっていた。いまはウチの店以外にもそういうコミュニティがいくつもできて、自分たちで情報発信するようになっているけどね。

寺澤 俺は割と最初の方にUL始めてうまくそこにはまることができたんで、いま話にでてきた人たちとも最初の頃から知り合うことができたのね。その人たちがそれこそ店やめて仕事やめて自分で何かやりだす、そのリアルタイムに立ち会えている。俺はもともとIT屋さんでずっと籠りっきりでコンピューターをやっていたんだけど、ブログに人がいっぱい集まってきてくれて、それを励みに頑張って書き、実際人とも会うようになり、そういう人にいったいどういう影響を与えてしまったのか俺自身にはわからないけれど、みんな俺のことは知ってくれていて。仕事もほっぽりだしたし金も時間も使ったけれど、いまの俺のいちばんの財産っていったらそれなんだよね。すごく運のいいときにいい場所にいることができた。

土屋 いまテラさんがいったように、今回この『Meet The Hikers!』っていう連載でやっているなかで、やっぱそのとき彼らに出会えたのは嬉しかったし、テラさんはいま歩くことより釣りのほうにフォーカスしているけど…

寺澤 いや、釣りも歩くんですよ!

土屋 まあそれは置いといて(笑)、まぎれもなくあの当時のテラさんはハイカーだったんだよね。そういうハイカーたちにULを介して出会うことができた。ほんとにハイカーにMeetできたっていうのはすごく良かった。こういう出会いはあのときだったからあったともいえるけど、逆にいまの人にはいまの出会い方が絶対あるから、それを繫ぎ合わせるものとしてULとかハイキングがあるといいよね。

寺澤 俺はいまは釣りを主にやってるけど歩いてもいて…

土屋 そこはべつに言い訳しなくていいから(笑)。テラさんがいまでもハイカーなのはわかってるよ。

(*1)セクションハイク:踏破に数週間〜数ヶ月かかるロングディスタンス・トレイルの一部(セクション)を歩くこと。

(*2)スルーハイカー:踏破に数週間〜数ヶ月かかるロングディスタンス・トレイルを一気踏破することをスルーハイク、そしてそれを目指す人をスルーハイカーという。

(*3)ULを生み出したロングディスタンス・トレイル:ULはそもそもロングディスタンス・トレイルを歩くスルーハイカーの中から徐々に生み出されていったハイキング・スタイルだということ。

(*4)テンカラ:竿と糸と毛針のみを使用する日本の伝統的釣り法。道具がシンプルで軽量なためアメリカのULシーンでも注目されている。パタゴニア創始者イヴォン・シェイナードも熱心なテンカラ・フィッシャー。

(*5)ハイカーズ・パーティ:ハイカーズデポが不定期で開催しているイベント。もっぱら三鷹のハイファミリアというカフェで、スライドショーや報告会の形式で行われている。

(*6)スピンネーカー:もともとヨットの帆に使用するために作られた軽量な生地で、UL系アウトドア・ギアの素材としても多用されている。

取材:TRAILS 写真/構成:三田正明 写真提供:寺澤英明

アナタは寺澤英明という名前と、『山より道具』というブログを知っているだろうか。ハイキング・カルチャーに、ウルトラライト・ハイキングに興味があるならば、知らないまま過ごしてしまうのは勿体ない。

ここ数年は釣竿片手に渓流を彷徨い、骨酒をあおり、野宿するのに忙しく、ブログも開店休業を決め込んでいる。だが、当然今も野山を歩き続けているだけに、いいたいことがないわけではないだろう。わたし自身、彼とじっくり話をするのは久しぶりだったが、貫禄の巨体と溢れんばかりの熱量はもちろん健在だった。

『ウルトラライトハイキングギア』の著者であり、日本におけるウルトラライト・ハイキングのランドマークだったブログの主でもある彼が当時何を考えていたのか、いま何を考えているのか、その言葉をきちんと読み解き、記録しておきたい。そして彼の口を滑らかにするためには、ひとつ簡単な方法がある。

というわけで、今回の”Meet the Hikers!”は酒場漫談スタイルでお送りします。(土屋智哉)

対談はおふたりの地元・西荻窪のいきつけの沖縄料理屋さんで行われました。

■山登りじゃなく旅がしたかった

土屋 テラさんとアウトドアとの出会いはそもそもどこだったの?

寺澤 出会いは俺もヌラさん(土屋さんのこと。「ぬらりひょん」という土屋さんのかつてのハンドルネームより)と一緒だよ。芦沢一洋さんの「バックパッキング入門」(*1)。それに高校時代に出会ったんだよ。でも、その前の中学生のとき、家に雑誌の『メンズクラブ』がずらっとあるお洒落な友達がいて、そいつんちに行っては読み漁ってたの。そしたらだんだん『メンクラ』の風潮がアイビーからヘビーデューティ・アイビー(*2)に変わってきて…。

ーー芦沢一洋さんとか小林泰彦(*3)さんが『メンズクラブ』や『ポパイ』の誌上で精力的にアメリカのアウトドア文化を紹介されていた頃ですね。

寺澤 そうそう。小林さんとかが出てきて、その頃『遊歩大全』(*4)なんかも出版されたのかな? 俺は買わなかったんだけど友達が買って、「このスベア123(*5)いいよな~」みたいな話してさ。

土屋 スベアがいいって思ったのって、モノ目線? それともその背後にあるバックパッキングのカルチャーに興味があったの?

寺澤 それ見てバックパッキングがやりたくなっちゃったんだよ。急に。

――当時の中学生や高校生にとってもバックパッキングが山登りとは違うかっこいいカルチャーとして見えてたってことですか?

寺澤 そうそう。それで当時バックパッキングの靴はワークブーツだったんだけど、ワークブーツ履いて遠くまで歩きたいっていう気持ちがそこで芽生えて。

土屋 それまで山とかボーイスカウトの経験はあったの?

寺澤 やってなかった。中学では吹奏楽部でトロンボーン吹いてたし高校では空手部だったもん。で、中学生のときに芽生えたその気持ちで高校のときひと夏バイトして道具揃えて、三陸のリアス式海岸を歩いたり野宿したりヒッチハイクして旅したんだ。

土屋 テラさん出身は青森のどこでしたっけ?

寺澤 三沢。だから久慈のあたりまで電車で行って、そこから歩いたんだ。

土屋 八甲田の山じゃなく海を行ったんだね。

寺澤 そうそう。でも、あのリアス式の海岸って結構アップダウンが激しいんだよね。結局半分以上はヒッチハイクした(笑)。当時は重たい荷物をフレームザックで背負ってナンボみたいな風潮だったから、ハリケーンランプとか家にあるものをなんでも突っ込んできたわけ。さすがにストーブは友達から借りたスベアだったけど。幕はタープに親父が仕事で使っていたエジプト綿のぶ厚い防水布を黙って借りて持っていったんだけど、すっげー重かった。で、めげちゃって。最後は盛岡城公園で野宿したんだけどゲイに襲われそうになって(笑)。とりあえず高校時代はそれでおしまい。

土屋 前回の話でも出たんだけど、バックパッキングって言葉を知った当時に、それを現実にやってみようと思ってもどこでやったらいいのかわからないってのはあったよね。いまだったら「バックパッキングやハイキングに行く=山に行く」で一致していると思うし、むしろ山じゃないとこへ行くって考え方をしている人の方が少ないと思うけど。テラさんと俺って何歳違うんだっけ?

寺澤 俺は52だよ。

土屋 だから8歳違うんだ。俺がバックパッキングって言葉を知ったのはテラさんの10年後くらいだけど、その当時ですらバックパッキングするなら山じゃなくて水平移動で何かしたいっていうのが強かった気がする。

寺澤 そうだよね。

土屋 山登りじゃなく旅がしたかったんだよね。歩いて旅がしたかった。

寺澤 そうそう。『メンズクラブ』なんかで紹介されていたスタイルも登山じゃなかったからね。だからそういう気分は当時の雑誌なんかから刷り込まれていたんだと思う。

土屋 だからあの当時の雑誌もバックパッキングを伝えようってときに、意図的に既存の登山っていう枠組みとは違うんだっていうことを強調していたんじゃないかな。

寺澤 それが新鮮だったからね。

土屋 それは明確に意識されていたし、そういう言葉が使われていたはずなんですよ。

寺澤 「ウィルダネス」っていう言葉が当時はよく使われていて、それは荒野であってマウンテンではない。だから俺がいくところは山頂じゃないなっていうのは当時からあったよね。

ーー寺澤さんが芦沢さんや小林さんが主導していた第一次バックパッキング・ブームをリアルタイムで経験したいちばん下の世代くらいなんですかね。

寺澤 そうだと思いますね。でも山は普段から親が山菜採りに行くのに連れて行かれたりしてて、どちらかというと嫌いだったんですよ。まあそんなんで一回歩いてみてある程度満足して。

土屋 よくその一回で満足できたね。

寺澤 いや辛かったんだよ。すっげえ重かったんだもん(笑)。でもとにかく一回やりかったの。フレームザック背負って短パンでワークブーツ履いて黙々と歩くのがカッコいいと思っちゃったんだもん。そんなこんなで大学に入ってもふたたびバックパッキングをやることもなく、就職もし、それからけっこうすぐに結婚して子供もできたんでそんなことずっとやっていなかったんだけど。

■仕事をほっぽり出してULにはまる

寺澤 それで40歳になったときに中学校の同窓会があって、当時SNSがなかったんでメーリングリストで連絡を取っていたんだけど、その中で同級生の子が「輝ける40代にしましょう」みたいなことを書いていたの。それ見て「そうだな。でもどうやったら輝けるんだろう?」って思って、そういえばむかし山に行きたかったことを思い出したんだよね。コンピューターの仕事で座ってばっかりだったからすごい太っちゃって、ギックリ腰にもなったんで運動しなきゃと思ってたの。それで山に行き始めたんですよ。

ーー寺澤さんは本職は何をされているんですか?

寺澤 プログラマーです。有限会社の社長なんですけど、社員は俺しかいない。ていうのはそんな面白いこと人にやらせたくないから(笑)。全部俺が俺がでやりたい人だから。それで最初は高尾山とか近場から、だんだん北岳とか行くようになって。最初は昔みたいに重い道具で「よっしゃ体力つけてフレームザック担いで行くぞ!」って思ってたの。で、当時ヤフー・オークションでランタンを買ったらその人と文通が始まって、その人が「いまはいかに装備を軽くするかが流行りつつある」ってことを教えてくれて。その人はマットも軽いので行くために板間で寝ていると。俺もそれに感銘を受けてしばらく板間で寝る練習したりしてね(笑)。それでいろいろ調べていったらBPL (BackpackingLite.com*6)に出会って。

土屋 それって2002~3年でしょ。ちょうどBPLが始まったあたりだよね。俺がODボックス(土屋さんの前職で都内に数店舗を構える総合アウトドアショップ)でウルトラライト・ハイキング(以下UL)の道具をちらほら入れ始めたのが2001~2年くらいで。

ーーODでゴーライトを入れ始めたときですよね。

土屋 ゴーライトも入れてたけど、うちは直で入れていたのはグラナイト・ギア。俺、最初はアンチ・ゴーライト派だったから。あそこまで軽くするのはよくないと思ってた(笑)。

寺澤 それでだんだん軽いもの探し始めて。それでそうだ、BPLの前に川崎一さんのサイトにぶつかったんだ。

一同 あー!(川崎さんについては“Meet The Hikers!”第1回を参照のこと)

寺澤 それで川崎さんの影響受けてまずジェットボイルとゴーライトのヘックス3(*7)とヘネシー・ハンモックとか買って。

土屋 その三つは当時のUL三種の神器だよね(笑)。

寺澤 それで海外通販とかやったことなかったんだけど、まずジェットボイルとブラックダイアモンドのファーストライト(*8)を買ったの。BPLとかも最初は機械翻訳しながら読み漁ったよね。当時はもう仕事ほっぽりだしてやってましたから。

ーーどうしてそこまでULにのめり込んだんですかね?

寺澤 やっぱり海外通販。通販で買うのが面白くなってさ。

ーーさすが『山より道具』(笑)。

寺澤 買ったものを持っているのが日本でたぶん俺ひとりみたいな感じで。それで川崎さんがヘックス3の記事とか翻訳してブログに載せていたから、俺も日本にないものをわざわざ取り寄せているわけだから、それでブログを書いてみたいなって思い始めるわけ。

土屋 それでテラさんのブログをお店で見ながら「海外の道具なんて買わなくても日本の道具でもできるんだよ」ってヘソ曲げてたのが俺(笑)。

■『山より道具』というタイトルを思いついた瞬間、神が降りてきた

寺澤 、最初ファーストライト担いで北岳登ったのをブログに書いたんですよ。それはまだ『山より道具』じゃなくて別のブログだったんだけど。でもぜんぜん書けないんですよ。書いては消し書いては消しを繰り返して、ようやく一回アップはしたんだけど、当然誰も見ないじゃないですか。それで書かなくなっちゃったの。でも通販自体がだんだん面白くなって、たとえばヌラさんは当時ODにいたけど、そこでは1ドル=360円くらいで売っている訳ですよ(笑)。

土屋 だーってあのときドル高かったもん!

寺澤 まあその誤解はのちのち解けるんだけど(笑)。「こいつらこんなに高く売りやがって」とか思ってて。じゃあ海外通販で買ったらこんなに安いんだから、それを含めて紹介すれば国内価格の是正に繋がるんじゃないかって思って。それでどんどん買って紹介したくなっちゃったの。普通の山行記事は書けなかったんだけど、何か書きたい気持ちはどんどん湧いてきてたのね。それである日パソコンに向かっているときに、ふと「『花より団子』があるなら『山より道具』があってもいいじゃん」って思ったのね。だってさ、「俺のハイキング」とかにしたら行かなきゃ書けないけど、『山より道具』にしたら山に行かなくても道具の話書いてたら成立するじゃん(笑)。その瞬間に神様が下りてきたんだろうね。スラスラスラのササササーって書けるようになっちゃって(笑)。

土屋 (iPhoneで確認しながら)ちなみに山より道具の最初は2005年の7月だね。1回目のネタがゴーライトのヘックス3。でもこれ買ったのが2004年の11月って書いてある。このとき怒濤のように更新してるね(笑)。

寺澤 このときもう道具が溜まっていたんだよね。だから最初の頃は週2回くらいアップしたりだとか。「行かなくてもいいんだ」って思った瞬間にスイッチ入って、「買って使ってレビュー書くのが俺の使命だ」くらい思って。だから『山より道具』ってフレーズが下りてきた瞬間に俺が始まった、みたいな(笑)。

一同 (笑)

土屋 ちなみに最初の7月が14件。2日にいっぺん上げてるね、この人(笑)。このとき上げてるのいっておきましょうか? ゴーライト・ヘックス3、空き缶アルコールストーブ、ブラックダイアモンドのファーストライト、インテグラルデザインのシルシェルター、それからアルコールストーブがいくつか続いてヘネシーハンモックのウルトラライト・バックパッカー、ジェットボイル、ガーミンのEトレック、ゴーライトのインフィニティ、スイス・アーミーナイフ、それでまたアルコールストーブ。結構最初からアルコールストーブだったんだね。

寺澤  当時BPLのフォーラム(掲示板)でもアルコールストーブ熱が高かったんだよね。

土屋 『山より道具』をカテゴリー別に見ていくと「宿泊系」が74なんですよ。「燃える系」が71で「衣類系」が4。

寺澤 俺、服はなんでもいいんで。

土屋 そこからテラさんの興味のあり方が見えるよね。

(*1)『バックパッキング入門』:1976年に出版された日本初のバックパッキング入門書。著者の芦沢一洋氏は70年代~80年代にかけて米国のアウトドア・カルチャーを日本に紹介して絶大な人気を誇った。

(*2)ヘビーデューティ・アイビー:イラストレーター小林泰彦氏が雑誌『メンズクラブ』誌上で提案した、アウトドア・ウェアとアイビーをミックスしたスタイルで、当時一世を風靡した。その時代の雰囲気は2013年に山と渓谷社で文庫版で復刻された『ヘビーデューティーの本』に詳しい。

(*3)小林泰彦:イラストレーターとして平凡パンチ、ポパイ、メンズクラブ等の誌上で当時最新のアメリカ風俗を紹介。前述の『ヘビーデューティーの本』などでファッションリーダー的な人気も誇った。他にも著書多数。現在にいたるまで精力的な活動を続けている。

(*4)『遊歩大全』:1968年アメリカで出版された(日本では78年)伝説的バックパッキング入門書。長らく中古本市場で高値で取引されていたが、2012年に山と渓谷社から文庫版で復刻された。

(*5)スベア123:当時としては非常に軽量コンパクトな設計でバックパッキングの定番中の定番だったオプティマス社のガソリンストーブ。現在でも生産中。

(*6)BackpackingLite.com:ULハイキングの情報を発信する米国のウェブサイト。ハイカーが集う各種のフォーラム(掲示板)ページも充実している。

(*7)ゴーライトのヘックス:2〜3人で使えて本体重量が約800gという軽さで当時のULシーンでは大人気だったワンポール・シェルター。のちにシャングリラ3という名称に変更されリニューアルされた。

(*8)ブラックダイアモンドのファーストライト:こちらも初期ULシーンで大人気だったシングルウォール・テント。今となってはそれほど軽量とはいえないスペックだが、信頼性の高いオールシーズン・テントとして今だに現役。

取材:TRAILS(佐井聡・三田正明) 写真/構成:三田正明 写真提供:勝俣隆

ハイカーとじっくり語り合うこの連載では「何」を語り合うかが重要だ。伝えたいこと語りたいことを胸の奥にしっかりと持ち続けているハイカーとは、やはり話が早い。そして話は長くなる。

今回のゲスト・ハイカーは勝俣隆さん。マニアックにハイキング・シーンをリサーチしているアナタなら「べぇさん」のあだ名でご存知かもしれない。2000年代にサンフランシスコに在住していた彼は、『Meet The Hikers!』第一回のゲスト川崎一さん同様、当時の日本のウルトラライト・ハイキング(UL)黎明期において、まぎれもないキーパーソンだった。翻訳作業を介さないリアルな現地体験とその情報発信には当時誰もが興奮し、憧れたものだ。

既に日本に帰国して久しい彼だが、ずっとハイカーとして歩き続けてきた。10年を越えようという付き合いの中で、自分も不思議と節目節目では一緒に歩いている。彼が昨年、アパラチアン・トレイル(*1)を半年かけてスルーハイクした際も、最後のおよそ100マイル、ゴールのカタディン山頂までを共に歩いた。

いま彼はポスト・スルーハイクのありようを、歩きながら、考えながら模索している。そんな彼との会話は当然「昔はよかった」というような、ただの回顧譚では終わらない。そこには過去から未来へとつながるリアルなハイカーの「いま」が、溢れんばかりに詰まっているはずだ。(土屋智哉)

ハイカーズ・デポにて。手前は2008年に土屋さんがJMTスルーハイクで使用した勝俣さんの自作タープ。

■はじまりは「バックパッキングのすすめ」

土屋 べぇさんは2000年代の前半からハイカーズデポができる2008年まで仕事の関係でアメリカにいたんだよね。

勝俣 そう。その前にメキシコに2001年から3年間いたんだけど。物流会社に就職して、29歳のときに転勤でメキシコに行ったんです。

土屋 だから『Meet The Hikers!』の1回目のゲストの川崎さんが日本にいながらアメリカの情報を日本のみんなに届けてくれた人なら、ベぇさんは当時アメリカに住んでいて、そこから本場の事情を教えてくれた人。そもそもべぇさんが山に登り始めたのっていつだったの?

勝俣 もともと自転車が好きで、高校の頃からロード・レーサーに乗っていたんだけど、会社に入ったら同僚に乗鞍岳のヒルクライム・レースに誘われたの。でもレースの1週間前に風邪をひいたんで、自分は乗鞍の頂上で同僚を待つことにした。それで前日入りして畳平で一晩明かすことになって、暇だから頂上まで行ってみたら、意外と面白かったの。それで奥多摩とかから歩きだして、だんだん南アルプスとか北アルプスも歩くようになった。

三田 山に対しては、最初はバックパッキングというよりも純粋に登山としての興味だったんですか?

勝俣 97年に山を歩き始めて、最初に買ったのが堀田貴之さんの『バックパッキングのすすめ』だったのね。その本に出会ったときに「こんなことできたらな」という思いが生まれたのかも。

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堀田貴之著『バックパッキングのすすめ(地球丸)』より。

土屋 『バックパッキングのすすめ』読むとさ、「オン・ザ・ロードへふたたび」って章で始まってて、書き出しが「ソロー、ミューア、ギンズバーグ、ケルアック」なんだよね。ソローとかミューアはわかるけどケルアックとかビートニクス(*2)がでてくるのが凄い。

勝俣 でもその本のことはしばらく忘れてたの。そのうち自分がバックパッキングを始めてこれをふたたび読んだとき、「あれ、全部ここで語られてたよ」って。

土屋 そうそう。タープ泊を勧めている日本で初めての本かもしれないよね。

勝俣 タープとビビィなんだよね。これが97年に出てるのがすごいなって。だから最初は普通に山登りをしてたけど最終的にここに来たってのは、最初の方向性がここだったんだろうね。今日、実はいろいろ持ってきたんだけど、これニッピン(*3)のメスナー・サックで、40Lで745g。当時はこれが一番軽かった。当時はチタンのコッヘルとかが出始めて、あらためて装備の軽量化っていう流れができ始めたときだよね。これに小さいコッヘルとかテントとかを入れると10キロくらいで収まって、いままで70Lのザックで行っていたのが、40Lで収まるはずだと。でもその頃40Lの軽いザックってなかった。

土屋 90年代後半ってアウトドア市場がすごく冷え込んでいる時代で、とくに山の道具は動いてなかった。バックパックもメインストリームは質実剛健なもので、サロモンとかがアドベンチャー・レース用のザックを出していたけど、40Lのザックはそんなに軽いのなかった。

勝俣 そうなると選択肢はポケットもなくてなるべく軽く作られているクライミング・ザックしかなかったんだよね。

三田 当時これでキャンプ泊で山に行ってる人っていたんですかね?

勝俣 いなかったんじゃない? これで縦走しようというのじゃないと思う。

土屋 でも、いまでもそうじゃない? 雑誌とかでテント泊用のザックっていったら60L~70Lが勧められるじゃない。こんだけ道具が軽量コンパクト化しているんだけど、泊まりに使うときのザックで雑誌で推奨するサイズってまったく変わっていないんだよね。俺が大学のときは80L以上を買えっていわれたもん。「20キロ以上を背負えないと男じゃない」みたいな。だから俺もやっぱり当時40Lくらいのモンベルのアルパイン・パックっていうのを使ってて、ビビィとかは買えないからシュラフカバーだけで八ヶ岳縦走をひとりでやったりしてたけど。べぇさんはそのときテントなに使ってたの?

勝俣 ICIのいちばん小さいやつ。

土屋 あー、ゴアライト(*4)? あれは憧れだったよね!

勝俣 畳むと小さくなるしね。

土屋 でもメスナー・ザックにキャンプ道具入れて縦走するっていうのはベーさんが当時登山者としての指向が強かったからじゃないかな。自分もやっぱりそうだったから。逆にだからULにすっと入っていけたのかもね。バックパッキングっていう文化には俺もベぇさんも早くから出会っていたけれど、実際に日本でやるとなると憧れつつも難しさを感じていたんだよね。

■バックパッキングをどこでやる?

三田 たしかに『バックパッキングのすすめ』って自分も山を始めて最初に読んだ入門書で、すごく面白かったんですけど、じゃあそれを実際にやるとなると…

土屋 「どこでやるのよ!?」ってね。

勝俣 その当時はわかんなかった。

三田 とくにまだ山の経験もない初心者にとっては、ぜんぜんわからなくて。それが書かれていないところが不満だったんですよ。

勝俣 エッセンスは書かれているけど、これを読んだだけですぐに同じような体験ができるわけじゃないからね。

三田 「結局はアメリカ行かないとダメなのかな」って。実際に自分で海外を歩いてみたり、日本人でアメリカのトレイルを歩いた経験のある人が増えたりして、最近になってその垣根が徐々に取り払われてきた気もするんですけど。アメリカと日本で確かにトレイルに違いはあるけれど、自然を歩くということではそこまで違いがあるわけではないと思えるようになってきたというか。

勝俣 当時、この堀田さんの本の他に山と渓谷社が出していた『アウトドア』って雑誌もあったじゃないですか。いわゆるバックパッキングをフォーカスすることが多い雑誌だったんだけど、そのフィールドが我々の側にはなかった。

土屋 やれるフィールドは本来あったはずなんだよね。でも気づけなかった。「ここでやればいいのかな?」って思っていても、聞く人がいなかった。だからULのとき俺にとって面白かったのが、べぇさんとかに「こういう感じでいいんだよね」って聞けたとこ。バックパッキングのときもアメリカの本場を知ってる人に聞ける窓口があれば違ったのかもしれないけどね。

勝俣 で、初めてヨセミテ行ったのがメキシコに住んでいた2002年くらいだったと思うんだけど、当時の自分のイメージとしては、アメリカの山はでっかい装備をもっていかないと歩けないんじゃないかって思っていたのね。でも行ってみたら全然そんなことなくて、むしろヨセミテは上高地に近かった(笑)。もしかしたらジョン・ミューア・トレイル(JMT—*5)もそんなに険しくないんじゃないかって思い始めて。

土屋 面白いね。

■始めて買ったのはゴーライトのジャム

勝俣 で、2002年に初めてULのザックを買った。ゴーライトのジャムを。

土屋 それはなんで買ったの?

勝俣 『Backpacker Magazine』で「ウルトラライトという新潮流が出始めた」って記事を読んで。

土屋 前回の川崎さんでも同じような話聞いたぞ(笑)。

勝俣 当時グレゴリーがアドベント・プロっていうシルナイロンのザックを出して、それが1.1kgぐらいだったんだけど、一方ジャムは600gしかなくて、「なにが違うんだろう?」って思って買ってみた。

土屋 でもジャムだったんだね。ブリーズとかドーン(*6)じゃなくて。

勝俣 ゴ―ライトもブリーズとかドーンの時代はまだ評価が定まっていなかった。当時は小さい会社が独特なカバンを作っているって感じだったからさ。ジャムになって初めてある程度みんなが使えるザックになったっていう印象で、はじめてマスマーケット向けプロダクトとして出されたんじゃないかな。それまでは通販だけだったのがR.E.I(*7)でも扱うようになって、メジャー系のところで買えるようになった。

勝俣さんが手にしているのがゴーライトの初代ジャム。

土屋 実際ブリーズとかドーンって俺が以前勤めていたODボックスでも入れたのね。でもまったく売れなかった。スタッフからはブーイングですよ。いま思えばあの当時の在庫全部俺が引き取ればよかったと思うけど(笑)。最後はブリーズを5000円くらいにしてやっと売れた。ジャムになってやっとスタッフに「これはいいかも」って言ってもらった。でも、最終的にジャムが多くのユーザーさんに受け入れてもらえるようになるのはこのもっともっと後だからね。ジャム2になって、さらにそのあと背中にメッシュが入るようになって、ようやく多くの人に届くようになった。

勝俣 僕もジャムには不安感あったけど、89ドルだったんだよね。なら試してみようかなと思って。

土屋 それはメスナー・ザックに変わるものとして買ったの?

勝俣 いや、ロスアンジェルスに出張に行くときに使うために買ったの(笑)。

土屋 でた、そういうお客さん(笑)。

勝俣 当時、自分はメキシコにピコ・デ・オリサバっていう標高5600mくらいの山があるんだけど、そこに登るためのチームを友達と作って訓練をしていたんだ。だからもう気持ちは高所登山の方で、ジャムはアプローチ用とかアタックザックで、かつ出張のときに使えるかなって。それでバックパッキングをしようとはまだ思っていなかった。

(*1)アパラチアン・トレイル:アメリカ東部アパラチアン山脈などに沿って約3,500kmに渡って伸びる超ロングトレイル。通称AT。(*2)ビートニクス:1950年代アメリカで生まれた物質文明や常識的価値観に疑問を投げかけ、旅とドラッグと東洋思想に耽溺した若者たちによる文学運動。代表作家にジャック・ケルアック、アレン・ギンズバーグ、ウィリアム・バロウズなど。(*3)ニッピン:東京秋葉原と神田に店を構えるアウトドア•ショップ。「メスナー」のブランド名でオリジナルのテントとバックパックも製造している。(*4)ICIのゴアライト:石井スポーツがパイネのブランド名で製造販売するテント。現在はG-LIGHTという名称に変更されている。(*5)ジョン・ミューア・トレイル;カリフォルニア州シェラネヴァダ山脈に伸びる340kmのロングトレイル。通称JMT。 (*6)ブリーズとドーン:ゴーライト初期のザックBreezeとDawnのこと。(*7)R.E.I:アメリカ全土に支店のある巨大アウトドア•ショップ。

取材:TRAILS   構成/写真(人物):三田正明

TRAILS読者ならば知らない人はいないであろう、日本のウルトラライト・ハイキングの伝道者にして三鷹ハイカーズデポ店主、土屋智哉さんによる対談シリーズ連載が今回からスタートします! 

記念すべき第一回目のゲストは川崎一さん。ゼロ年代の日本のウルトラライト・ハイキングの黎明期、『狩野川のほとりにて』というサイトを開設して(現在は閉鎖)海外のガレージメーカーの情報やご自身が歩かれたアメリカのトレイルの情報などをいちはやく日本に伝えてくれた先駆者で、現在は定番アイテム化したジェットボイルを最初に日本に紹介したのも実は川崎さんなのです。

「川崎さんから大きな影響を受けた」という土屋さんのたっての希望で決められたこの対談。まさにTRAILSでしか読めない「濃い」話の連続になりました。当時を知る人も知らない人も、ぜひ日本のウルトラライト・ハイキングの過去と現在と未来を巡る旅におつきあい下さい!

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 ■なんでこの人こんなに海外の情報に詳しいんだろう

――僕たちがウルトラライト・ハイキング(以下UL)に興味を持ち始めたのってたぶん2006年くらいだったと思うんですが、当時は雑誌にもほとんど情報がない状態で。それで「ウルトラライト バックパッキング」なんてキーワードで検索してみるんですが、そこでまずヒットするのが川崎さんのホームページだったんです。そこを覗くと当時の日本ではまったく紹介されていないマイナーな新興メーカーやガレージメーカーの製品の詳細な紹介記事やレビューの翻訳がたくさん掲載されていて、日本の雑誌とはまるで違う世界が広がっていて。そこで何かが起きていることを強く感じさせてくれたんです。日本では僕たちと同じような時期にULに興味を持ち始めた人って多いと思うのですが、当時はそのほとんどの人が川崎さんのページをチェックしていたんじゃないかな?


川崎
 そう思うと、あのホームページも開いた価値はあったんですね(笑)。

――むちゃくちゃありました!

土屋 俺が川崎さんを知ったのって2000年前後にレイ・ジャーディンの『Beyond Backpacking』(注1)が出版されてゴーライトが出てきて、いわゆるUL的なものがアメリカでも注目され始めたとき。その前後に川崎さんもホームページを立ち上げてたんですよね。俺もゴーライトが初めてORショー(注2)(アウトドア・リテーラー・ショー。米国ソルトレイクシティで年二回開催されるアウトドア関連の巨大展示会)に出店したときに居合わせて、当時さすがにゴーライトは軽量化に振り切り過ぎだなって思ったんだけど(笑)、それ以降グラナイト・ギアとか、インテグラル・デザインズのライトウェイトなものをお店(当時土屋氏が勤務していた総合アウトドアショップのODボックス)で売り始めたんです。でもまだSNSもない時代で、日本でULをしている人たちが本当にいるのか、正直わかんなかった。そんなとき川崎さんから店に問い合わせが来て。

川崎 たぶん靴のことだったと思うけど、問い合わせしたらたまたま土屋さんに繋がったんですよね。

土屋 当時、ODの本部にマニアックな質問が来ると俺のところにまわってくることがよくあって。それでメールのやりとりをしていくなかで話が広がっていって、川崎さんのページを見るようになった。

川崎 「こんな面白いのがあるんだけどODボックスで入れられませんか?」とか、そういう話ですよね。でも面白がってくれて。面白がってくれる人がいるってのは、ひとりULを孤独にやっている身としては嬉しいじゃないですか(笑)。

土屋 こっちもULに興味を持ってそういうの入れ始めたときだったんで、川崎さんのホームページ見るとゴーライトのHexっていう円錐型のシェルターの海外でのレビューとかが翻訳されてて「スゲー!」みたいな。当時俺は『Beyond Backpacking』を辞書引きながら時間かけながら読んでたときで、ほとんど絵を見るだけで満足してたんだけど(笑)。「この人全部読んでんだ!」みたいな。

川崎 僕も辞書引きながらだけどね。英語そんなに得意じゃないんで。

土屋 え!? 本当に辞書引きながら読んだんですか? 情報もすごく早いし、英語ができる人だと思ってましたよ。

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――てっきり当時アメリカ在住だったのかなとか思ってましたけど。

川崎 ぜんぜん違いますよ(笑)。

土屋 俺は今日までそう思ってましたけど(笑)。「なんでこの人こんなに海外の情報に詳しいんだろう」って思ってたもんね。いまの子たちからするとネットで海外の情報を知るのってあたり前かもしれないけど。

――当時は検索エンジンもそこまで精度がなかったですからね。

川崎 向こうのガレージメーカーのサイトなんかを見つけてそこに質問しているうちに、そいつが他のところを紹介してくれたりって感じでしたね。メールだからできたんですよ。喋っても聞き取れないけど書かれているから翻訳できるし、こっちの中学生くらいの英作文でも向こうに通じるし。向こうも興味持ってくれる人がいるのは嬉しいはずなんですよ。最初は奥秩父の雁峠でレイウェイのタープを貼って泊まったらえらい寒くて、「なんでこんなに寒いんだ!?」ってレイ・ジャーディンに直接メールで文句いいました(笑)。「日本は湿気がすごいんだよ」って話をしたら「バグネットを貼ったらどうだ」って。答えにならない答えでしたけどね。「ULはステップ・バイ・ステップじゃ!」って書かれてて(笑)。

――(笑)

川崎 「バグネットを貼れば湿気をすこしトラップするので、暖かいはずだ」っていうんですよ。でも「日本で霧のでない山はないから、おまえの本にはひとつも書いてないけど、フォグ(霧)やヴェイパー(結露)の対策はないのか?」って聞いたら、「こっちではあまり聞かない」って。その後JMT(ジョン・ミューア・トレイル)(注3)にいってみて、「たしかにここはタープだけでいいな」って思いましたけど。

土屋 JMTはね。でも東のアパラチアの方とかコロラド・トレイルなんかもフォグは出るんですよ。夏場は夕立がすごいから。だからその当時はさっきの「ステップ・バイ・ステップだ」じゃないけれど、みんな試行錯誤していましたよね。「これで大丈夫なのか?」って。

川崎 怖かったですもんね、やっぱ。

土屋 山でタープで寝るってのもそうだし、「アルコールストーブだけほんとに大丈夫なのか?」とかね。日本の山をULの装備で歩けるのか、最初は本当に半信半疑でしたよね。

川崎 山の上でどうにもならなくなったらシャレにならないと思いながら怖々使ってた。だから病院の裏山で夜一人で野宿して試してみたりとか。

土屋 だから俺が当時ULの装備で奥秩父の全山縦走をやったのをODボックスのブログであげた時、「本当に日本の山でやる人いるんだ!」っていう、すごい反応があったんだよね。そこで一気に広がっていったんですよ。UL関連のいろんな人とわって繋がって、お店に来てくれる人が増えて。それが2005年かな?

対談に出てきた全山縦走の2年後、2007年に再び土屋氏が行った奥多摩奥秩父全山縦走

(注1)Beyond Backpacking:ULの方法論を体系化した最初の書籍。現在は『Trail Life』と改題・改訂されている。著者の冒険家・レイ・ジャーディンは現在はRay=Way Productionsを主宰して自身が設計したバックパックやタープのキット販売も行っている。(注2)ORショー:アウトドア・リテーラー・ショー。米国ソルトレイクシティで年二回開催されるアウトドア関連の巨大展示会。(注3)ジョン・ミューア・トレイル:カリフォルニア州シェラ・ネヴァダ山脈にある全長340kmに渡って伸びるロングトレイル。通称JMT。

■『バックパッキング入門』の衝撃

土屋 川崎さんて、もともといつ山を始めたの?

川崎 僕は出身は東京なんですけど、高知の医大に行って、6年間医学部にいてから横浜市大の医局に入局したんですよ。でも、高知のときはアウトドアは嫌いで(笑)。

土屋 「アウトドアの人はきたない」って思ってませんでした? 俺、高校のときは汚いの苦手でそう思ってた。

川崎 東京育ちだから田舎が嫌でしょうがなかったんですよ。高知医大(現在は高知大学医学部)に入って最初は大学のすぐ近くに下宿したんですけど、そこが田舎ですごく嫌だった。だから高知市内に引っ越して、そこから大学までバイクで通うことにしたんです。川沿いをずっといくんですけど、四季の変化をもろに感じるんですよ。当時はノーヘルで良かった時代ですから(笑)。そうすると春に山を見ていても、秋の景色が想像できるでしょ。時間と共に自然が動いていくっていうのがわかってから、急に自然が好きになっちゃって。だから大学を卒業するとき高知に残るか横浜にいくか相当悩みました。仁淀川とか四万十川も当時はもっと自然そのもので、まあきれいで。でも横浜の医局に入って最初の数年は忙しくてとても他のことなんてやっていられない状態で、そこで研修医を2年こなしてから、沼津の病院に入ったんです。そこでも若手の頃は忙しくてなにもできなかったんですけど、中堅になってきたころ地元の喫茶店が行きつけになって、そこのマスターが山屋(山好きのこと)だったんです。それで一緒に山へいくようになったんですけど、最初はでかいカリマーのザック担いで、そこにクソ重いモス(注1)のテントを入れていた。

土屋 でも最初からモスだったんだ(笑)。

川崎 コンピューターもずっとアップルだったし、たぶんヒッピー文化に対する漠然とした憧れがあったんですね。そんなときに喫茶店の山屋のマスターに芦沢一洋さんの『バックパッキング入門』(注2)を教えてもらって、すごく衝撃を受けて。山屋の世界て山岳会とか、縦の序列が厳しいでしょ? ちょっとなにか変なことやると「山をなめるな」っていわれたり(笑)。「これじゃ体育会系の上下の序列と一緒じゃん」って思ってた。それがすごく嫌だったところにヒッピー文化がルーツにあるバックパッキングってのがあるってことを、芦沢さんの本で知ったんです。

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バックパッキング入門(芦沢一洋著/山と渓谷社刊1976年)

――最初の衝撃が『バックパッキング入門』って、土屋さんも同じですよね?

土屋 俺は浪人時代に出会ったんです。ちなみに川崎さんってお年はおいくつなんですか?

川崎 昭和35年生まれです。

土屋 じゃあ俺の一回り上ですね。俺は46年生まれなんで。俺が『バックパッキング入門』と出会ったのもほぼ同じ時期ですね。俺は19歳で浪人してた時だから、たぶん1989年~90年。

川崎 芦沢さんが亡くなる直前くらいですよね。それで芦沢さんの古い本を見つけては貪り読んでいたんですけど、芦沢さんがカタカナで「ウィルダネス」って書いていたんです。その響きにシビれて(笑)。

――わかります(笑)。

川崎 いわゆる「山」とは違うなって思ったんですよ。山って垂直指向だし、ヒエラルキーが厳しいけど、バックパッキングには水平指向を感じて。それで『BACKPACKER MAGAZINE』(注3)を向こうから取り寄せて定期購読することにしたんです。読んでみると日本の雑誌とぜんぜん違ってて、レビューは辛口だし、「スポンサーのことこんなに悪口かいていいのか」と(笑)。すごく自由な感じを受けたんです。まあ、実際は制約もあるんだろうとは思いますけど。そういう文化を見て水平文化というか、日本の山文化とは違うものがあるんだなと。そんなときに『Beyond Backpacking』という単語が眼に入ってきて。僕の大好きなバックパッキング文化を越える(=Beyond)ものっていう、ずいぶん大層なことを書く奴がいるなって思って。『BACKPACKER MAGAZINE』にBreeze(注4)の写真と一緒に『Beyond Backpacking』が紹介されたゴーライトの小さな広告が載っていたんですよ。レイ・ジャーディンに協力してもらって、その本のコンセプトを製品化したものだっていうふうに書いてあって。でも数年たったらレイウェイと袂を分つようにレイウェイとそうじゃないものをはっきり表記を別にして売り出したんで、「仲違いしたのかな?」って思ったんですけど。でもゴーライトの初年度の製品はレイウェイ一色で。それで興味を持って、バックパッキング文化論みたいな本だと思って買ってみたらそうじゃなくて、「これはひとつの手法で、でも先鋭的な方法論なんだ。でも歴史はすごく古くて、エマおばあちゃん(注5)の時代からある」って書いてある。さらに「市場で売られている道具はヘビーでタフすぎる。そんな強度も重さも必要ない」といっていて、変な髭面のおっさんが片方だけでザックを担いで、短パンとテニスシューズはいて二カッっとやって映っている写真があって、それで大変なショックを受けましたんです(笑)。

Ray Jardine “Beyond Backpacking” (Adventurelore Pr;1999)より

(注1)モス:MoMAにも所蔵された美しいドーム型テントで人気のあった米国のブランド。2001年にMSRに吸収されブランドは消滅したが、現在でも根強い人気がありコレクターが多い。(注2)バックパッキング入門:1976年に出版された日本初のバックパッキング入門書。著者の芦沢一洋氏は70年代~80年代にかけて米国のアウトドア•カルチャーを日本に紹介して絶大な人気を誇った。(注3)BACKPACKER MAGAZINE:1973年創刊の米国のアウトドア雑誌。年に一度、エディターやライターによるテストを経て選考し、その年の優れたギアに贈られるEditor’s Choiseが名物企画。(注4)Breeze:レイ・ジャーディンが設計協力したゴーライト初期の傑作バックパック。雨蓋とフレームのオミットや前面の大型メッシュポケットなど現在まで続くUL系バックパックの特徴がほぼすべて盛り込まれている。(注5)エマおばあちゃん:1954年、67歳で全長約3500kmのアパラチアン・トレイルを女性として初めて単独踏破したエマ・ゲイトウッドのこと。ケッズのスニーカーを履いてシャワーカーテンをテントにし、バックパックの代わりに手製の布袋を肩に担いで総重量を9キロ以下に抑えたそのスタイルはULの始祖としても名高い。

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■第二の衝撃『Beyond Backpacking』

土屋 川崎さんと俺は年齢差もありますけど、80年代後半、90年代最初の同じ時期に同じように芦沢さんの本に衝撃を受けてアウトドアを始めたっていうのは一緒で、でもそこから俺はケイビング(洞窟探検)に傾倒したりしたけど、川崎さんはバックパッキングからずっと浮気しなかったじゃないですか。それがあった上での『Beyond Backpacking』だったから、よりガツンと来たのかな?

川崎 うん。まずは題名でびっくりした。

土屋 たしかに衝撃的なタイトルですよね。

川崎 「こんなこといっていいの?」って思ったもんね。でもよく調べたらレイ・ジャーディンってクライマーとして昔から有名な人で、だからいいかげんな本じゃないって思って読み始めたら、最初はよくわからなかったけど、後半のほうで意識の持ち方とか、五感の研ぎすまされ方に言及されていて、そこは僕の精神科医という職業柄からもすごく興味を引かれたんです。ハイキングが三日を越えるとまず嗅覚が鋭くなる。一週間から一ヶ月を越えると聴覚が鋭くなる。もっと越えると…ってのがいろいろ書いてあって、これはロングハイクをやった人でないとわからないことだと思った。あと時間の感じ方も変わってくると。彼はタープ一枚で、テントみたいに囲まれた状態でない場所で寝ることの繰り返しのなかでそういうふうに感覚が変わってくると。

土屋 自分が辞書片手に読んでたときに衝撃的だったのが、ハイキングの方法論だけじゃなくそこに思想的な部分が入っているとこ。そもそも彼は物質文明とか現状のアウトドア・マーケットを完全に否定するところから入っているから。さらにモノの否定、経済の否定までいっちゃうから、ほんとすごくラジカルなんだけど、だからこそ精神的な部分であるとか、ハイキングがもたらす本来の歓びみたいなところに踏み込んでくれたのがすごく面白かった。俺なんかは正直「ものを売る」ってことを生業としているから、本当に今でもそれとの自己矛盾に悩みつつもあるんだけど。でもそういうものが片側にあるって気づかさせてくれたのは、すごく面白かったですよね。レイ・ジャーディンはULの方法論を突き詰めることによて「自然回帰」というか、「自然と一体化する」思想をプラスしたと俺は思うのね。「自然回帰」って、どちらかというと自然のなかにいって都市に戻ってくるようなイメージを自分は持っているんだけど、レイ・ジャーディンの場合はもっと自然と自分との同一化を計ろうとしている。

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川崎 インターネットが始まってすぐの頃、アメリカに”White Blaze”とか、バックパッカーの掲示板でいくつか有名だったのがあって、そういうところに出入りしてた時期があったんです。そこでも彼は「グル」って呼ばれてて、やっぱり変わり者扱いでしたね。いまでこそ“Classic Ray Jardine Style”とかって呼ばれてるくらいですけど、当時は先鋭的だけどかなり変わった人ってイメージで、アメリカのバックパッキング・コミュニティでもそうだった。

土屋 川崎さんはそれをリアルタイムで知れてるのが凄いよね。

川崎 僕がレイ・ジャーディンと蜜月だった頃のゴーライトでとくに面白いと思ったのはウインドシャツの上下で…

土屋 Barkですよね!

川崎 そうそう。シルモンドっていう、100%ポリエステルのツルツルした上下で、防水性はないし今からするとちょっと重いんですけど、着ててすごく気持ちよかったんです。色はほとんど真っ白で、それには理由があって、ダニがくっついたときに白ならすぐ見えるんですよ。『Beyond Backpacking』にも「ダニが媒介する感染症が多いから気をつけろ」という記述があって、なるべく白いものを着ろと。

ゴーライト“Bark”を着用する川崎さん

土屋 ライム病ですね。

川崎 当時いわゆるウインドシャツってなかったけど、これを山で着てみると、すごい体温調節しやすくて。「なんて革命的なんだろう!」って思ったのを憶えてますね。「レイはやっぱり信じていいんだ!」って(笑)。

土屋 Barkはその後年になるといろんな色が出てくるんだけど、基本的にはノンコーティングのポリエステルで、「ウインドシャツ」っていうカテゴリーが当時はすごく新鮮だった。その後パタゴニアのDragon Fly(現在のHoudini Jacketの前身)が出た頃くらいから、いわゆるウインドブレーカーのもっと軽量で透湿性重視のものってことであちこちのメーカーが出すようになっていったけれど。やっぱりあの当時のレイウェイのものって、シンプルだけど考えられていましたよね。

川崎 考え抜かれていたし、ひとつひとつが絶対必要なものだった。「そのどれかひとつでも欠けるとダメ」っていう、精密なシステムですよね。

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ヘネシー・ハンモックと川崎さん

■伝説の『狩野川のほとりにて』秘話

――川崎さんがホームページを立ち上げた経緯を教えていただけますか?

川崎 一番最初はヘネシー・ハンモック(注1)だった記憶がありますね。ハンモックに泊まるって発想がまったくなかったんで、初めて見たときはぶったまげた。それで、最初は自分のためにヘネシーのサイトの全部のページをこつこつ訳しだして、いろいろ写真も貼付けてマイクロソフトのワードのテキストファイルを作ったんです。そうしたらワードに「ウェブで公開」ってボタンがあって、それを押したら一発でそのままウェブにアップできる機能があるんです。せっかくだから公開できないかなと思って、ヘネシーにメールを出したら「翻訳したものがそちらの利益になるわけじゃないなら載せていいよ」っていってくれたんですよ。いまは厳しいのかもしれないけど当時はぜんぜん緩くて(笑)。

――じゃあワードで作ったテキストファイルをそのまま公開していたわけですね。

川崎 そうですそうです。ウェブ用のHTMLエディターなんて持ってないんで(笑)。ワードで書いて、写真もある程度ワード上でレイアウトして。プロバイダのOCNにワードのファイルをHTMLに自動的に変換してくれるサービスがあったんですよ。だからワード上ではきれいにレイアウトされているんだけど、HTMLにあがってブラウザでみるといろいろ変わっちゃってたりとか(笑)。当時はまだネット上の写真の著作権とかもあまりうるさくなくて、ネット上でそんなことをやる人も多くなかったんで、気軽な気持ちでやったんですよ。それで面白くなって、次にやって、ジェットボイルの新製品出たときには向こうの動画つきのサイトを真っ先に借りてきたりして。それからキファル(注2)、ラグジュアリー・ライト(注3)とか、いろいろ足していったんですけど。当時、ガレージメーカーは宝の山だと思ってた。面白いことやっているとこがいっぱいあるじゃないかって。

『狩野川のほとりにて』よりLuxuaryLite Stack Packの紹介

土屋 自分が川崎さんと出会ったのもそれがきっかけですもんね。でも普段は主に道具の話とかだったりして、お互いどんな道を歩んできたかなんて話しないじゃないですか。今日初めて川崎さんがどういう経緯でバックパッキングにはまって、いろいろ歩きながら試行錯誤してきて、本当に「ビヨンド」バックパッキングになったんだってわかって、ちょっと衝撃ですよ。当時もうひとり大畑雅弘さんという方が「ウルトラライト・ハイキング」っていうそのものずばりのサイトをやっていて、その方はやっていること自体はライトウェイト・ハイキングで、従来のバックパッキングのスタイルをすこしづつライトウェイトにしていくっていいうスタイルなんだけど、ULがいまムーブメントとして起こっているんだということを書いていて、海外のガレージのサイトにもリンク貼って、自分が海外のトレイルを歩いたレポートもあって、けっこう読み応えのあるサイトだったんですよね。だから自分のなかではどちらかというと大畑さんのほうが「歩く人」というイメージがあった。川崎さんの方は、「狩野川のほとりにて」っていうサイトで。

川崎 当時ほんとに狩野川のほとりに住んでいたんですよ。病院の社宅が狩野川沿いにあって。

土屋 そのサイトを見たときに、川崎さんって「歩く人」っていうよりは道具の方でマニアックに見ている人なのかなって印象が最初は強かったんですね。ULギアの方向性のなかでものごとをどんどんシンプルしていく方向性と、テクノロジーをうまく使って、新素材とか新しいテクノロジーを利用してイノベーションを起こしていく方向っていう二系統あったときに、川崎さんはそのイノベーションを起こす方向にすごく興味を持って見られていたから、どちらかというと道具よりの方なのかなって思ってたんだけど、今日お会いしてやっぱり根っこは同じだったことがわかったんで、それが知れただけでも嬉しいですね。

(注1)ヘネシー・ハンモック:「ハンモックに泊まる」ことをコンセプトに作られたキャンピング・ハンモック。日本のUL界でも一時期ちょっとしたブームを巻き起こしたが、その火付け役が川崎さんだった。(注2)キファル:中央に薪ストーブを設置できる円錐型の1ポールシェルターが有名な米国のアウトドア•メーカー。(注3)ラグジュアリー・ライト:シリンダーを重ねたような独特の形状のカーボン・フレームザックなど、独創的なアイデアで知られる米国のガレージメーカー。なかでも超軽量コットはTherm-a-Restで有名なキャスケード・デザインに買収されマスプロダクト化されている。

JMTでの川崎さん

JMTでの川崎さん

ライターA群

WRITER