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全10回でお送りしてきたCrossing The Himalayasも、遂に最終回。ネパール〜インドのヒマラヤ山脈をワンシーズンで横断するというトラウマの驚くべき旅が、いよいよゴールに辿り着きます。思い起こせば無能なガイドに悩まされたり、雪男騒ぎがあったり、オサマ・ビン・ラディンの暗殺事件に遭遇したり、原野での奇跡的な再会があったりと、様々なことのあったこの旅。3220kmを歩ききったトラウマの胸中に去来するものとは…!?

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■ダムに沈む谷

この旅で最後から2番目の峠、標高5100mのシンゴ・ラはインド/パキスタン国境までで最も高い峠だったけれど、トレイルは歩き易く、素早く登ることができて、通過は簡単だった。もっとも、過酷な状況下での数ヶ月に及ぶ奮闘が僕を成長させたので、楽に越えることができたのかもしれない。峠には雪が少し積もり、小さな雪原と薄く氷の張った湖があった。僕の身体には力がみなぎり、そこから見えた行く手の地形も簡単に越えられそうだった。数日後には国境に辿り着き、無事ハイキングをフィニッシュできることは確実に思えた。僕がシンゴ・ラ越えのルートを取ったのは、近い将来インド政府がそこに道路を通すという噂を聞いたからだった。ウィルダネスが永遠に失われてしまうその前に、シンゴ・ラの手つかずの自然を味わっておきたかったのだ。

美しい渓谷。Another beautiful river valley.

凍りついた朝の小川。A mountain stream on a chilly morning.

凍りついた朝の小川。A mountain stream on a chilly morning.

それまでのインドでの旅のなかで、僕はすでにいくつもの地域で環境破壊の現場を目撃していた。人里離れた峠を下っているとき、巨大なダム湖に出たことがある。けれど、その湖は地図に載っていなかった。インドは発展する経済が必要とする電力を賄うため、多くの谷を水没させてきた。彼らは情熱を持続可能な発電方法や水力発電政策を転換することに向けず、それどころか次々とダムを作り、手つかずの場所を水没させている。さらに建設のための道路が作られ、それがバックカントリーの環境を孤立させてしまっている…。

これはとても難しい問題だ。僕も経済発展の必要性はわかっているし、電気が行き渡ることで人々の暮らしが楽になることは尊重する。けれど、ジョニ・ミッチェルの言葉を借りるなら、『彼らは楽園を舗装して駐車場を置いている(訳注:ジョニ・ミッチェルの代表曲”Big Yellow Taxi”の一節)』。発展途上国にあるヒマラヤの多くの場所で、僕は同じようなことを感じてきた。国立公園に指定された場所のなかにも人々が住み続け、放牧をし、薪のため木を伐採している。先進国の多くの国立公園とは、定義の面でも保護の面でも異なっているのが実状なのだ。

山羊の乳を搾るムーラン。Mulan milking the goats.

羊飼い小屋の入り口に立つムーランの兄弟。あたりは山羊に囲まれている。 Mulan’s brother, near the entry to their hut, with their herd surrounding the area.(ムーランについては♯9を参照のこと)

■驚くべき肉体の適応能力

僕は渓谷を下っていった。徐々に景色はこれまで通過してきた地域よりも乾燥してきて、ネパールのドルパ地域を思い起こさせた。ドルパがダウラギリの雨陰にあるように、ザンスカール山脈は多くの人がヒマラヤの主稜だと考える稜線の背後にある(訳注:雨陰とは山の風下の地域が山のおかげで雨雲が遮られ、乾燥することを指す。ザンスカールもヒマラヤの稜線の風下なので乾燥しているということ)。植物はほとんど生えていなかった。数時間後、僕は未舗装路に辿り着き、僧院のある小さな村を越えた。僕の行進を遮る者はなにもなく、ゴールへと駆ける競走馬のような気分だった。インド/パキスタンの国境に辿り着き、スルーハイキングを達成するまで、同じような未舗装路を1日半ほど歩き、いくつかの街を抜け標高4,200mほどの低い峠を越えるだけだった。景色は広大で印象的だった。パキスタンとの国境に近くで、僕はふたつの8,000m峰、ナンガパルバットとK2を見ることができた。

雪原を登る。Ascending a snowfield near.

インドでのキャンプ風景。My camp set up.

国境の街、カーギルに辿り着いた瞬間は、ほろ苦い気分だった。肉体的にも補給面でもこれまでで最も困難だったハイキングを達成し、家に帰り家族や友達と会い、ハイキングの間に逃したすべてを取り戻すことに、僕はとても興奮していた。もう毎朝早く起きてパッキングしたり、2,000mを登らなくても良いのだ。この3ヶ月食べたくてしょうがなかったもの……ベン&ジェリーのアイスクリームにありつくのが待ちきれなかった。ビッグ・サイズのベン&ジェリー、ヨーグルト、ダーク・チョコレート、サラダ、チーズ、チョコレート・ソイミルク……。

僕はやせ細り、すこし体重を戻す必要があったけれど、肉体は人生でも最高の状態だった。身体の順応能力というものは、本当に驚くべきものだ。自分が標高3,200mでも心拍数が46でいられるようになるとは、思ってもみなかった。僕の足は1日2,000mを登っても疲れなくなっていた。数百メートル程度の登りでは苛立つこともなかったし、僕にとって登攀は数千メートル以上にならない限り、「登攀」ではなかった。

高山帯を被う美しい雪。Beautiful snow covered high elevation alpine terrain.

名もなき峠にて。Near an unnamed pass.

■旅の終わりに

もしも国境線がなければ、僕はもっと歩き続けることができたろう。当初の計画ではパキスタンも240kmほど歩く予定だったけれど、旅の間にオサマ・ビン・ラディンが暗殺されてから、政治的に難しくなってしまった。けれどパキスタン国境に着いた時、やはりハイキングをここで終える決断は正解だったと思わされた。国境の警備はあまりに厳重で、正直恐ろしかった。

カーギルの街に入ると、至る場所に兵士がいた。写真を撮ろうとしたけれど、すぐにそれで悩まされることになった。3,220kmを歩いた3ヶ月の旅の最後に、僕は写真を撮ることすらできなかったのだ。肉体的には快調だったけれど、国境の街はすぐに僕を家に帰りたい気持ちにさせた。僕はひどく空腹で、早く兵士のいない安全な場所で落ち着きたいと思った。翌朝、すぐにレー行きのクルマに乗ってデリーへと飛び、その翌日にはアメリカ行きの飛行機に乗っていた。

巨峰たちの間にある小さな池。A small tarn among giants.

長い渓谷を行く。Traversing through a long river valley.

僕は飛行機の座席に座り、窓の外を見ながらこの旅を思い返していた。ネパールにいたことさえ、もう何年も昔のことのように思えた。体験したことや目にした出来事、訪れた素晴らしい光景が走馬灯のように浮かび、発展にまつわる複雑な事情、官僚主義、発展途上国の抱える問題について思いを馳せた。

ヒマラヤの景色は衝撃的なほど美しく、人々の文化も素晴らしかった。そしてこの旅は僕に政治的な面への目を開かせてくれたと思う。いらいらする瞬間も挑戦的だった瞬間にも等しく価値があり、ハイキングの陰陽となり、それぞれが冒険に挑戦と興味深さを与えてくれた。そこから僕は多くのものを学び、人として、ハイカーとして、ひとまわり成長することができた。僕はこの旅を忘れることはないだろう。

(英語原文は次ページに掲載しています)

文/写真 ジャスティン・リクター 訳/構成 三田正明

遂に旅の終わりが見えてきたトラウマのCrossing Himalayas。今回はインドでトラウマが体験した、両極端な、しかしそれぞれ素晴らしいふたつの夜のお話です。この連載の読者ならもうお気づきでしょうが、いつも食べ物のことばかり考えているトラウマ(笑)。そんな彼が「この旅で最高の食事」と語ったメニューとは…?

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■素晴らしい夜

僕はロビン(ボーステッド。グレート・ヒマラヤ・トレイルの発案者)が教えてくれた店の名前を道行く人に尋ね、レストランへの暗く、狭い道を入っていった。店に入ると、ロビンは8~9人の友人とテーブルに座っていて、彼らにはロビンが事前に僕が来るかもしれないと伝えていてくれたので、僕が入っていくと皆こちらを向いて笑いかけてくれた。彼らは皆、僕に冒険の話を聞くことを楽しみにしていてくれたようで、僕がロビンの隣に座ると、テーブルの上はすぐに会話で溢れ返った。

1年のうち数ヶ月をカトマンズで過ごすロビンはオーストラリア出身で、他の人々も皆オーストラリアとイギリス人だった。ひと月程前にペッパーと別れて以来、誰かと他愛のない普通の会話ができないことに僕はすこし疲弊していたので、英語を母国語とする人と会話できることは嬉しかった。

クルー山域の美しい渓谷。Beautiful river valley in the Kullu region.

たしかに、たくさんのインド人が英語を話せるし、コミュニケーションに十分な英語を喋れる人もいる。けれど、それでもやはり越えられない壁がある。僕はドライなユーモアが好きなのだけれど、英語を母国語にしない人に僕の冗談を理解することは難しいだろう。冗談をいわないでいるということは、僕にとって自分自身でいるのをやめるということだ。ひと月ぶりに僕は思う存分冗談をいって、自分自身でいることができた。僕の注文したピザとデザートについてここで書かなくとも、その夜は充分に素晴らしい夜だった。新しい友人もたくさんできて、僕とロビンとは旅の後も連絡を取り続けた。

「ハイカー・ミッドナイト(訳注:朝早くから行動を始めるスルーハイカーにとって、午後9時頃はすでに真夜中だという意味)」を過た頃、僕はホテルへと戻った。疲れきっていたけれど最高の夜を過ごし、ハイキングからの精神的な休養を取ることができた僕は、旅の最後の一週間の前に生き返った気分だった。

急峻な渓谷を流れる滝。Another waterfall and steep river valley.

急峻な渓谷を流れる滝。Another waterfall and steep river valley.

■ラダック/レーへ。

翌朝は旅の最後の一週間の食料を補給するため、町のすべての屋台や食料品店を回った。幸運にも乱雑に積み重なった棚の後ろに隠れたコーンフレークの箱を見つけることができ、ライターをもうふたつと少々のガソリンを手に入れ、僕は町から歩き出した。

これから向かうラダック/レー地域は旅行者に人気のトレッキング・エリアなので、僕はルート上で食料を補給できたりティーハウスで食事ができるのではないかと期待していた。ラダック/レーではあまり歩く人の多くないトレイルから人気のあるトレイルへと向かう予定だったので、僕は食料補給のできそうな2日間にとくに期待していた。

町からほぼ丸一日舗装路を歩いた後、高い峠を越えるためよく歩かれたトレイルに入っていった。あたりが暗くなった頃、放牧地の草原に出た。そこはキャンプに適した地形だったけれど、何組かの羊の群れと羊飼いが放牧地の平らな場所を占有していた。普段の僕は安全と余計な気苦労をしないため、人から離れた場所でキャンプすることにしている。けれど、それは標高4000m地帯にいて、この地域の主要な放牧地にいる場合は選択肢になかった。いちばん大きな群れへと近づいていくと、羊たちは彼らの飼い主の方へ駆けていった。羊飼いが僕に合図を送ったので、僕は彼と話すため近づいていった。

春の花が咲いていた。Some of the spring flowers blooming.

■この数ヶ月で最高の食事

彼は最低限の英語しか喋れなかったけれど、要点は伝わった。僕に小屋の横でキャンプさせてくれるうえ、家に客人として招いてくれるという。英語での片言の会話から、彼の名前がム―ランだということもわかった。僕は彼の羊と山羊たちが夜を安全に過ごせるように、小屋のまわりに集まる手伝いをした。

廃材から作られた彼の小屋は2m×2mほどの大きさで、高さは1.5mほど、地面にブランケット2枚を広げるには充分な大きさで、角には調理用の焚火スペースがあった。数匹の犬と羊と山羊の群れが小屋を囲んでいた。羊と山羊の牧畜がムーランと彼の兄弟の生業で、彼らは夏の間ここで群れを放牧し、夏が終わると谷下に住む家族のもとに帰るのだという。ムーランが小屋を離れてどこかへ行ったので、僕は小屋から10mほど離れた場所にテントを張った。羊たちは僕を観察しにきて、テントを食べようとした。

ふと見ると、ムーランは小屋から離れた場所で一匹の羊を絞めていた。解体した羊肉を兄弟に手渡すと、今度は山羊の乳を搾り、金色の大きな花瓶に入れた。僕はただ立って彼を眺めていた。そして彼は僕を家に手招きした。僕たちは時々おきまりの質問をしては短い会話をする以外は、黙って座っていた。

修理の不完全な橋。石や他のものが修理のためにそこに置かれていることが理解できない。Sketchy bridge repairs. I don’t understand putting rock as and more things on the bridge to try to fix it.

羊肉は乾燥させて腐敗を防ぐため、火の上に天井からぶら下げられていた。彼らの持ち物といえば小屋の隅に置かれた小麦と砂糖と塩の入った袋くらいで、もう少し小さな袋にはカレー粉とスパイスが入れられ、黒くなった鍋と平鍋が棚に置かれていた。ムーランの兄弟は小麦に水を混ぜて練り、叩いて平らにすると火に焼べた。彼はロティ(インドで一般的に広く食べられている無醗酵パン)を作っているようだった。その間に、平鍋では新鮮な羊肉と山羊のミルク、カレー粉が煮えていた。

ムーランは今日は客人がいるから羊を絞めたのだと伝えてくれた。 僕は感謝の気持ちでいっぱいになり、彼らにもてなしを受けたことに光栄を感じた。食事が始まると、ムーランは彼の兄弟と僕に山羊のミルクの入ったカップを手渡した。非殺菌で無調整のミルクで病気にならないかと一瞬考えたけれど、食べ始めるとそんな考えはどこかへ飛んでいってしまった。それは僕がこの数ヶ月で食べた最高の料理だった。

筋張った固い羊肉にいつ当たるかと思っていたけれど、そんなものはどこにも見当たらなかった。こんなにも優しくとろける肉を僕は食べたことがない! 僕は昇天した。天国は小さなあばら屋で、僕はそこで、これまで出会ったもっともホスピタリティに溢れた赤の他人と、ブランケットの上で膝を突き合わせていた。そこら中で羊がメーメーと鳴くなかで眠るとき、僕の空腹は完全に満たされていた。

クルー山域の美しい圏谷。Beautiful glaciated river valley in the Kullu region.

クルー山域の美しい圏谷。Beautiful glaciated river valley in the Kullu region.

■ムーランとの別れ

翌朝、日の出前に起きると、ムーランはすでに起きて歩き回っていた。彼らの群れを守るため、あばら屋の外で寝ていたという。すべての料理を作る彼の兄弟は小屋で眠り、ムーランは外で眠る取り決めなのだそうだ。ムーランはふたたび山羊の乳を搾りに行った。でも、今度は立ち止まって僕を指差した。一瞬、僕は不安になったけれど、彼の大きな笑顔がすぐにそれを流してくれた。今度は僕が金の花瓶に山羊のミルクを入れる番だった。ムーランは僕の手つきに大笑いをして、きっと幸せな気分になってくれたと思う。

彼はミルクティーを入れるため、金の花瓶を火で温めた。僕のパッキングが終わると、新鮮なミルクで作られたミルクティーをくれた。それは一日の最高の始まりであり、この旅行を締めくくる素晴らしい体験だった。僕はムーランに感謝と別れを告げ、歩き始めた。

僕は悲しかった。あの大ヒマラヤ山脈の頂と草原の間でなら、僕はそこで生きてもいいと思った。けれど、先に進む時間だった。

(♯10に続く。英語原文は次ページに掲載しています)

写真/文 ジャスティン・リクター
訳/構成 三田正明

第8回目となるCrossing The Himalayas。長きに渡るトラウマの旅にも、いよいよゴールが見えてきました。今回は知られざるインドのトレイルフード事情や燃料事情(というかそれにまつわるトホホ話)、モンスーン前の強烈な大気、インド・パキスタン国境地帯の緊張状態などが語られます。そしてトラウマに、予想もしなかった再会の時が…。

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■インドのトレイルフード

街での補給は数時間で済ませた。なにせこの旅の最後の2週間半は、僕がインドでいちばん楽しみにしていたセクションへと足を踏み入れるのだから。

補給のたびに大都市に飛ぶ必要のあったネパールと違い、旅はとても楽に、ペースも速くなった。インドではルート上の町で補給できるのだ。僕はポテトチップスやインスタントラーメン、チョコレートバー(残念なことにアメリカのものよりとても小さかった)、インスタントパスタなどを買い込み、好運にも、小さな食料品店の棚の埋もれたコーンフレークを見つけることもできた。

よく目を凝らさなければ、埃まみれの棚の奥になにがあるか、絶対にわからなかっただろう。何年もの間そこにあったであろうコーンフレークの箱は、厚い塵の層に被われていたけれど、僕は満足だった。手に入る食料の選択肢が少ないとき、砂糖をかけたコーンフレークは簡単に素早く食べられるハイカーズ・ブレックファーストだ。

ネパールと違い、インドにはトレイルフードになるインスタント食品がたくさんあった。ほとんどがおいしいとはいい難かったけれど、あのネパールの後では文句はいえない。

馬のキャラバンが遠方の村へ物資を運んでいた。A train of horses bringing supplies to a rural village.

馬のキャラバンが遠方の村へ物資を運んでいた。A train of horses bringing supplies to a rural village.

■ライター問題

アメリカの町外れのガソリンスタンドで給油をするように、インディア・オイル(インドのガソリンスタンド)を見つけては給油ポンプからガソリンを燃料ボトルに補給していた。燃料用ガスもエタノールも手に入らなかったので、数日置きにマルチフエル・ストーブを洗浄するという腹立たしい仕事があるにも関わらず、燃料にはいつもガソリンを使っていたからだ。

さらにアメリカから持ってきていたビックのライターが空港で没収されてしまったことは、インドでの旅の間ずっとつきまとう問題になった。ストーブの点火にライターが必要だったので、僕は町に着くといつもライターを買った。けれどインドのライターは、2~3日ですぐ壊れてしまう。せめて次の町までは持つようにライターをふたつ買うようにしていたけれど、たいした意味はなかった。大抵の場合ひとつめのライターは不良品で、ふたつめもすぐに壊れてしまったから。その晩は運良くふたつめのライターが壊れる前にストーブを点火できたけれど、次の晩はもっとクリエイティブにならなくてはならなかった。僕はライターから火打石を引き抜き、岩にこすって出た火花で点火した。

ところが次の晩からしばらくは、僕にそんな幸運は訪れなかった。コーンフレークを食べ尽くしたあと、僕の主食はインスタントラーメンだったので、3日間、1日2回の食事のうち、1食はラーメンをそのまま食べ、もう1食は水に浸したラーメンを食べた。これには食欲をそそられなかった……というのは、かなり控えめな表現だ。まったく喰べれたものじゃなかったけれど、僕には他の選択肢はなかった。

山羊の群れのなかで羊飼いが昼寝していた。One of the shepherds relaxing with his herd.

山羊の群れのなかで羊飼いが昼寝していた。One of the shepherds relaxing with his herd.

■モンスーン前の湿った大気

原生林で被われた尾根を登り、国道の通る谷底へと下った。シングルトラックのトレイルはあまり踏まれていなかったけれど、とても歩きやすかった。天気は日を追うごとに悪くなっていった。モンスーンの湿った大気が、すぐ間近までやって来ていることを感じた。もはや時間の問題だった。

午後になると、雲はビルのようにそびえ立った。あと少しで午後には雨か雪が降りだすようになるだろう。地元の人々は、モンスーンはデリーまですでに数100kmの距離にあり、それが北インドに達するまで2週間もかからないだろうといっていた。モンスーン前の湿気は、窒息しそうなほど濃かった

高地では朝に雲が高く昇り、それはしばしば雪に変わり一日中降り続けた。谷の底で国道を渡ると、急登が始まった。僕の東側の山と渓谷は、地図には立ち入り禁止と書かれていた。中国とインドの国境は外国人には閉じられており、ときには国境線から50kmもの範囲が立ち入り禁止地域地域になっている場合もある。インドとその隣人の多くは境界紛争の真っ最中にあり、領土の境界線について絶えず論争が続いているのだ。

なかでも、特に活発な論争の元になっているインドとパキスタン国境にあるシアチェン氷河は、世界で最も標高の高い戦場だ。伝え聞くところでは、インド・パキスタン両軍は毎日午後に出撃しては数ラウンドの砲火を交えるというが、実際の死者は砲火によるものよりも、標高と寒さによるものの方が多いのだという……。バブ峠を越えながら、そんなことを僕は考えていた。急峻な峠は断崖になり、いつのまにかトレイルは消え、あたりは雪に覆われていた。

下りも谷底まで急斜面が続いたが、ナビゲーションは難しくなかった。峠は稜線の明らかにいちばん低い場所にあり、越えられる箇所も2~3ありそうだった。雪に埋もれながらのろのろと進み、峠への最後の断崖を登った。

峠からの眺めは素晴らしく美しかった。眼下には巨大な扇状の圏谷が広がっていて、右手には暖かく乾燥した土地が、左手は雪に覆われた頂と氷河があった。僕は迷わず左へ行くことにした。

ウッタル・プラデーシュ州の急峻な渓谷を見下ろす。Looking down a steep river valley in the Utter Pradesh.

ウッタル・プラデーシュ州の急峻な渓谷を見下ろす。Looking down a steep river valley in the Utter Pradesh.

■圏谷の先の沼地

渓谷を素早く下り、雪と氷河に覆われたパールバティ峠の西側を直登した。あたりの山々は標高6,000~7,000mはあったけれど、ネパールのヒマラヤとは大きな違いがあった。標高は全体的に低く、有名な山もなく、峠も低めで、氷河も少し短い。特に大きな違いは、かつての氷河によって作られた圏谷があることだ。基本的に圏谷は広く平らなため、とても歩きやすかった。

モンスーン前の湿気のなかで、あたりを春が支配しはじめていた。平地では草原に花が咲き乱れ、頂上を雪に覆われた峰の斜面を赤や黄色や紫が染まっていた。雪に被われたパールバティ峠を越えるには、長い時間がかかった。峠に着く頃には雲がかかり、景色はなにも見えなかった。雲は真っ白な世界をもっと白くして、ナビゲーションは難しかった。西へ向かって雪に覆われた斜面を急いで降りた。断崖を45分ほど下り、標高4,500mのあたりで雲の下に出ることが出来た。

春になり、花が咲き始めた。Some of the spring flowers sprouting in India.

春になり、花が咲き始めた。Some of the spring flowers sprouting in India.

雪原を離れるとところどころにケルンが現れ、複雑な地形の氷河の上を下っていくのにとても役に立った。そこから一時間ほどは氷河のモレーン(氷河によって運ばれて堆積した岩屑によってつくられた堤防状の地形)の上を上がったり下がったり、まるでジェットコースターのようだった。

ついに僕は氷河の合流点にあるモレーンを横切り、広々とした沼地の平野を見た。直径1.5kmほどの沼地は最近まで湖だったようで、おそらくモレーンが決壊して水が溢れ出し、沼地になってしまったのだろう。沼地の対岸にはヒンドゥー教の神像とチベット仏教の経文旗が雪に埋もれていた。それは僕が体験したここ数ヶ月でもっとも平穏なハイキングだった。遠くに何者かが現れるまで。

ウッタル・プラデーシュ州の花と草原。Flowers and open meadow in the Utter Pradesh.

ウッタル・プラデーシュ州の花と草原。Flowers and open meadow in the Utter Pradesh.

■バックカントリーでの再会

「彼」はとても親しげだったので、思わず僕は振り返った。そして僕たちはお互いに驚いて駆け寄った。彼はネパールのグレート・ヒマラヤ・トレイル(GHT)の発案者であり、ガイドブックを書いたロビン・ボーステッドだったのだ!

彼がGHTをインドへと繫ぐトレイルを探るために、インドへ来ることは知っていた。ペッパーと僕は、GHTを歩いたことのある人間に旅立つ前の最後の質問をしたかったので、カトマンズに住む彼と何度かお茶をしていたし、補給でカトマンズに帰った際も、旅の進捗を知らせるために会っていた。

多くの人が、僕がモンスーンが来る前の3ヶ月でネパールとインドを歩ききることは不可能だと考えていた。ロビンもとても親身になってくれたけれど、僕らが1シーズンでこのルートを歩ききろうとしていることや、僕たちのウルトラライトな方法論やメンタリティに懐疑的だったことはわかった。彼はふたつのハイキングシーズンで147日間を使ってネパールのGHTをハイクした。彼は重いに荷物で数人のシェルパやポーターや調理人と旅をする、伝統的なバックパッカーなのだ。

バックカントリーで出会ったとき、彼はとても興奮していた。僕のウルトラライトな方法論が有効で、ゴールを間近に控えていることに驚いていた。彼は数日後に友人の誕生日を祝うため、マナリーへ行くという。マナリーはこの地域の主要な街のひとつで、僕はマナリーが次の補給地だと彼に告げた。そして予定通りに行けば、誕生日パーティの午後に街につけるだろうと。

人里から遠く離れた場所で、予期しなかった社会的な繋がりを味わえたことが僕はとても嬉しかったし、数日後のディナーが楽しみでしょうがなかった。新しいゴールを目指して、僕は渓谷を降りていった。地形は平坦で、ゆるやかに下っていった。もうひとつの峰を越え、マナリーを目指してふたたび下った。ディナーの前にホテルを見つけ、シャワーを浴びるために。

ウッタル・プラデーシュ州。View in the Utter Pradesh.

ウッタル・プラデーシュ州。View in the Utter Pradesh.

(♯9に続く。英語原文は次ページに掲載しています)

写真/文 ジャスティン・リクター
訳/構成 三田正明

ネパールを横断し、ついにインドへと足を踏み入れたトラウマ。ですがネパールとは微妙に違うインドの雰囲気に、戸惑うこともあったようで…。そんなわけで、今回はネパールとインドの違い、経済発展を続けるインドの現状、経済発展と自然保護のジレンマなど、ハイカー目線のインド文化論です。

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■よそよそしいインド人

インドでの最初の2週間、僕は村や町を繫ぐ地元の人々の生活道になっているトレイルや、そこに隣接する森林保護区域を歩いた。それはこの旅のハイライトではなかったけれど、これまでの2ヶ月のハイキングとはまったく違う体験で、山麓の丘に広がるいくつもの町や村を通り抜けることで、僕はインドの文化的な側面や経済発展の現状を知ることができた。

インドとネパールは際立って対照的だ。たとえば、インドではレー/ラダック地域以外でのトレッキングはポピュラーな観光ではないため、僕は至る所で奇異な目で見られた。ネパール人はオープンで、旅行者を彼らの社会の一部として受け入れてくれている。ネパールのトレイルでよく見かけるティー・ハウス(茶店)も、そもそもは地元の人々が旅行者を自宅に招いて休憩させたことに始まり、それがいまのロッジ/ホテルが立ち並ぶ現状に繋がっている。インド人はネパール人よりよそよそしいので、休憩や食事のために旅行者を家に招くようなことはしてこなかったのだろう。

インディアン・ヒマラヤを望む。View in the India Himalaya.

■「自然保護」対「経済発展」

政府から許可証を貰えず標高の高い場所に立ち入ることができなかったので、標高3000mあたりの地域を僕は歩いていた。山間の道の多くが未舗装だったネパールとは違い、ほとんどの道が舗装されていた。インドはいままさに経済発展と拡大を続けており、今後10年以内にあらゆる町と町を舗装路で繫ぐつもりなのだろう。舗装路が通じることによってクルマやバスでの移動が容易になり、経済が活性化し、人々の生活が楽になるのは良いことだ。けれど「自然」対「発展」、「自然保護」対「人々の暮らしがより豊かになること」というジレンマが、インドを歩く間ずっと僕の頭の中をこだましていた。

インドの山や野生地域の多くは、道路と開発に囲まれ孤立している。わずかばかりのハイキング・エリアやバックカントリーは、次の舗装路に出るまで80kmほどしかない。道路が伸びることによって、過疎地の住民も物資を得ることが簡単になった。大都市からのポテトチップやソーダや加工食品が送られ、村の小さな売店にもLay’sのポテトチップス(マサラ味のものもある!)やチョコレートやキャンディー・バーのパッケージが並んでいる。それによって僕もハイキングに必要なハイカロリーの食料を手に入れることができたのだけれど、そんな村の多くでは、自給のための耕作は行っていなかった。

ネパールもインドのように経済を発展させ、道路を舗装したいと思っている。けれどネパールには金がないので、道路を作り、それを持続させることができない。僕はネパールでモンスーンに流されてしまった何本もの道路を通過した。彼らは道路を作ることはできても、それを点検したり修復するお金がないので、結局道路は使えなくなってしまうのだ。

インドにある数えきれないほどの滝のひとつ。 One of the millions of waterfalls in India.

■ハイカーにうってつけなインドの食事情

他の地域では、道路に沿ってダバ(Dhabas)と呼ばれる手頃な価格でまともな料理が食べられる食堂が点在していた。また道を歩きながらチャイ・ワーラーの屋台からチャイを買うこともできて、それらは僕がこれまでに訪れたどんな場所とも違っていた。

僕は海外での食事、特に第二世界、第三世界と呼ばれる国での食事にはとても慎重だ。浄水されていない水で洗われた果物や野菜については、とくに気をつけるようにしている。これが病気を予防し、トレイルを離れなくてはならなくなる不必要な時間を作らないための大きな助けになっていると思っている。海外でのハイキングにおいて、これは僕の戦略と最終的なゴールを達成ために必要不可欠なものだ。その意味で、インドはハイカーにとって素晴らしい国だった。

インドの人が大好きなチャイはミルクと砂糖がたっぷり入っているので、甘いものを好む傾向のあるハイカーにはうってつけな飲み物だ。さらにチャイはいつもあつあつなので、安全性も高い。多くのインド料理にはたくさんの野菜が使われているけれど、こちらもソテーされているか炒められているので、用心深く健康志向な海外旅行者には完璧な組み合わせ~ほとんど生でない食事~が簡単に食べられるのだ。

季節が春になり、花々が咲き始めた。One of the many flowers that came alive in the spring in India.

季節が春になり、花々が咲き始めた。One of the many flowers that came alive in the spring in India.

■アウトドアに興味のないインド人

ともあれ、始めの5日間ほどは興味深かったものの、もの珍しさは徐々に減っていった。僕は村々を繫ぐトレイルを数日歩いたあと、許可証を得られなかった地域をパスするため、より遠隔な地域を通るトレイルを繫いでいった。標高が低く、地元の人々にもよく歩かれている道なので、それらの道はとても歩きやすかった。

一般的に舗装路ができてそこを行き交う人々が多くなると、その付近のトレイルは荒れてしまう。人々は舗装路を歩くかそこでクルマやバスに乗るためにすぐに舗装路に出ようとするので、トレイルを歩く人が減るからだ。インドの田舎のバックカントリーのトレイルには、外国人も地元住民もいなかった。

多くのインド人は、アウトドアでのリクリエ―ションにあまり興味がない。彼らにとってアウトドアは生活の場か旅行中に通り過ぎるだけの場所であり、キャンプしたり、リフレッシュするための場所ではないのだ。うまくいけば、現在続々と生まれつつある新興の中流階級にアウトドアはポピュラーなリクリエーションとなっていくかもしれない。さもなければ、インド人は自然を守ろうとはしないだろう。デリーで地図を探すことが困難だったりアウトドア用のガス缶がまったく見つからなかったのもこういう理由だ。

僕は次の補給地へと向けて歩き続けた。ネパールと違い、インドでは山のなかでも大きな街がある。そこには物資がたくさんあり、大都市に飛行機で戻らなくとも食料を補給することができた。そして僕はインドのヒマラヤでいちばん楽しみにしていたセクションに足を踏み入れていった。

急峻な地形と地滑りの跡。Steep terrain and the remnants of a landslide.

(♯8に続く。英語原文は次ページに掲載しています)

写真/文 ジャスティン・リクター 訳/構成 三田正明

様々な苦難を乗り越えつつ、遂にネパール・ヒマラヤの横断に成功したトラウマは、いよいよ今回よりインドへと足を踏み入れます。ともあれ、例によって旅はトラブル続き。インド入国と共に税関で尋問され、行政機関ではたらい回しにされ、オートリキシャでデリーの街を走り回りやっと手に入れた地図はまったく使い物にならない代物……。ピザとチーズ・ナンで腹を満たしつつ、トラウマの旅はまだまだ続きます!

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 ■インド入国

(Section 6 ; Darchura to Munsyari, 40km, 1day)

ネパールを歩き終えてインドとの国境線に辿り着いたものの、インドへ入国するために僕たちは飛行機でカトマンズに戻らなくてはならなかった。僻地の国境線は地元の人々は自由に行き来できるものの、そこを外国人が通ることは禁止されていたのだ。そんなわけで、また例の煩わしい移動が続いた。国境の向こう側へ行くにはカトマンズへと戻りふたたび飛行機でインドへと飛び、さらに陸路で国境線を目指さなくてはならなかった。ともあれ、47日間のハイキングでネパールを横断することのできた僕たちは意気揚々とカトマンズへ戻った。僕たちはささやかな祝杯を挙げ、アイスクリームを食べ、一日中くつろぎ、メールとインターネットをチェックして、旅の写真をネットにアップした。ところがペッパーは仕事に戻るため帰国しなくてはならなくなり、僕はひとりニュー・デリーへと飛んでインドでのハイキングの準備を始めた。

デリーで旅の準備をしつつ、ハイキング・ルートの検討をした。Getting organized and looking closer at the route and trekking options while in Delhi.

ネパールでのペッパーとの2ヶ月のハイキングの後にインドへ入国することは途方もなく大変だった。税関で足止めされ、何人もの職員が僕を取り囲み詳細に調査された。この旅で僕は家族との連絡や緊急時の通報のために衛星電話を持っていたのだけれど、インドに衛星電話やGPS機器を持ち込むことは違法だった。職員らは激しく僕を問いつめたけれど、最終的には無事税関を通過することができた。この後も何度か遭遇したこのようなインドの国土安全保障と許可制度についてのあれこれは、この旅の重要なパートを占めることになる。

オートリキシャで街を駆け巡る。Zipping around in an autorickshaw.

■すべてが間違っている地図

空港から混雑した通りに出ると、タクシーの客引きが群がってきた。僕はニュー・デリーにホテルを見つけ、旅の準備に取りかかった。差し当たって地図と食料を手に入れ、入域制限区域の許可証を取らなければならなかった。官僚的な応対のためにすべての許可証を入手するには数日間かかったけれど、僕は僕で次の700~1,000マイルの旅のためには精神的な充電期間が必要だったので、まあ良しとしよう。2~3日の間、地図と許可証の情報を得るために街を歩き回った。時々、移動の効率をあげるために大量に走り回っていて運賃の安いオート・リキシャ(訳注:東南アジアでよく見かける三輪タクシーのこと。名前は日本の人力車から来ている)にも乗った。

小さな村で二本の川が合流していた。Confluence of two rivers in a small town.

ところがインドでは詳細な地形図はもちろん、一般的な地図を手に入れることすら難しかった。幸いあらかじめ地図をいくつか持参していたのでよかったものの、インドで唯一手に入れることのできた地図は恐ろしい代物だった。「地形図」と謳われたそれには等高線が入っていなかったのだ! 尾根筋がオレンジ色、川が青色の線で示され、点線がいくつかのトレイルと峠を示してはいたものの、すべてが間違っていた。けれどそれが僕が街中を探しまわって見つけた最高の地図だった。

羊飼いたちが夏の放牧中に使う小屋。Remote shelter used by shepherds in the summer months.

許可証についても同じような経験をした。行政機関を訪ねてたくさんの人と話をしたけれど、話は空転するばかりで、誰も答えは教えてくれず、誰もが他の誰かに話を回した。結局、政府の高官に知り合いでもいない限り許可証は貰えないという結論に僕は達した。なので悲しいことに、ネパ―ルのグレート・ヒマラヤ・トレイルから繫ぐに最適で、おそらく素晴らしいトレイルであろうウンタ・デュラとコリンディ・コルのハイキングはできそうもなかった。

山間の村へと物資を運ぶ。A person carrying some supplies to a remote village in India.

ネパールではお金さえ払えば許可証を手に入れることができる。ひとつかふたつの例外を除いて、場所によって値段は違うものの国のどこでもお金さえ払えば訪れることができるのだ。けれどインドでは入域許可証が必要な地域とは、すなわち立ち入り禁止地域ということらしい。僕は計画の変更を余儀なくされ、数カ所で道路を歩くことにした。不愉快だけれど、少なくとも悪くない時間でそのエリアのハイライトまでは行くことはできる。その間は機械的に歩く覚悟を決めた。

インドの村はネパールとはまったく違う雰囲気だった。Small town in India with drastically different look than in Nepal.

■ドミノ・ピザとチーズ&ガーリック・ナン

僕はハイキング前の「最後の晩餐」をしようと、高カロリーな食事をするには最適なドミノ・ピザへ行った。メニューにはパニールというブロック状のチーズ(訳注:宗教上ベジタリアンの多いインドで肉の代わりによく使われているカテージ・チーズの一種)を使った風変わりなピザもあったけれど、僕は迷わず何ヶ月も切望してやまなかった普通のピザを食べた。

修理の必要な橋。A bridge in India that could use some maintenance.

翌朝僕は装備を詰め込み、ハイキングを再開する地点へいちばん近い街まで飛行機で飛んだ。そこから長距離バスでネパールとの国境へ向かい、再びハイキングを始めて西を目指した。幸いにもインドの食事はネパールよりおいしかったので、僕はすでに痩せこけてしまった体重をなんとか維持することができた。幸運にも僕はガーリック&チーズのナンが大好きで、ドミノ・ピザにも何度か遭遇することができたので、「ドカ食い」という伝統的な方法でカロリーを蓄えることができた。僕が平らげるナンとコカコーラの量にみんな驚いたものだ。それでも歩く距離と標高差は体重を少しも増やしてはくれなかったが体調はすごぶる良く、僕は順調に距離を稼いでいった。

(♯7に続く。英語原文は次ページに掲載しています)

文/写真:ジャステン・リクター 訳:三田正明

5回目となるトラウマのCrossing The Himalayas。大ヒマラヤ山脈を一気に横断するという前人未到の試みに挑戦するトラウマとペッパーの旅も、いよいよ佳境に差し掛かってきました。ところがネパール最後の秘境とも呼ばれるドルパを旅するトラウマに、この旅でも最大の試練が襲いかかります。

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■秘境ドルパへ

(Section 5 ; Jomson to Darchula, 453km, 13 Days.)

カトマンズで装備と食料を補給した僕たちは再びジョムソンへと飛び、アッパー・ドルパ地域を目指した。ドルパはネパールでも秘境とされ、外国人は7日間で500ドルという高額の入域許可証料金を払わなければ訪れることができない地域だ。

ドルパの美しい渓谷。A beautiful canyon in the low point of the Dolpa section.

その日3つの峠を越えるため、町から着実に上がっていった。ひとつめの峠からは北に遠くオレンジとピンクと赤の色調の乾燥したムスタン高原の広大な景色が広がり、東にはアンナプルナ、南西はダウラギリというそれぞれ8,000m級の山々が見渡せた。その光景はまるでユタ州南部(訳注:主に荒涼とした砂漠地帯が広がっている)を一方に、もう一方に雪を纏った山々を眺めるような見事なコントラストで、8,000m峰の膝元を流れる急峻な川がこの標高の違いと鮮やかな景観を作り出していた。

峠よりムスタンを望む。On one of the saddles with the dry Mustang region in the background.

すべての峠を越え、日が暮れる少し前にサンタという小さな村に下った。村は乾いた場所にあり、水場はそこからさらに下った谷底にあった。家々は草葺き屋根と日干しレンガでできており、有名トレイルで観光客相手に働くネパール人に比べて、この村の人々が貧しいことは明らかだった。僕たちは一軒の家の軒下で寝る許可をもらって夕食を作り、満月と強風にはためく経文旗の下で眠った。

ドルパの小さな村を行く。Walking through a small village in the remote Dolpa region.

■最も困難なハイキング
本格的な挑戦はその翌日に始まった。ここまでのネパ―ルの旅は比較的簡単だったけれど、ここからはそうはいかなかった。ドルパでの10日間は、おそらく僕がこれまで経験したハイキングのなかでも最も困難なものだった。10日間で10の峠を越えなくてはならず、おまけにそのうち8峠は標高5,000m以上なのだ。毎日標高差3,000m以上を登り、
膝下まで雪に埋まりながら永遠のような時間を過ごした。天気はまったく僕らの味方をしてくれなかったけれど、景色は驚くほど素晴らしかった。

チャンラ峠からの下り。Descending from Chan La.

標高5,000m以上でも雪が柔らかく膝下まで埋まることもあり、たった100m進むのに1時間以上かかることもあった。僕たちはとても疲弊していたが、このセクションの始めにバックパックが重かったときから限られた食料しか持っていなかった。毎晩雪が2~8センチほど降り積もり、困難さは増すばかりだった。僕たちは10日間でいくつかの村を通り抜けたけれど、どこも貧しく、自らの食い扶持を確保するので精一杯のようで、彼らに食料を分けてもらうことなどとても頼めそうになかった。

ネパール最後のセクションでの10日分の食料。Ten days of food for the last stretch through Nepal.

ネパール最後のセクションでの10日分の食料。Ten days of food for the last stretch through Nepal.

3日目から最終日にかけて、信じられない体験をした。その日僕たちはふたつめの大きな峠を越えようとしており、累積標高もいつも通り3,000mに近づいていた。峠の上にある懸谷(訳注:非常に急峻な渓谷)に行くため主流の渓谷を急登し、渓谷の支流まで登りきると地面は平らになった。ふたたび徐々に登り始めると次第に地面は雪に覆われていき、膝まで雪に埋まった。さらに雲がやってきて雪が降り始めた。

朝起きると一面の銀世界だった。A fresh coating of snow in the morning.

そのとき、僕たちは雪豹の足跡を見つけた。足跡は僕らの向かう方向と同じ方角に続いており、峠へと向かっているようだった。けれど雪が降り始め、降り積もると足跡を見失ってしまいそうだった。降雪と深雪に阻まれていつも足跡探査は中断されていたので、今度こそはと思っていた。しばらくしてようやくラッセル状態から抜け出し、僕たちは再び雪豹の歩いた道を歩いていることに気がついた。信じられないことに、雪豹は雪のどこの箇所が踏み抜くか、踏み抜かないのかわかるらしい。ようやく峠を見つけたが、そこへ辿り着くには雪の斜面を100mほど渡らなくてはならなかった。雪豹の足跡を見失い、標高5,200mの地帯で胸まで雪に埋まった僕たちに厳しかったそれまで7日間の疲労が重くのしかかり、たった100mを渡るのに2時間かかった。

ジュンベン峠からの眺め。The view from near the top of Jungben La.

文字通りでもたとえ話でも、トレイルには浮き沈み(High & Low)がある。最低がなければ最高もない。景色はセクションを通じて素晴らしく、間違いなくこの旅のハイライトだった。これは挑戦であり、これまで僕が歩いてきた場所と同じように価値があった。最後の峠を越えたとき、これまでのハイキングでも数回しか味わったことのないような圧倒的な歓びがこみ上げてきた。

グリセードで降下する前の最後の峠。On the last pass in Dolpa before glissading down.

■吊り橋での事故

峠の下りはグリセードで500mを1分もかからずに降りてしまった。僕たちの足取りは弾んだ。この峠を越えて50kmを歩けばネパールでの最後の補給可能な村に着き、そこからは3日間ほどの面白みのないトレッキングでネパールとインドの国境に着くはずだ。僕たちは旅の成功を確信していた。けれど、ネパ―ルはそう簡単に僕たちを行かせてくれなかった。僕たちは熱く湿った空気のなか、たくさんの急で長い坂を登った。せめて国境近くではもう少し楽に歩かせてもらいたいと思っていたけれど、結局そうはならなかった。

キャンプからの眺め。The view from our camp spot.

キャンプからの眺め。The view from our camp spot.

国境まで半日ほどの地点で壊れかけの吊り橋を渡ったとき、ペッパーは僕の数分前を歩いていた。吊り橋に差し掛かったとき、大きな小麦の袋を背負った老女に追いついた。僕が木板でできた橋を見やった瞬間だった。「バン!」と音がしてて、気がつくと僕は橋に肘でぶら下がっていた。足下の橋板が壊れたのだ! 視界はぼんやり微かに見える程度で、僕の立っていた橋板は垂直になりふらふらと揺れ、10メートル下の激流の川へ落ちるのを防いでくれているのは脇の下の今にも割れそうな木の橋板だけだった。アドレナリンが吹き出し、なんとか腹這いになって橋板の上に立つことができた。足が震え、顔に手を当ててみると出血で暖かく濡れていた。

西ネパールの小さな村で出会った水牛。Water buffalo in a small town in western Nepal.

かけていたサングラスは壊れていまにも落ちそうなのに何かに引っかかっているようで、僕は手で顔を被いながら対岸へと歩いていった。手の間から血が滴り、僕の後ろには血の道ができていた。サングラスを取り外そうとしたが、眉にくっついて離れない。顔に水をかけ、もう一度サングラスを引っ張ったけれど、まだ外れない。事故の一部始終を見ていた地元の人が僕に駆け寄ってきてくれた。彼は英語を喋れなかったのでジェスチャーで鏡が欲しいと伝えると、桶に汲んだ水と手鏡を持ってきてくれた。

橋から落ちたあと。After falling through the bridge.

橋から落ちたあと。After falling through the bridge.

僕の眉はサングラスのレンズとフレームの間に突き出ていた。橋板が壊れて落ちそうになったとき、顔を激しく打ったのだ。顔は血まみれで出血も酷かった。レンズをフレームから外して顔から離し、すぐに裂けた傷口を洗い流しテープを貼った。気を落ち着かせるために数分間座り、吐き気を抑えながらふらつく足取りでペッパーを追った。そしてさらに6時間のハイキングの後、ついに僕たちはインドとの国境に着いた。  

休憩しつつ標高の高さを感じる。ドルパにて。Taking a break and feeling the elevation in Dolpa.

休憩しつつ標高の高さを感じる。ドルパにて。Taking a break and feeling the elevation in Dolpa.

■ネパールとの別れ

ネパールでの最後13日間は、この旅でもっとも厳しい日々だった。秘境ドルパでの10日間を過ごした後、国境に着く3日前にガムガーディの村で手短かに補給を行ったけれど、体重を保つのに充分なカロリーのある食料を手に入れることはできなかった。ネパールの典型的な料理といえば米とレンズマメでできたダルバートで、ネパールの人々は基本的にそれを日に二回食べるだけで暮らしている。僕たちの胃袋はそれだけで満足できそうもないので、できるだけダルバートを避けていた。どちらにせよ痩せるのでそれほどの食料を持たなかった結果、僕の体重は中学生以来の65キロになっていた。もしもペッパーが映画『E.T』のように僕の背中越しに輝きながら脈打つ心臓が見えたならば、あの映画を再評価するべきだと僕たちは冗談をいいあった。

ドルパの高地にて。On the high point in Dolpa.

ドルパの高地にて。On the high point in Dolpa.

タフで疲れる旅だった。これまでのどのハイキングよりも体重を失ったけれど、僕は誠実な素晴らしい人々に出会うことができた。僕たちが困っている時、彼らは何でも差し出してくれた。彼らから僕は献身と機知と、シンプルな暮らしの尊さを学んだ。またときに僕は無作法さと強欲さも体験した。そしていま僕は謙虚さと感謝と、この上ない達成感……いや、そんな言葉では表せない何かを感じている。イエティを見たことも信じたいけどね。

(♯6に続く。英語原文は次ページに掲載しています)

文/ジャステン・リクター 訳/構成;三田正明

いよいよ旅も中盤に差し掛かってきたトラウマの大ヒマラヤ山脈横断記。今回、トラウマは世界を震撼させたあの事件のせいで、旅の計画の変更を余儀なくされます。

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■オサマ・ビン・ラディンの殺害

(Section 4 ; Dhunchee to Jhomsom , 340km, 9 Days.)

ドゥンチェに着いたのは町の灯りが消える直前だったけれど、僕たちはすぐにホテルを見つけ出し、レストランで夕食にありつくことができた。ドゥンチェは山で補給を行える数少ない町で、僕たちはここでインターネットにアクセスできないかと期待していた。家族や友達に連絡をとりたかったし、ニュースも知りたかった。もしもここでネットにアクセスできなければ、20日間もオフライン状態が続いてしまうのだ。レストランでウェイトレスにたずねると、数ブロック先に小さなネットカフェがあるという。興奮してその店を訪れると苦痛なほど遅いダイアル・アップ接続だったけれど、文句はいうまい。少なくともインターネットにアクセスすることができたのだから。

その後小さな店を見つけ、向こう10日分の食料を手に入れることもできた。ともあれ、ここから先は比較的ポピュラーなトレッキング・ルートを行くので、ティーハウス(訳者注;宿と食堂を併設したネパールのトレッキング・ルートに点在する施設)で食事することができる。そのため多くの食料は必要なかった。ここまで僕たちは常に空腹だったので、暖かい作りたての料理ならばなんでもウェルカムだった。僕たちはビスケットやジュースや朝食用の食料を買い込み、ホテルに戻った。

奥地の村へと荷物を運ぶロバのキャラバンを追い越す。Passing a burro train carrying supplies up to some of the rural villages.

ベッドに寝転んでいると、さっきネットで見かけたニュースの話題になった。パキスタンであのオサマ・ビン・ラディンが殺されたというのだ。友達や家族からも、たくさんのパキスタン入国に注意を促すメールが届いていた。僕たちはこの旅のゴールをパキスタンに設定していたのだ。なかでも、とても近しい友人から送られたメールが頭から離れなかった。彼は軍の特殊部隊のためのバックパックのデザインや製造を行っているのだけれど、特殊部隊で働く彼の友人によると、メディアが報じる以上にパキスタンではさまざまな事件が起こっているという。彼のメールにはこう書かれていた。「自殺願望があるのでなければ、パキスタンに立ち入るな。」

当初、僕たちは旅の最後にパキスタンに160kmほど入り、ヒマラヤのもっとも西にある8,000m峰、ナンガパルバットのベースキャンプまで行く予定だった。けれど、この新しいニュースにより計画の変更を余儀なくされた。そもそもパキスタン政府が外国人に対するすべてのビザの発給を停止したというのだ。さらにインドとパキスタンの軍事的緊張も高まっている今は、国境線まで近づくことすら危険だろう。僕たちはせめてインドとパキスタンの国境近く、ナンガ・パルバットの山容が見れるギリギリの場所までハイクする計画に変更した。

家の建築資材を運ぶポーターの脇を通り過ぎるペッパー。Pepper passing a few porters carrying random items up to some of the houses along the route.

■ティーハウスとダルバート

翌朝、僕たちは早く起きて、ふたたびトレイルへと戻った。今回の町での滞在はアイスクリームにありつけなかったので満足とはいえなかったけれど、Eメールをチェックしてニュースを知ることができたのでまあよしとしよう。ドゥンチェの町外れの未舗装路はユタ州南部のバー・トレイル(The Burr Trail)を思い起こさせた。僕たちは谷底へと続くつづら折りの道を下り、川を渡ってもうひとつの小さな町、シャブルベシへと渡り、ふたたび登っていった。

緻密な彫刻の施された仏教石碑。Intricate Buddhist stone carvings.

その日はそれから渓谷の上へと続く細い未舗装路をおよそ45km歩いた。一日の終わりには標高も2,500mほど上がっていて、空気がまた冷たくなってきたことを感じた。暗くなってから古く小さなティーハウスに出くわし、僕たちは店先の木製のピクニック・テーブルでネパールの伝統料理「ダルバート」を食べた。米とレンズ豆と炒め野菜が粥状に混ぜられたそれは味気がなく、砂糖のたっぷり入ったミルクティーの方がよほどおいしいと思った。(訳者注:トラウマはこう記述しているが、米とレンズ豆の薄味のカレー、炒め野菜に漬け物などが添えられたネパールの伝統料理ダルバートは地域や部族ごとに様々な味があり、でたらめな西洋料理ばかりのティーハウスのメニューのなかではおいしい方である。かなりアジア的な料理なのでアメリカ人のトラウマの舌には合わなかったのかもしれない。プギョ(満腹)というまで何杯でもおかわりをくれるので、腹を空かしたトレッカーの強い味方である)。僕たちは木でできた小さな部屋に泊まり、薄っぺらいマットの粗末なベッドで寝た。

ティー・ハウスの寝室でくつろいで食事をする。Relaxing and eating in a rural teahouse bunk room.

翌朝ティーハウスを出発すると、犬が後をついてきた。彼は町から8km離れた鞍部の尾根までぴったりついてきたけれど、いよいよ峠を越える段になってようやく村へと帰っていった。彼が家に帰れるか心配だったが、僕たちは曲がりくねった道を下っていき、小さな村をいくつか過ぎた。渓谷の上を9kmほど歩き、川へと下った。数時間後、暗くなる直前に村へと辿り着き、昨夜とまったく同じようなティーハウスでダルバートの夜を過ごした。

マナスル・トレックの急峻な渓谷。Steep river valley on the Manaslu Trek.

翌日も道が多少悪くなった以外は同じようなものだった。ところどころ地図とコンパスが必要だったけれど、そこを越えればもっと歩く人の多いマナスル・トレックへ合流する。僕たちは暗くなる前にマナスル・トレックに辿り着き、その夜もティーハウスで食事にありつきたいと思っていた。

だがその日の終わり、僕たちはメイン・トレイルへと渡る吊り橋への角を間違えてそのまま川の反対側を直進してしまった。5kmほど行くともうひとつの吊り橋が現れたけれど、そこまでは急斜面の道なき道を下らなくてはならなかった。とても急で滑りやすい斜面を800mも下り、1時間以上かかってようやく橋へと辿り着いた。濁流の流れる川を渡り、最初に見つけたティーハウスに飛び込むとすでにあたりは暗かった。標高差3,000mを登り、3,000mを下った長い一日だった。暖かい料理を食べてコカコーラを飲み(トレッカーの多いエリアに帰ってきたのだ!)、あとはぐっすり眠るだけだった。

ネパール流の橋の修理。もっと安全にするためにさらに板を積み増すかどうか?  Classic bridge repair in Nepal. Pile more stuff on the bridge to make it safer?

■マナスル・トレック

それから数日間はトレッカーの多いトレイルで、大いに距離を稼ぐことができた。僕たちはティー・ハウスを出発してマナスル・トレックを登っていった。一日中登り続けたけれど、50km歩いてもまだ峠には着かなかった。標高差3000mを登り、峠まであと数kmの地点にやってきたところで暗くなり、タープを張ると雪が降り始めた。バーラルと呼ばれる野性の山羊がキャンプサイトのそばを取り過ぎていった。足跡以外ではこの旅で初めて出会った野性動物だった。

翌朝冷気に眼を覚ますと雪が5センチほど積もっていたので、僕たちは持っている服を全部来た。トレイルは曲がりくねりながら谷の北面のモレーン(氷河が堆積して堤防状になったもの)の終点へと続いており、右側には草に覆われた丘がマナスルの主峰を背景にそそり立ち、左側には荒々しい氷河が谷底へと続いていた。一時間ほどモレーンに沿って登っていくと雪原が現れ、その後すぐに標高5,100mのラーキャ・ラ峠を越えた。

ラーキャ・ラ峠を越える。Crossing Larkya La.

峠を越えるとすぐに下降が始まった。トレイルがふたたび現れるまでいくつかの雪原をグリセードで下っていった。下方の氷河にはたくさんのクレバスにできた水たまりがあり、眺めは驚くほど素晴らしかった。巨大なカール(圏谷)が右側の切り立ったピークを取り囲むようにそそり立ち、カールから流れ出した三本の巨大な氷河が神秘的なほどの対称さで合流し、それをモレーンが美しく装飾していた。合流点ではサファイア色の氷河湖が陽に照らされて輝き、左側ではマナスルに神への捧げもののように雲が覆い被さろうとしている。氷河は岩壁へと注ぎ込み、はるか谷の下方では草原が陽に照らされて輝いていた。

ラーキャ・ラ峠はマナスル・トレックの最高点だ。On Larkya La, the high point of the Manaslu Trek.

僕たちは冷えた身体を暖めようと素早く下り、その日の終わりには標高差2,500m下にある谷底へと辿り着きたいと思っていた。渓谷の底まで行けばもうひとつの人気トレイルであるアンナプルナ・サーキットの出発点に辿り着くことができるのだ。その日は太腿を燃えるほど酷使しながらひたすら下り続けた。谷の底へ着く頃にはすっかり疲れ果て、空腹だった。日暮れまでにはまだ30分ほどあったけれど、僕たちは食事をするためにティーハウスを探すことに決めた。ダラパニの村で僕たちは薄汚れたティーハウスを見つけ、夕食を食べた。谷の底はとても蒸し暑く、僕たちは翌日ふたたび標高をあげて涼しい大気に戻り、有名なアンナプルナ・サーキットを訪れることが楽しみで仕方なかった。

ラーキャ・ラ峠を下っていく。Descending from Larkya La.

■アンナプルナ・サーキット

翌日は実り多い一日になった。アンナプルナ・サーキットはやはり魅力の多いトレイルだった。事実として、アンナプルナ・サーキットの大部分はかつて一度(クルマも通れる道幅の)未舗装路になってしまった。だが今では未舗装路の一部は壊れており、歩く人が以前より少なくなった。このネパール政府のトレッキング体験の破壊のため、いまではエベレスト・ベースキャンプ・トレックがもっとも人気あるトレイルになっている。

僕たちは60kmを歩き通し、標高差2,500mを登りきり、その間にティー・ハウスで昼食を食べた。景色は素晴らしく、地形と地質はより乾燥しているドルパ地域に近づいてきていることを感じさせた。バックカントリーの山小屋よりはヒルトンのリゾート・ホテルを思い起こさせるような巨大なティーハウスで夕食を食べ、一夜を過ごした。

アンナプルナ・サーキットの最高点、トロン・ラ峠。On Thorung La, the high point of the Annapurna Circuit.

標高5,000m以上を誇るかの有名なトロン・ラ峠も、僕たちがこれまで歩いてきた距離と標高にすれば楽なものだった。ティー・ハウスと何重にも折り重なるように掲げられた経文旗が峠の頂上を区切っており、アンナプルナ山脈は風雨の防護壁となってこの地域と南側とを区切っていた。峠にはところどころ雪がつもり、土は他の山域より乾燥していた。僕たちは峠を越え、5時間で標高2,000m以上を下った。

その日の終わりには、僕たちの最後の補給地になるジョムソンの町に着いた。さらなる補給のため、僕たちは翌朝のポカラ(ネパール第二の都市)行きの飛行機を予約した。町にはインターネットが来ていなかったけれど、僕たちはレストランでくつろぎ、おのおの2~3品の料理を食べ、町を歩き回り、午後のひとときを過ごした。翌朝、僕たちはポカラへと飛んで2日間を過ごした。これから始まるネパールでもっとも遠く、チャレンジングなセクションのため装備の再編成とエネルギーの充電が必要だったのだ。

(♯4に続く。英語原文は次ページに掲載しています)

文/ジャステン・リクター 訳/構成;三田正明

Crossing The Himalayasの第三回目、いよいよ始まるモンスーン・シーズンの激しい雨にさらされるトラウマとペッパーですが、なんと今回、トラウマはあるネパール人の女の子に求婚されてしまいます…!

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紫が今回のトラウマの行程。BarahbiseからDuncheeまで6日間、約108kmを歩きました。

■忍耐とネパール時間

(Section 3 ; Berhabise to Dhunchee, 108km, 6 Days.)

翌朝早く、僕たちは慌ただしいカトマンズのバス・ステーションから数日前トレイルから外れた場所へと戻った。そこにいる誰もが3時間のバスの旅だといっていたけれど、酷い道路状況と頻繁に現れる停留所、さらにドライバーの休憩も挟まれるため、結局5時間以上かかった。僕たちはイライラして疲れ果て、休憩のたびにバスを飛び出してバナナやポテトチップやジュースを買った。立ち寄った町のメイン・ストリートには露天と商店が立ち並び、乗り物が通れないほど行き交う人々でごったがえしていた。

GHTの多くのエリアでは頂上から谷底まで3,000m以上の劇的な標高差がある。 The drastic elevation changes along the GHT. From peak to valley bottom is generally over 3000 meters or more.

僕たちは朝早くのバスに乗って涼しいうちにハイキングを始め、日中暑さが厳しくなる前に標高を稼ぎたいと思っていた。けれどそうはなりそうもなく、麓の村の時点ですでに充分蒸し暑かった。暑さは僕たちの行動を鈍らせ、さらにここ数日の休息日での暴飲暴食がたたり、体調もあまりよくなかった。たとえ一日に50キロ以上を歩くハイキングを続けてきたとしても、休息日のあとはキツく感じるものだ。缶詰のオイルサーディンのような状態で車内に詰め込まれ、たった150kmの移動に5時間以上かけ、ようやくバスはバラバイズの村に着いた。僕はこの旅から忍耐と、ネパール人の時間感覚について学ぶことができた。

ヒンドゥ教とチベット仏教それぞれの聖地であるゴサインクンドで見つけた両者が融合した興味深いモニュメント。ヒンドゥ教の神に仏教の経文旗が捧げられている。Interesting monument with a Hindu deity and Buddhist prayer flags along the Gosainkund trek, which is a religious pilgrimage.

■モンスーンの雨

この旅でもっとも骨の折れることのひとつはどこかの村に到達した際、目指す方角への村からの出口を探すことだった。大抵の村は蜘蛛の巣状で、あらゆる方向に道が続いている。けれど、地図にその詳細は載せられていない。そんなわけで村はずれにやってきたとき、僕たちにできることは選んだ道が正しいことを祈るだけだった。

バラバイズの村を出発して道を横切り、日陰のない険しいトレイルをまっすぐに登っていった。登りは厳しく、暑さと湿気ですぐに汗だくになり、シャツはびっしょりと濡れてしまった。僕たちはでたらめに伸びる生活道を繫ぎ、休耕田を横切り、とりあえず自分たちが正しいと信じる方角へと進み続けた。村から遠ざかり、標高1,000mほど登ると、休耕田のなかにつけられた生活道に出くわし、登りは緩やかになった。僕たちは小川を渡り、30分の休憩を取って行動食を食べた。

日陰の岩棚でくつろいでいると入道雲がもくもくと上がり始め、あっという間に空いっぱいに広がった。急いで荷物をまとめて出発したけれど10分後には雨がぽつぽつと降り始め、僕たちは近くの家まで全力で走って避難した。家の軒下に入った途端、空の蛇口が開き、これまで見たこともないほどの量の雨が降りだした。雨粒は巨大でバケツをひっくり返したような勢いで、すぐにあたりを水浸しにした。

ヒマラヤの低い標高ではこの「草」をよく見かける。In the lower elevations this “weed” is common.

茅葺き屋根と日干し煉瓦作りのその家には電気がないようで、なかの様子は暗くて伺い知ることができなかった。だが数分後、そこに住む女性が僕たちを招き入れてくれ、ベッドの上に座るよういってくれた。冷たい雨で凍えていた僕たちにはとてもありがたい申し出だった。ベッドが汚れないよう敷物を敷いて座らせてもらい、雨がやむのを待った。

1時間ほどで嵐は過ぎ去り、僕たちは女性に感謝をいって水浸しの風景に戻った。谷底には雲が溜まり、かなり冷えた。山の鞍部へと上がるとその先にもうひとつの鞍部があるのを見つけたので、その下に伸びる未舗装路に沿って歩いて行くと、日が暮れてきた。その日の寝床になる場所を探しながら歩いたけれどよい場所が見つからず、さらに僕たちは夕食を作るために必要な水を切らしていた。

ふたたびにわか雨が降り始めたけれど、僕たちは歩き続けるしかなかった。夜、立ち止まる前にずぶ濡れになるほどみじめなことはない。僕たちはレインウェアを着込んで歩くペースを上げた。数分後、今にも崩れ落ちそうな小さな家畜小屋を見つけた。なかに這い入ってみると屋根はなんとか機能していたものの何カ所か雨漏りしていたので、タープを屋根の上にかけることにした。僕は小川へと駆け戻って水の補給をし、その夜は落ち着いて過ごすことができた。

ランタンのゴサインクンド・トレックから谷間を見下ろす。Overlooking the valley on the Gosainkund trek in Langtang.

■トラウマ、求婚される

翌日はひたすら未舗装路沿いを歩いたので、大いに距離を稼ぐことができた。標高差も少なからずあったけれど、楽に歩くことができた。長い登りの途中、水を得るために村に立ち寄った。その日も蒸し暑く、僕が蛇口から水筒に水を入れるためにしゃがみ込んでいると、20歳くらいの女の子がやってきて、家に来ないかと誘われた。相棒のペッパーはそのとき僕の数分前を先行していた。彼女は片言の英語で彼女の母親に会って欲しいといい、水牛のミルクを飲まないかと尋ねてきた。この暑い日にミルクより欲しくないものはなかったけれど、僕には否定のチャンスがなかった。

彼女は家の奥からミルク瓶を持ってきて、コップに注いでくれた。ミルク瓶が屋外の暑い中にどれだけ置かれていたかを尋ねると、彼女はとぎれとぎれに朝と晩の二回水牛の乳搾りをするといった。僕は時計を見て、少なくとも4~5時間は殺菌も均質化もされず置かれていたミルクだと推測した。飲めば体調が悪くなることは明らかだったけれど、彼女に失礼なことをしたくなかったので、僕はそのどろっとしてだまっぽいミルクを大きく4口で飲み込んだ。

ゴサインクンド・トレックの湖。One of the lakes along the Gosainkund trek.

立ち去ろうとすると、彼女は「あなた、私のミルクを飲んだ。結婚しますか?」といった。僕はとても面食らって、どう反応していいかわからなかった。僕は早口で「ミルクをありがとう。でも僕はすこし先を行っている友達に追いつかなきゃならないんだ。」といい、家の門をくぐってトレイルに戻った。そして焼けるような太陽の下、もう800mを登った。

胃がムカムカして、いつ吐いてもおかしくない気分だった。1時間後にペッパーに追いついて何があったのかを話すと大笑いされた。高原に近づくと登りは緩やかになって暑さも弱まり、僕の胃も落ちついてきた。いま、暑い日に僕がもっとも望むものは、一杯の暖かいミルクだ。

ローレビナ峠の高所を行く。In the alpine area near Larabina La.

■聖地ゴサインクンド

モンスーンの暴風雨はその夜ふたたび僕たちを溺れさせた。テントを一晩中きちんと張り続けるため、僕もペッパーもよく眠れなかった。雨のため地面はぐちゃぐちゃでペグがすぐに抜けてしまい、あたりには重石になる石もなかった。テントのなかで土砂降りの雨の音を聞いていると、まるで貨物列車がすぐそばを通り過ぎているようだった。

数日後、僕たちは伝統ある宗教的巡礼路であり、そのため多くの人の訪れるゴサインクンド・トレックに合流した。たくさんの茶店のある歩きやすいトレイルに復帰することは最高に嬉しかった。

ローレビーナ峠から聖地ゴサインクンドへと下る。Descending from Larabina La to a nearby village.

ゴサインクンド・トレックの初日、ペッパーの体調が悪くなったので僕たちは数時間歩いただけで最初の茶店(訳者注;大抵の場合ネパール・ヒマラヤの茶店は宿とレストランを併設している)で留まることにした。その日を僕は読書したり、食べたり、リラックスして過ごし、尾根の上からの景色を楽しんだ。

翌日は歩きやすいハイ・クオリティーなトレイルで大いに距離を稼いだ。標高4200mのローレビナ峠はカリフォルニアのハイ・シェラを思い起こさせるたくさんの美しい湖のある盆地で、ネパールにはほとんど山上湖がないので、ここでは素晴らしい景色の変化を味わうことができた。

そして僕たちはふたたび暑い谷間へと30kmを下っていき、次なる補給地であるドゥンチェの町を目指した。

(♯4に続く。英語原文は次ページに掲載しています)

文/ジャステン・リクター 写真/ジャスティン・リクター ショーン・フォーリー 訳/大島竜也 三田正明 構成/三田正明

第二回目となるCrossing The Himalayas。狂乱のカトマンズを抜け出し、いよいよトラウマとペッパーはヒマラヤを歩き始めます! ですが、旅の始めからトラブルの連続だったようで…。

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紫がトラウマの今回の行程。TaplejungからBarahbiseまで21日間、約600kmを歩きました。

■悪夢のドライブ 
 
【Section1 : Taplejung to Tumligtar,  275km, 10 Days.】
 
僕たちが乗り込んだバスの運転手がまさかラリー・ドライバーだとは、思ってもみなかった。崖沿いのでこぼこ道のドライブを楽しんでいたのは、おそらく彼だけだったろう。地元のネパール人たちでさえ手にした紙袋に嘔吐したり、窓から首を出して犬のように舌を垂らしている。狭いジープの車内に10人以上がひしめく悪夢のような16時間を過ごし、ようやくこの旅の東側の起点であるタプレジャン(Taplejung)の村に到着した。僕は久しぶりに首を伸ばし、もはや永遠に折れ曲がってしまったかのような脚を座席前の金属バーからひっぺがした。

風の強いなかトレイルヘッドの村へと続く急斜面をドライブ中、パンクしたタイヤを交換する。Fixing a flat tire along the windy, steep drive into the mountains to get to the start of the hike.

「標準的な依頼人」ではないことを自覚しているので、僕は普段できる限りガイドとは距離を保つようにしている。だが、ロビン・ボーステッド(GHTの発起人)にはガイドを雇うことを強く薦められた。たしかに僕たちは地元の言葉もわからないし、慣れぬ土地で危険を伴う高所の峠をいくつも越えなくてはいけない。最終的に僕たちは旅の始めの三週間だけガイドを雇うことにした。

僕たちが雇ったガイドは英語があまり堪能でなかったけれど、難易度の高い峠越えの経験があるといい、1日に僕たちが歩く予定の距離を伝えても尻込みしなかった。だが当初の予定では全行程の10分の1である200マイル(約160km)を彼と歩くはずが、実際に彼と歩いたのは100マイルだけだった。

カンチェンジュンガへと向かう。Way to Kanchenjunga.

■Sherpa Shakedown

僕たちは初日から彼に譲歩する羽目になった。事前に旅のスケジュールと、3時間歩いては45分の休憩を取り、それを日暮れまで繰り返す僕たちのルーチンについては伝えていた。だが言葉の壁なのか、生来の頑固さから来るものなのかはわからないけれど、彼は僕たちにまったく合わせようとはしなかった。

僕たちのバックパックには10日分の食料が入っていたけれど、それは日ごとに軽くなっていく。一方、彼のバックパックにはたくさんの装備が詰まっているものの、食料は持っていなかった。つまり彼のバックパックはずっと重いままで、僕たちの歩くペースは食料が減るとともに徐々に速くなっていくのに、彼はそうではない。これが徐々に問題になっていった。

バックパックの進化。Pack progression — old to new.

彼のバックパックにはスエット・パンツやジーンズや替えのショーツや、この旅では到底使われなさそうな服や装備が満載されていた。ともあれ、一応はプロのガイドである彼に持ち物を置いていくよう頼むことは道義的な躊躇があり、僕たちは彼に“Sherpa Shakedown(シェルパ流のならし運転)”を与えるしかなかった。

さらに食料を持たない彼のために、僕たちは予定外の休憩を取る必要があった。ネパールの食事時間は西洋とは異なり午前10時、午後2時、午後7時で、そのあたりで民家を見つけると彼は立ち止まっては食事を作ってくれるよう頼み、食事にも1時間以上を要した。そのたびに僕たちの休憩時間はずらされ、歩くための時間がどんどん削られていく。彼はその日まだ歩く予定があるのに休憩した民家で泊まっていくことを提案することもしばしばあり、それにもイライラさせられた。

これまでの行程の記録をつけるペッパー。Pepper taking notes on the previous day’s route.

■雪男騒ぎ

こうして予定が大幅に遅れざるをえなかった。おまけに標高4,700mの峠を越えているときのことだ。僕たちは膝下まで雪にはまりながら数kmを歩き、ホワイトアウトした状況のなかで道を探していた。彼がこの峠を越えたことがないことは明らかで、それどころかずっと僕たちの踏み跡を歩いていた。リード役を買って出ることもなかったし、トレイルを切り開くこともなかった。自分たちがいまどこにいるのかまったくわかっていなかったし、地図の読み方すらわかっていなかった。地図をみるとき、峠にいるのに川を指したり、昨日通り過ぎた村を指すこともあった。

標高5,150mのルンバ・サンバ峠(Lumbha Sambha La)を越えるときには、彼は手前の村で道先案内に村人を自費で雇った。それまでも僕たちは自分たちで地図を読んで行き先を把握していたので道先案内はまったく必要なかったが、おそらく彼はネパール人の仲間が欲しかったんだと思う。峠越えの前夜は高所でキャンプする予定があり、彼はテントでひとりで寝ることをとても怖がっていたのだ。

新雪に膝まで埋まりながらネングラ峠を下る。Fresh snow and postholing on the descent from Nengla La.

ルンバ・サンバ峠越えはふたたび膝下まで雪にはまりながらの行程になった。スケジュールが遅れたため翌日も高所キャンプをすることになり、このときは僕が彼のテントを立ててやった。午前3時に突然彼の叫び声がして、僕たちは飛び起きて何が起きたのか尋ねたけれど、彼のブロークン・イングリッシュはうまく理解できなかった。僕たちはふたたび寝ることにしたが、彼のヘッドライトは一晩中ついたままだった。

翌朝、ふたたびいったいなにが起きたのか尋ねると、イエティ(雪男)が突然彼のテントのジッパーを開け胸の上に乗って首を絞めてきたという! 僕たちは信じなかったけれど、彼は断固として譲らなかった。彼によればあたりにイエティが何匹もいて、僕たちが寝たあとも何度か戻ってこようとしていたが、彼が夜通し起きてイエティたちを怖がらせていたので近寄ってこなかったのだという。イエティがどんな姿だったのか聞くと、黒い毛むくじゃらの身長2フィート(約60cm)ほどの生き物で、二本脚で歩いていたという。

それから数日、村を通過するたびに彼は村人たちにそのことを話していた。そのたびにペッパーと僕は大笑いさせてもらった。

ペッパーと僕。Pepper & Me.

■“Double-Doubles”

さらに悪いことに、彼の身体はバックパックの重さに耐えきれなくなってきた。なにかと理由を見つけては休憩するようになり、僕たちが荷物を持ってやることもあったし、自分の荷物を運ばせるために地元の人間を雇うこともあった。いつのまにか僕たちが彼のガイドとポーターになっており、安全のためにも彼をバックカントリーから脱出させなくてはならないことは明らかだった。

遂に僕たちは彼をカトマンズに送り返すことにした。すると、すべてがスムーズに進みはじめた。「伝統的なネパールのしゃっくり(Classic Nepali Hiccups)」を除いては。ネパール政府は2011年を観光の年として位置づけ、“0Strikes in 2011”のスローガンを掲げていたものの、すでにそれは果たせそうもない状況だった。僕たちの2ヶ月間の滞在中、すくなくとも3回から4回のストライキがあり、カトマンズでの補給後、街から出られず時間を無駄にすることがしばしばあった。ネパールの横断には47日間を要したが、さらに補給や入域許可証の発行待ちやストライキの終了を待つために21日間を費やした(僕は普段の旅では月に一日の休息日しか取らない)。

吹雪のなかの一瞬の晴れ間。Break in the snowstorm.

これからもストライキなど不測の事態が起こりそのたびに時間をロスすることを考えると、僕たちはもういちどハイキング計画を練り直し、さらにペースを上げる必要があった。ガイドと別れて以来、僕たちのペースは上がり、一日22マイル(35km)を進むことができるようになっていた。連日2,000m以上、時には3,000m以上の標高差を登り下りし、そんな日を僕たちは夢に見るほど恋いこがれていたIn-N-Out Burgers(カリフォルニア州を中心に展開するハンバーガー・チェーン)にちなんで“Double-Doubles”(チーズとパティが2枚づつ入ったIn-N-Outの人気メニュー)と呼ぶことにした。

エベレスト・ベースキャンプでリラックスしているペッパー。Pepper spending some downtime at Everest base camp.

 

■初めて食べ物を見た人

【Section 2 : Tumligtar to Namche Bazaar to Berhabise, 322km, 11 Days.】

カトマンズでの一度目の補給を終え、間髪いれず有名なエベレスト・ベースキャンプ・トレックへと向かった。僕たちはエベレスト・ベースキャンプの“Tent City”を訪れたあと、GHTの本来のルートとは少し外れるものの、どうしても歩いてみたかったエベレスト山域の気絶するほど素晴らしいいくつかの峠を越えた。エベレスト、ローツェ、ヌプツェ、チョラツェと、景色は進むごとに素晴らしくなり、僕はまるでノース・フェイスのカタログを歩いているような気分だった。その製品の多くはこれらヒマラヤのアイコンたちにちなんで命名されているのだ。

だが、この旅で初めて標高4,200m以上で6日間を過ごしたことで、僕たちはひどく消耗してしまった。険しい地形と高所で長期間過ごしたことの影響で、ふたりとも頭痛や腹痛や筋肉疲労を抱えていた。タフなセクションだったけれど、最後の峠を越えれば1,000mほど標高を下げることができ、次の補給までは標高3,500m以下に留まれることを知っていたのでなんとか乗り切ることができた。

エベレストを望む。Gazing Mt. Everest.

何千mもの累積標高を登り下りした10日間のあと、僕たちがこの旅で出会った唯一の舗装道路に出て、バスでふたたびカトマンズに戻った。山の村で手に入る食材はすべて低カロリーで、高低差の激しい長距離を歩くハイカーの求める高カロリー食品は手に入らないのだ。

カトマンズに戻った僕たちは、まるで初めて食べ物を見る人のように食べまくった。ピザ、冷たい飲み物、アイスクリーム! 山の村で冷蔵庫にお目にかかることは滅多にない。街で僕たちが当たり前のように享受していることの多くが、そこではとても贅沢なのだ。

それから数日間はネパールでの残りのセクションで必要な入域許可証を取ったり、靴を履き替えたり、必要でなくなったクライミング・ギアをダッフルバッグに戻したりして過ごした。この機会は僕たちにとってダッフルバッグから補給をして装備の入れ替えをし、都会の空気に振れる最後のチャンスだった。

またもや当然のようにストライキがおこり、バス網がストップした。街でやるべきことを済ませた僕たちは、数日後ふたたびトレイルに戻ることにとても興奮していた。

(♯3に続く。英語原文は次ページに掲載しています)

文/ジャステン・リクター 写真/ジャスティン・リクター ショーン・フォーリー 訳/大島竜也 三田正明 構成/三田正明

TRAILSではコッパー・キャニオンの連載も好評だった「スーパーハイカー」ジャスティン・リクター a.k.a トラウマが、ふたたびハイキング・レポートの連載を始めてくれます。

今回の彼の行き先はあの大ヒマラヤ山脈。2011年にパートナーのショーン・フォーリーとおこなった世界最東端の8,000m峰カンチェンジュンガからネパールを横断するグレート・ヒマラヤ・トレイル(GHT)を越えインドに入り、世界最西端の8,000m峰ナンガ・パルバットを目指した3ヶ月間・総距離3,400km以上に及んだ壮大なハイキングの記録を全10回シリーズでお届けします。

(第1回目となる今回は特別編としてトラウマとのQ&Aやヒマラヤでのギア・リストも公開します!)

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【でもその前に、ヒマラヤってどんな場所?】

ともあれ「ヒマラヤを横断」といわれても、それがいったいどれだけのスケールの旅なのか、そもそもヒマラヤがいったいどんな世界なのか、まったく想像もつかない人も多いでしょう。

TRAILSの前回ポスト「HIMALAYA MOUNTAIN LIFE − GHT Projectもぜひ参考にしていただきたいのですが、大ヒマラヤ山脈は東はブータンから、中国、インド、ネパール、ふたたびインドを通ってパキスタンへと五カ国、直線距離にして2,400kmに及ぶ巨大山脈です(北海道の宗谷岬から鹿児島の佐多岬までが1,880km)。世界最高峰エベレストを始めとする14の8,000m峰があり、さらに標高7200m以上の山を100座以上擁するまさに世界最大の山脈です。

地形は亜熱帯のジャングルから岩と氷の峰々、氷河や高地砂漠、深い峡谷などバラエティに富み、とくにその山々の巨大さは他の山域と比べようもないほどです(標高7,000m以上の山はヒマラヤとその周辺地域にしか存在しません)。一般的にはアルパイン・クライミングのイメージの強いヒマラヤですが、標高3,000mほどの地帯まで数多くの村が存在し、人種や宗教や文化の違う村々を繫いで歩くトレッキングも非常に人気があります。

なかでもとくにネパールは入国カードの渡航目的の欄に”Trekking”というチェックボックスもあるほどのトレッキング大国で、奥地の村にもトレッカー向けの宿が多くあり、情報も比較的多いため、個人旅行者にも歩きやすい国です。

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エベレスト街道の入り口、ナムチェ・バザール。

近年ではそんなネパールのヒマラヤを横断する超ロング・トレイル、グレート・ヒマラヤ・トレイル(GHT)が開通しました。日本からは昨年(2014年)に山と道の夏目夫妻がそのセクション・ハイクに挑戦したり、TRAILSでも「HIMALAYA MOUNTAIN LIFE − GHT Projectでお伝えしたように山岳ガイドの根本秀嗣さん・TRAILSでもお馴染みのライター根津貴央さん・写真家の飯坂大さんからなるTeam Monsoonの三人がセクションごとの踏破に挑戦中なので、注目されているハイカーの方も多いかと思います。

2011年、トラウマはそんなGHTの起点であるネパール最東端の8,000m峰カンチェンジュンガからGHTを越えてインドへと渡り、パキスタンにある世界最西端の8,000m峰ナンガ・パルバットを目指しました。ですが、ハイキング中にパキスタンに潜伏していたウサマ・ビン・ラディンを米軍が殺害したため政情不安定なパキスタン入国を諦めざるをえず、インド・パキスタン国境にあるカルギルでのゴールとなりました。

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ヒマラヤの冬は厳しく、夏にはモンスーンが吹き荒れるため、GHTのスルーハイキングが可能な期間は春と秋の2~3ヶ月ほど。さらには途中いくつもの標高5,000m以上の峠や補給困難な僻地を通り過ぎるため、ガイドやポーターのサポートなしでの個人ハイカーのスルーハイキングはかなり難易度の高いトレイルでもあります。トラウマはさらにインドに入りヒマラヤをほとんど横断してしまったのですから、まさに装備を極限まで切り詰めたウルトラライト・ハイキングのスタイルと豊富な経験、そして驚異的な歩行力を持つ彼だからこそ成し遂げた旅だといえるでしょう。

【トラウマとのQ&A】

今回の旅の期間と歩いた総距離を教えてください。

ヒマラヤでのハイキングだけに限ったら期間は3ヶ月間。正確な距離はわからないけれど、3,400kmは歩いたと思う。

そのうちゼロ・デイ(歩かない休息日)はどれだけありましたか?

途中で食料や装備の補給を行ったり入域許可証を取る必要があったので、ゼロ・デイは12日間あった。

1日に歩く距離は平均何kmでしたか?

激しいアップダウンもあったけれど、一日平均39kmは歩いていたと思う。これも正確な数字をいうのは難しいけど。

バックパックのベースウェイト(消耗品である食料・水・燃料を除いた基本重量)はどのくらいでしたか?

旅のほとんどのセクションでは4.85kg。でもテクニカルなセクションでは登攀用装備も担いでいたので少なくとも7.5kgにはなっていた。

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バックパックの消耗品を含んだ総重量はどのくらいでしたか?

基本的に僕たちは10日ごとに補給を行うことにしていたんだ。なので10日分の食料を積んだ状態では15kgくらい。さらにテクニカルなセクションで登攀用装備を積むときは22kgくらいになっていた。

旅の総費用はどのくらいですか?

米国までの行き帰りの飛行機代を含めるとUS$6,000~8,000くらいだね。

この旅で到達したもっとも高い標高は?

最高標高は5,700m。ちなみにいちばん低い標高は1,000m。

食料の補給はどうしたんですか?

時には山で食べられるものを採取したりもしたけれど、でもたいていの場合地元の人々は僕たちに売る派はおろか自分たちが生活する最低限の食料しかもっていなかった。それにそれらはパッカブルじゃなかったし、ハイカロリーなバックパッキング・フードでもない。なので僕たちは10日ごとに小さな山の空港や車道に出て飛行機に乗るかバスで山麓の街へ行くか大きな街まで補給に出ていたんだ。必要な装備や壊れた装備を新しいものに取り替えるのにも役立ったよ。

水の補給はどうしましたか?

ヒマラヤでは水はどこにでもあるから、浄水器があればまったく問題なかったよ。

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トレイルでは危険な動物や昆虫に遭遇しましたか?

雪豹の足跡は見たけれど、ネパールでもインドでも危険な動物には会わなかったね。もっともヤク(ヒマラヤ一帯の高地で飼われている毛長牛)たちはちょっと強情で意地悪だったけれど。きっと君もヒマラヤへ行けばヤクに出会うと思うよ。野生動物に関しては、君が彼らを怖いと思う以上に彼らは僕たちを恐れているんだ。時には大声を出して追い払ったりこちらが逃げなければならないときもあるけれど、それほど神経質になつ必要はないと僕は思っている。

ヒマラヤのトレイルの特徴は?

深い渓谷から巨大な岩壁や巨峰まで、びっくりするほど地形がドラマチックだね。信じられないほど美しかったし、とくに山の巨大さは他のどの山域とも比べられない。

なかでもとくにお気に入りな場所は?

ドルポ(ネパールの中でもとくに辺境に位置し、チベット系の人々が高峰に閉ざされた環境で中世とほとんど変わらない暮らしをしている地域)はすごく楽しんだね。

この旅で新しい発見や気づきはありましたか?

ネパールやインドの文化に眼を開かせてくれたね。とくに山岳地帯に住む人々が厳しい環境のなかでたくましく生き抜いている姿には感銘を受けた。チャレンジングな旅だったけれど、そのぶん得るものも大きかったよ。

次ページからいよいよトラウマの旅が始まります!

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写真/文:ジャスティン・リクター 訳:大島竜也/三田正明

5回に渡ってお送りしてきたトラウマのコッパー・キャニオン・ハイキング・レポートも、遂に今回で最終回を迎えます。この旅の最後の峡谷、シンフォローザに達したトラウマとカムは、メキシコ麻薬カルテルの大麻薬栽培地帯に足を踏み入れていきます。 500マイルを歩いて、旅の最後にトラウマが感じたこととは…。

■Day 26:道端に落ちた大量のマリファナ

朝起きると霜が下りていた。その日は凍える出発となり、僕たちは手持ちの服をすべて着込んで歩き始めたけれど、30分も経たないうちに地平線の上に太陽が昇り始め、すぐにいつもの短パンとTシャツ姿に戻った。朝食時、僕たちの“Hiker Hungly”を満たすには完璧なタイミングで村にたどり着いた。小さな店を見つけ、女主人に何か作ってくれるよう頼むと、コーヒーとコーラと卵と豆、そしてできたてのトルティーヤからなる素晴らしい朝食にありつくことができた。彼女はこの地域のドラッグ産業の恐ろしい話や、この近くの台地に土地を買って移り住んできたアメリカ人夫婦の話をしてくれた。ニュー・メキシコから来たその夫婦は定年後にここにやって来て、今は農業を営んでいるという。 すっかり満腹になった僕たちはふたたび歩きだしたが、その日はそれから大した出来事は何もなかった。まずはお馴染みの未舗装路と、その後はこの旅で僕たちが体験した唯一の長く続く舗装路を歩き続けた。午後、急カーブを曲がると大量のマリファナが道端に落ちていた。末端価格が少なくとも数千ドルにはなるだろう収穫された作物が、無造作に道の脇に転がっていたのだ。おそらくピックアップ・トラックの荷台に積まれていたものが、急カーブを曲がる際に落ちてしまったのだろう。僕たちは素早く写真を何枚か撮り、誰かが取りに戻る前に立ち去ることにした。この3週間、ドラッグに関するサインはいくつも目にしていたが、僕たちはついにその心臓部に足を踏み入れたようだった。

Marijuana on the side of the road.(道の傍においてあったマリファナ)

Marijuana on the side of the road.(道の傍においてあったマリファナ)

■Day 27:ケシ畑の農夫

その日は未舗装路の脇に建つ高い石垣の陰で目を覚ました。僕たちは蜘蛛の巣のように広がる未舗装路を、支流沿いの小屋を目指して20kmほど下った。小屋でカウボーイ・ハットを被った白内障の老人に話を聴くと、僕たちの向かう最後の峡谷へ流れ込むシンフォロ―ザ川に下るトレイルは、ここ最近ドラッグの運搬路として使われているため、普通の人はめったに通らないという。彼は数年前に強盗に襲われ、家に侵入されて銃を突きつけられたこともあると話し、地元の人は横行するドラッグ・ビジネスに嫌気が差しており、また安全に暮らせることを願っているという。老人は軒先のリンゴの木からいくつか実を採り、持たしてくれた。僕たちは老人に礼をいって別れを告げ、ふたたびトレイルを下っていった。 その何分かのち、このトレイルは支流沿いに伸びるメインのトレイルに繋がっているらしいことがわかってきた。30分ほど経ったころ、十代の若者がスクール・バッグを背に嵐のように走ってきて反対方向に走り去っていったが、僕らの存在にはまったく気付いていないようだった。明らかに彼はマリファナの運び屋だった。僕とカムをお互い顔を見合わせたが、このまま進むことにした。 さらに30分ほど進むと分かれ道があり、状態の良いトレイルと悪いトレイルに別れていた。状態の良いトレイルはふたたび峡谷のへりに続く登り坂で、もう一方は僕たちの目指す方向に続いているようだった。状態の良いトレイルを歩きたいのはやまやまだったが、そちらは明らかに僕たちの目指す方向とは違っていた。ドラッグの運搬に使われるトレイルほどよく整備されているものなので、僕たちの希望はこの状態の悪いトレイルがすこしは安全であるということだけだった。

Walking through a small town.(小さな町を歩いて通る)

Walking through a small town.(小さな町を歩いて通る)

さらに下っていくと、崖に囲まれた場所に出た。支流は山峡となり、滝を過ぎると流れが急になった。僕たちは岩棚を横断したあと道を見つけ、急斜面を下っていった。その道はヤギのけもの道のようで、急峻すぎて歩くことは不可能に近かったけれど、突然45度ほどの傾斜面に作られた畑に出た。スプリンクラーが立ち並び、最近撒かれたらしい種に水を撒いていた。近くに人がいるに違いないと考えた僕たちは、敵意がないことを示すため“Hola, Buenos dias(やあ、こんにちは!)”と叫びながら耕作地を横断したが、反対側でヤギ道を見つけるのには苦労した。 ふたたび下っていくと、別の傾斜面に作られた畑に出た。いくつか花が咲いているのを見つけて、ケシ畑であることがわかった。状況はさらに深刻だった。彼らはマリファナだけでなく、ヘロインの原料になるケシまで栽培しているのだ。僕たちは壊れたレコード盤のように“Hola, Buenos dias”と叫びながら歩き続けた。さらにもうひとつの畑に出くわすと、畑の上にある小屋で火が燻っていて、農夫の人影も見えた。僕たちが注意を引こうと叫ぶと、こちらにやってきて親切に話してくれた。 彼が僕たちの旅について尋ねるので、僕たちは慎重に言葉を選びながら川の主流まで下り、グアチョーチへ行くためにシンフォローザ峡谷を登りたいのだと伝えた。彼によると、僕たちは道を行き過ぎていた。岩棚から下るときに間違った道を選んでしまったので、この畑に行き着いたという。さらには彼の友人の畑を下れば川沿いに行くトレイルがあると教えてくれた。 川へと下るトレイルがあるのはグッド・ニュースだったが、ふたたびケシやマリファナの栽培畑を歩かなければならないことはバッド・ニュースだった。彼は急斜面の畑の先を指差し、この崖の左に回り込むトレイルを探すよう教えてくれた。そのトレイルは次の支流に繋がっていて、川の合流地点に辿り着くという。親切だったとはいえ彼はヘロインの原料であるケシ農家でもあるので、僕たちは礼をいうと災難が起こらぬうちに先を急ぐことにした。 だが、5分も経たないうちに僕たちは完全に道に迷い、45度も傾斜のあるヤブ漕ぎ状態の足下も滑り緩い丘にいた。僕たちはどうにか川底へ辿り着くために踏ん張りながら下っていったが、カムが足を滑らせ、そのまま崖の下へと滑り落ちてしまった。僕たちは植物を掴みながらなんとかバランスを保とうとしたが、40分が経ってしまいこのまま進むのは得策でないと判断して引き返すことにした。しかし、これ以上あのケシ農家に道を聞くのは気が引けたので、少し戻って崖の突き出た場所まで戻ると、運良くケシ農家から教えてもらったトレイルを見つけることができた。 太陽はすでに沈みかけており、僕たちは暗くなってしまう前に寝床になる平らな場所に辿り着けることを願った。あのケシ農家が居た小屋まで戻ることも考えたが、それはドラッグ業者と一緒にキャンプを張ることになり、何が起こるかわからない。崖に囲まれた不安定な岩棚の上の消え入りそうなトレイルを進んでいくと、渓流の流れる牧歌的雰囲気の場所に出た。滝が天然のプールに注ぎ込み、その上には一時間前に見えたときから今夜の寝床にしようと考えていた平地があった。そこは寝床としては考えうる限り最高の環境だったが、ただ唯一、滝の轟音のせいで誰かが近づいてきも気づかないだろうことは気がかりだった。

タイミング良く見つかった滝が付近にあるキャンプ場所

The waterfall and camping spot we came across at the perfect time. (タイミング良く見つかった滝が付近にあるキャンプ場所)

■Day 28: 峡谷の底を旅するということは

翌朝、さらに3時間ほど岩から岩へと飛び移ったり這い降りたりして、遂に僕たちは峡谷中心部の底へと辿り着いた。途中、またいくつかのケシやマリファナの栽培地を通過し、何人かの農夫と会ったが、昨日会った農夫のように親切な人はいなかった。「出荷」のため、彼らが峡谷のへりまでのこのハードなハイキングを日常的にやっているとは、まったく想像を絶した。鍛え抜かれた僕たちでさえ峡谷の底までほとんど丸一日かかったのだ。ここを登るのにどれだけ時間がかかるかは想像できたけれど、それがどれだけの稼ぎになるかは想像もつかなかった。だが、どれだけ時間がかかろうとも、それは彼らにとってやらなければならないことなのだろう。 僕たちは岩と岩の間を飛び越えて川を渉りながら、峡谷の上流へと進んだ。 いくつかの徒渉は腰や胸の高さまで水深があったものの、川はこれまでよりもずっと浅くなり流れも穏やかだった。僕たちは素晴らしい時間を過ごし、川沿いにロバ用の家畜道を見つけた。 昼前には昨日よりももっと大きなドラッグを栽培する農場を通り過ぎた。そこは全長2km以上もあり、スプリンクラーがくまなく設置されていた。肥料用に撒かれた卵の殻の上を歩きながら、僕は農家に心の中で感謝した。少なくとも、この場所ではまずまずのトレイルの上を歩けるのだから。僕たちは峡谷の底を旅するとはどういうことなのか、まったくわかっていなかった。峡谷の底にある岩や堆積物の大きさや徒渉の数によって、旅は素晴らしくもなるし、時に這いずりまわる羽目にもなる。この時はずっとなだらかな道が続いたので、素晴らしい時間を過ごすことができた。

At the rim at the Cumbres de Sinforosa, the end of the journey.  (僕らの旅の終着点、カンブレスデシンフォロサの縁にて)

At the rim at the Cumbres de Sinforosa, the end of the journey.
(僕らの旅の終着点、カンブレスデシンフォロサの縁にて)

ランチタイムになり、僕たちは今日の終わりにはこの旅の終着点へと峡谷を登る川の合流点へと到達することがわかった。その後も順調に進み、合流点だと思われる場所に日没の1時間前に到達することができた。僕たちは周囲を捜索し、ここから1800mほど上の峡谷のへりまで続いていそうなトレイルを発見した。僕たちは水を補給して、この人里離れた峡谷の底でこのハイキングの最後の時間をリラックスして過ごすことに決めた。

■Day 29: バスでたった4時間の道

もしすべてが予定通りにいけば、今日が最終日になるはずだ。道の状態さえ良ければ、半日もあれば津着するだろう。あとはただ、峡谷のへりまで登りきればいいのだ。その日、行く先に日陰がまったくないことがわかっていたので、あの拷問のような太陽の光を避けるためにかなり早く起床した。僕たちはこの旅でも最高のクオリティーのロバ道(正確なつづら折りと歩きやすい階段!)で1800mの標高差を4時間で登りきり、午前10時半には峡谷のへりに到達することができた。 赤い壁をしたシンフォローザ峡谷の景色は素晴らしく、“Cumbres de Sinforosa”(シンフォローザ峡谷の最高峰)の姿はこの旅を締めくくるに相応しい眺めだった。歓びもつかの間、次なる課題が僕たちを待っていた。ここからグアチョーチの町までは30kmほど離れており、その後にクリールの町に僕たちのダッフルバッグをピックアップして、そこから一番近い空港のあるチワワまで行かなくてはならない。運良く町へと向かうピックアップトラックに乗せてもらうまで、僕たちはそれから12kmほど歩き続けた。 ようやく町に着き、僕たちは腹一杯食べ、このハイキングをやりきった達成感に浸った。当初はどんなことが起こるのか、巨大なクエスチョン・マークだらけだったこの旅を、ドラッグ栽培地帯をくぐり抜け、どうにかシンフォローザまで辿り着くことができたのだ。僕たちがクリール行きのバスに乗り込むと同時に雨が降り出した。歩いて3週間かかった道は、バスではたったの4時間だった。

The Sinforosa River and canyon. (シンフォロサ川とキャニオン)

The Sinforosa River and canyon.
(シンフォロサ川とキャニオン)

■終わりに

今回の旅は、グランド・キャニオンよりも深いことで知られる驚くべき魅力を持つ地域、コッパー・キャニオン全域を横断するものだった。このふたつの地域は非常にドラマチックで起伏に飛んだ地形をしており、コッパー・キャニオンには多くの美しい場所がある。だが、全体的な景観美はグランド・キャニオンの方が優れていると僕は思う。 グランド・キャニオンで、僕は今まで訪れたどの場所でも「ぶっ飛ばされた」。だがコッパー・キャニオンでは、いつもそうとは限らなかった。峡谷において、すべてを洗い流す鉄砲水は大地の浄化であると僕は思っている。メキシコではゴミをゴミ置き場に捨てる習慣が徹底されていないため多くのゴミが峡谷に流れ着き、植生を妨げている。このため人里から遠く離れた場所でも、手つかずの自然を感じることができないのだ。 また、メキシコでは経済の拡大と共に、以前はハイキングやロバ道でしか交通がなかった村々に道が通されようとしている。それら多くの道は新し過ぎて僕たちの地図には載っていなかった。こういった道路建設用の資金は麻薬カルテルが彼らの「製品」をより容易に運搬する目的で工面されている可能性がある。このことは、僕たちの様なハイカーにとっては地図と実際の道が異なる程度の問題で済むが、コッパーキャニオン地域の文化や伝統にとっては、さらに深刻な影響を及ぼすことになる。 この地に住むタラウラマ族はランニングとハイキングの文化を持っているが、それは彼らの住む地域が人里離れ、必然的にランニングやハイキングをしていたことに由来する。しかし、新しい道路は生活を楽にし、物品へのアクセスをもたらすことになる。この変化は自然の流れであり、良いか悪いかは僕にはわからない。しかし生活が楽になるにつれ、古くから続く文化は失われてゆくだろう。この葛藤は僕たちが自然界から遠ざかれば遠ざかるほど起こる問題だ。何世代にも渡って使われてきたトレイルにも草木が生茂り、朽ち果て、使われなくなっていく。

Walking on an old Tarahumara trail through the desert vegetation. (砂漠地帯に通る古くからあるタラウラマ族が使った道を歩く)

Walking on an old Tarahumara trail through the desert vegetation. (砂漠地帯に通る古くからあるタラウラマ族が使った道を歩く)

僕たちが今回の旅の意図として最終的に考えていたのは、コッパー・キャニオンについてメディアが伝える悪いイメージを払拭し、この素晴らしい地域のハイキングや周辺の自然豊かな場所のガイドブックを書くことだった。だが、ハイキングを始めて一週間で、それは不可能ということがわかった。 ドラッグ取引は僕らの認識以上にこの地域に浸透していた。僕たち自身はそれほど身の危険を感じることはなかったが、他の人が来ても同じかどうかはわからない。地域の人々でさえ実状を良く思っておらず、過去10年で観光客が激減したことにより沢山の機会を失っている。かつて観光のメッカとして世界中から人が集まり栄えた町は今ではシャッター通りとなり、空っぽのホテルがあるのみだ。ここに来る前は地域を再び活性化し、地元の人々や地域にお金が廻る仕組みを考え、環境保護を促進して国立公園を作る構想をもたらすことができたらと考えていたが、僕たちは楽観的過ぎたようだ。 この地域には未だ多くの混乱があり、危険すぎる。多くの人々はドラッグ文化やその汚名から抜け出したいと考えているが、僕たちが出会った親切な農夫のように、トウモロコシや小麦を栽培するよりドラッグの方がお金になるという理由で、栽培を続けている人もいる。そういった農家は意図的に破壊的で中毒性のあるドラッグを栽培しているわけではないが、結果的にはアメリカにいる多くの若者がドラッグを手に入れることにより、この地域に危険や混乱を生じさせている。 コッパー・キャニオンがかつての姿を取り戻すには、環境保護の考えを定着させて、更なる道路の開発などから地域を守ることだと思う。この地域は簡単に一つの大きな国立公園になりえる場所で、そうすれば地域経済にお金が廻り、ドラッグ栽培の誘惑から人々を守ることができるかもしれない。タラウラマ族によって世代を超えて使われてきた道を素晴らしいハイキングの目的地として復活させることは、そう難しいことではない。何かのきっかけで、コッパーキャニオンは新たな景勝地になることもできるはずだ。

 

Copper Canyon 500 mile Hike #5 by Justin Lichter

Day 26:  

The plateau was lined with frost as we packed up and started moving. It was a chilly start to the day. We both had all of our available clothes on. Within thirty minutes, as the sun rose over the horizon, we were shedding layers and were back to shorts and our base layer shirts. We hit a small village around breakfast time, perfect time so that we could fuel our hiker hungry. We stopped at a small shop and asked the shopkeeper if she would cook us breakfast. We had coffee, Coke, eggs, beans, and fresh tortillas, as the lady told us stories about the area and the drug trade. Besides for the horror stories about the drug industry, she told us that a couple from the United States had purchased a place on the adjacent mesa (as she pointed across the canyon). The couple, originally from New Mexico, had retired to this area and bought a plot of land. They now lived there full time and farming. We left with full bellies and headed out down the dirt road. The rest of the day was pretty uneventful as we connected the dirt road with one of the only paved road walking stretches that we had on the entire trip. In the afternoon, along the 15km paved road stretch, we were walking around a sharp bend in the road, when we noticed loads of marijuana splayed out along the side of the road. There was easily thousands of dollars of harvested crop just lying next to the road. I took a couple of quick pictures and we pressed on before anybody returned to pick up their loss. We presumed that a pick up truck was going fast around the corners of the road and lost some of the contents from the bed of the truck. After three weeks of relatively little signs of drugs, we knew we were now in the heart of it.

Day 27:

  We woke up from behind the shoulder high stonewall providing cover from the nearby dirt road. We made our way about 20 km more down a spider web of dirt roads and to a house situated on the rim of a tributary. We spoke to the owner of the house, an older man with bad cataracts and a cowboy hat. He said that there was a trail down the tributary that led to the Sinforosa River, our final canyon. He also mentioned that he hadn’t seen anyone use the trail in a few years, except for people he presumed to be growing and carrying drugs. He told us the story of how a couple of years ago, he was held up and robbed at gunpoint in his home from some of the drug people. The locals all were fed up with the drug industry and would like to feel safe again. He picked a few apples from his apple tree and gave them to us as we said our good-byes and hiked off down a faint trail. Within a few minutes the trail improved as we hit the main trail in the tributary. Thirty minutes later a teenager with a school-style book bag stormed past us in the opposite direction without acknowledging our presence. He was obviously a “mule” packing out some of the drugs that were being harvested. Cam and I looked at each other and decided to keep going. Another thirty minutes later we came to a junction. The good trail ascended and appeared to regain the rim, while a faint trail continued in the direction we wanted down the tributary. It was hard to leave the good trail, but we knew it wasn’t headed in the right direction. The only hope was that all of the drug traffickers had built the good trail for their use and we were now safe on the lesser-used trail. We dropped elevation fast and the trail picked its way through cliff bands. The tributary gorged up and became steep with waterfalls. On the faint trail we traversed out along a ledge and then found our way steeply back down. The trail was more like a goat track. It was hard and nearly impossible to follow, until suddenly it emerged at a tilled field on a 45-degree slope. Sprinklers were firing overheard watering the recently sewn seeds. We made our way across the field hollering “Hola, Buenos dias” so that we wouldn’t startle anybody. On the other side we had trouble finding the goat trail. We continued down a faint trail and then came across another tilled area. I saw some flowers and quickly realized that we were in a poppy farm. This was getting serious. They were growing poppies to make heroine, not just marijuana. We kept going as we shouted “Hola, Buenos dias” like a broken record. As we stumbled on the next field we saw a fire smoldering in an alcove above the field. Then we saw the farmer. We shouted out to get his attention. He came over and chatted cordially with us. He was very friendly and asked all about what we were doing. We were cautious with out answers and told him we were hiking and wanted to get down to the main river and then hike up the Sinforosa to Guachochi. He said that we had gone the wrong way and lost the trail that dropped through the last rock band since we had ended up in his fields. Finally he said that there was another way to get to his friend’s field down along the river. Good news that we could make it down to the river, but bad news that there would be more fields to pass through. He pointed the direction down this steep nose and then told us to look for a trail that wrapped left around this cliff band into the next tributary and then dropped to the confluence. We thanked him and went on our way before anything could go awry, after all we were talking with a poppy farmer. Within five minutes we were completely lost and bushwhacking down a 45-degree hillside with loose soil and scrambling for our lives as we tried to find a way to the river bottom. Cam slipped and almost uncontrollably went over the cliff band below. We grabbed plants to maintain some balance. After 40 minutes we decided to turn around and go back up, but we were hesitant to go back to the farmer for more directions. As we regained the nose protruding from the ridge, we noticed a very faint trail wrapping around as he had mentioned. The sun was now setting and the daylight was fading fast. We hoped this was right and we would be able to find a flat spot to camp. The last thing we wanted was to retreat to the farmer’s alcove and be forced to camp with someone in the drug industry. Anything could have happened then. We bushwhacked and followed the faint trail around. As it wrapped around it skirted cliff bands and precarious ledges. It emerged at the side stream at an idyllic spot. A waterfall poured into a large pool and just above the first flat ground we had seen in hours. We knew it was our home for the night. It was a perfect spot in any other setting. Our only fear was the thundering water would cover noise of anybody approaching.

Day 28:  

It took us another three hours of scrambling and rock hopping to finally hit the main canyon bottom. We passed through a few more drug fields and met a couple more farmers, none as friendly as the one the previous day. It was unimaginable that people would routinely make this hike to transport their drugs up to the rim for “shipment”. We were in amazing shape and it took us almost a full day to descend to the bottom. I can only imagine how long it takes them to ascend on that route. I can’t imagine that is a profitable endeavor, with how much time it takes, but it must be. We made our way up the canyon, rock hopping and fording the river. The water levels were lower and manageable since we were farther up canyon and past a main tributary. Some of the fords were still waist or chest high though. We made good time and found some donkey trail on a few flat benches above the river. Around the middle of the day we passed through another large drug field. This one was over 2 km long and sprinklers were on throughout. We walked on eggshells as we traversed the field, secretly thanking the people because at least there was a decent trail in places. We never knew how the travel on the canyon bottoms would be. Depending on the size of the debris and rubble and number of fords necessary, sometimes we’d make good time and other times we’d be crawling. This was a particularly long stretch in the bottom but we were making great time. Around lunchtime we realized that by the end of the day we might make it to the junction where the trail was for us to ascend out of the canyon for the end of the hike. The going remained good. We reached the area we presumed was the junction an hour before dark. We scouted around a little and found the trail that would take us 6000 vertical feet up to the rim. We decided to get water and relax and absorb the remaining hours of the hike in the remote canyon bottom.

Day 29:  

If all went as planned, we knew this was the final day, maybe even just a half day of hiking if the trail quality was good. All we had to do was follow the trail to the rim. We woke early to beat the heat since we knew the climb had no shade and would be grueling in the sun. We ascended quickly on the highest quality donkey trail of the entire trip. There were great switchbacks and well graded tread. We reached the rim of the canyon at about 10:30 in the morning after less than four hours of hiking and 6000 feet of elevation gain. The view was amazing looking out over the Sinforosa Canyon and its red walls. The Cumbres de Sinforosa (Summit of Sinforosa) was a great ending point. Now we turned to the next task at hand. Getting to the town of Guachochi, about 30 km away, and back to Creel to get our duffel bags so we could head to Chihuahua and the nearest airport. We had to keep walking since we were at the end of a little used dirt road that only led to this viewpoint. We walked at least another 12 km before we got a ride in the back of a pick up truck into town to. We ate a hearty meal, satisfied that we completed the hike, where everything at times was a huge question mark about what we would face, and made it out of the Sinforosa and the throat of the drug cultivation. Then we caught the bus back to Creel as it started raining. What took us three weeks to hike, took us only four hours by bus.   Conclusion:                   This trip was through an amazing region traversing the entire Copper Canyon. The Copper Canyon is known as being deeper than the Grand Canyon in the United States. The terrain in both is dramatic with huge relief changes. Many areas of the Copper Canyon were stunning, however when compared to the Grand Canyon, I think the Grand Canyon is overall more aesthetic. From anywhere I have ever been in the Grand Canyon, I am blown away. This was not always the case for me in the Copper Canyon. I tend to think of flash floods in the canyon systems as the Earth’s cleansing. Everything gets washed and flushed through the canyon. In Mexico, where there is less of a tendency to dispose of garbage into a receptacle, this in turn means that a lot of trash gets flushed into the canyons and hung up on vegetation. It doesn’t always have a pristine feel, even though you might be in a really remote location. Along those some lines, Mexico, as an expanding economy, is trying to put roads into many areas that were previously only villages serviced by hiking and donkey trails. Our maps did not show a lot of roads that were built. This could also be due to the money from the drug trade and the cartels wanting it easier to transport their products. This affected our hike as we went, since our maps were not current, but most importantly this has affected the culture and traditions of the Copper Canyon region. The Tarahumara were a running and hiking culture. With new roads people gravitate towards the roads since they can make life easier and create access to goods. This naturally changes things, whether for good or bad, I am not sure, but ancient cultures are lost because life becomes easier. It’s conflicting. As this happens we naturally become more separated from the natural world. Trails that were built and used for generations are becoming overgrown, decaying, and becoming unusable.  Ultimately we had gone into this trip with the intention of showing that the media, as is typically the case, was scaring tourists from coming to this amazing area. We intended to write a guidebook for the hike and for other hikes in the area, as well as possibly guiding hiking trips into this remote region. After a week on the hike, we learned that these ideas wouldn’t be possible. The drug trade has infiltrated the area more than we realized. We felt safe at most times, but would not want to be responsible for other people. Even the majority of the local people are not happy about this. Most have lost a lot of opportunity because of the decrease in tourism over the past ten years. What was once a worldwide destination and thriving tourist mecca, sits empty with slews of hotels boarded and shuttered. We had hoped to invigorate this again to help the local people and bring money into the local communities, as well as to bring about ideas of conservation and national park creation. We hoped to promote eco-tourism and hiking in the area. We were too optimistic. The region is still in too much turmoil and is too risky. Many of the local people want to move past the drug culture and stigma, but others, like many of the friendly drug farmers that we met merely look at it as a job that pays them more than if they were growing corn or wheat. Not that they are growing a destructive and addictive drug, that usually ends up in the hands of youth in the United States, while also creating dangers and chaos in their homeland. It would be great if conservation could be implemented to protect the region from additional intrusion from roads and development. The area could easily be one big national park and would bring money to the local economy, maybe saving people from the temptations to grow drugs. The trails used by the Tarahumara for generations could easily be resurrected to create a prime hiking destination. The Copper Canyon could be that next scenic destination, when things turn the corner.

写真/文:ジャスティン・リクター  訳:大島竜也/三田正明

2013年の11月、トレイルランナーのバイブル『BORN TO RUN』 の舞台としても有名なメキシコのコッパーキャニオンへと500マイル(805km)のハイキングへと旅立ったジャスティン・リクターa.k.a.トラウマとカム。

道なき道を行き、増水した川を何度も渡り、たくさんの人々との出会いと別れを繰り返しながらいくつもの峡谷を越えてきたこの旅も、ついに終盤に差し掛かってきました。今回は『BORN TO RUN』にも登場するウリケやバトピラスの町をトラウマが訪ねます。

■DAY 14,15 & 16/ウリケの町

クリールの街で僕たちは今後のハイキングに備え休息日を取ることにした。そしてそれは家から持ってきたダッフルバッグからギアや食料を補給する最後の機会だった。その日は日曜日で、僕たちはテレビでスペイン語実況されるアメリカン•フットボールを観ながらギアの整理をし、ピザとアイスクリームとメキシコ料理の休日を満喫した。

月曜日の朝、僕たちの出発準備は完璧だったが、(数日前ヒッチハイクした)ディヴィサデロに戻るバスは昼前までやって来なかった。ようやくバスに乗り、数日前ピックアップトラックに拾ってもらった場所のあたりで下車し、峡谷のへりを歩き始めた。ウリケ・キャニオンを見ると川が増水していたので、峡谷のへりの上をウリケの町へ下るまでの70キロをそのまま進むことにした。

歩き始めは舗装されていた道路は徐々に荒れた未舗装路になっていった。午後は線路に沿って歩き、長いトンネルをいくつか越えた。トンネル内部の線路脇には隙間がほとんどなく、いまここを列車が猛スピードでやってきたらと思うとゾッとしたけれど、幸運にも列車はやって来なかった。

An old church along our route.(道の途中にあった古い教会)

翌朝、僕たちはふたたび未舗装路を南に向かって数時間歩き、小さな村をいくつか通過した。そのひとつの村を通り抜けるとき、小さな商店の前でジーンズとカウボーイブーツ姿の男たちが話し込んでいるのを見かけたが、そのうち何人かはAKアサルトライフルを肩から下げていた。僕らは急いでそこから離れ、村はずれの道の行き止まりまで歩き続けた。

そこからポンデロサ松の森に尾根に沿って踏み入り、消えかけたけもの道を辿って歩いた。岩棚までやってきたとき、僕たちはそこが峡谷の底までの下りが始まる場所だと思っていたので、急斜面の道なき道を慎重に下っていった。けれど30分ほどで岩壁に囲まれた場所に出ると、そこより先へ下ることができなくなってしまった。登り返して周囲を見渡し、GPSの電源を入れ位置を確認すると、自分たちが思っていた場所とはまったく違う場所にいることがわかった。僕たちは完全に地図を読み間違えており、峡谷の底へ下るにはもう少し先まで進まくてならなかった。地図には載っていないが目的の方角には続いていそうな未舗装路を見つけ、数kmほどそこを行くうちに、僕たちは渓谷の底へと下るにはもっと峡谷を上へ登らなければいけないことに気がついた。けれどそこで道は終わり、気がつくと僕たちは断崖絶壁の上にいた。

かすかについたけもの道を頼りに斜面を登って行った。トレイルは徐々に歩きやすくなり、過去に農場があったと思われる小さな平原に出た。あたりを見渡しトレイルの続きを探したけれど見つからず、平原を横切ると峡谷の底から1500mほど切り立った崖の上に出た。そこからは今日僕たちが行くべきルートが700~900mほど下に見え、その先には今夜の目的地である歴史あるウリケの町へと続く道も見えた。もっとも、町へは昼過ぎには着く計画だったのだけれど。

Looking down at the descent into Urique.(ウリケの町を見下ろす)

崖下へと続くトレイルがないかと探したけれど、あるはずもなかった。僕たちはトレイルを諦め、急峻な山肌を降りることにした。数百メートルほど行くと牛用の家畜道の上に丸太が倒れており、牛が逃げないよう誰かが置いたようだった。その道を左に進むと数km先にふたたび丸太があり、明らかに人間が意図的に置いたに違いないと思った。人の手が入ってる様子から、僕たちはこのまま行けば予定通りこの切り立った崖を下りきり、ディナーまでには町へ着けるのではと希望を持った。

さらに400mほど行くと道はさらに歩きやすくなり、明らかに下へ下へと続いていた。つづら折りの家畜道はこの崖を下ることのできるたったひとつのルートに刻まれており、この道が見つからなかったらここを滑落せずに下る方法はなかっただろう。延々と続く下り坂にゼリーのような足になりながら、日没まであと30分の時点でようやく町へと続く道までたどり着いた。が、ウリケの町でディナーにありつくにはさらに暗闇の中をハイクする必要があることは疑いようもなかった。

Looking back at the area that we were lucky enough to find a trail that brought us down through the cliffs. it was amazing that there was a way down through the cliffs!(幸運にも崖を通るトレイルを見つけて下まで辿り着き、崖を見返した時の様子。まさかこんな崖にトレイルがあるとは!)

2時間半のナイト・ハイクの後、ウリケ川の河岸に広がる歴史あるウリケの町へと滑り込んだ。通りはすでに暗かったけれどプラザ・レストランが開いているのを見つけ、訪ねるとディナーもホテルの部屋も提供できると言ってくれた。オーナーは驚くほどフレンドリーで親切で、食事も素晴らしかった。夕食後、座っていると60代後半のオーナー2人がいろいろな話をしてくれた。彼らは町と外界をつなぐ曲がりくねった道が出来るずっと前からこの町に住んでいるといい、ベストセラーになった書籍『BORN TO RUN』に登場する伝説的なトレイルランナー、カバーヨ・ブランコがこのレストランの常連だった話をしてくれた。それはとても楽しいディナーで、僕たちは翌日ウリケの町を散策することが待ちきれなかった。

A toast in Urique at the Plaza Restaurant……chocolate milk (my favorite) and a beer for Cam. (ウリケのプラザレストランでチョコレートミルクとビールで乾杯!)

Downtown Urique(ウリケの町のダウンタウン)

翌朝、僕たちはさっそく支度をして町を歩いた。ウリケの町並みは魅力的で、道も清潔だった。官公庁前の広場にはカバーヨ・ブランコの小さな碑もあった。プラザ・レストランで朝食を食べ、町を出ようと歩き始めると、20分もしないうちに複数の男たちが近寄って来た。マリワナの売人だった。一人の男は歩きながらついてきて、袋からマリワナの房を出して無理矢理渡してこようとしたけれど、僕たちは丁寧にお断りをして足を進めた。

Caballo Blanco plaque in Urique. (ウリケにあるカバーヨ・ブランコの石碑)

■DAY 17 & 18/砂漠地帯の雨

ウリケとバトピラスというふたつの歴史的な街をたどる72キロの道は、コッパーキャニオンでも人気のハイキング・ルートだ。けれど1,500mの峠を越えてウリク川からバトピラス川へと行くその道はすでに輝きの一部を失っていた。ウリケの町を離れのどかな雰囲気に建つ一軒の小屋にたどり着くまでは、トレイルは素晴らしい状態だ。けれど小屋を過ぎるとトレイルは荒れ始め、明らかに歩く人が少なくなっていることが窺えた。

This way to happiness. (ハピネスはこちら)

僕たちは小屋の主人を訪ねることにした。プラザ・レストランのオーナーがトレイルのこの先の情報に関してはその小屋の主人に聞くのが良いと教えてくれたのだ。主人は庭でマンダリンを摘みながら話をしてくれた。庭にはバナナやグレープフルーツやアボカドや、その他たくさんの樹木が生い茂り、まるで彼だけの秘密の楽園のようだった。彼曰く、90年代以前は年に約3,000人のハイカーがここを通っていたが、最近では20人以下になってしまったとのこと。その理由は、この地域でドラッグの栽培や取引が横行しているため危険な場所だと思われているからだ彼は言っていた。政府からの補助金も人気トレイルだった頃の1/3程度になってしまったという。

主人に礼を言い、暗くなる前にその日の目的地に到着するべく足を進めた。翌日にはバトピラス川に向けて下り始めることが出来るよう、その日のうちに峡谷の上まで到着したかったのだ。そうすれば翌日の午後にはバトピラスの町に到着し、ゆっくりと町を探検することができるかもしれない。僕たちは標高差1,500mを登りきり、どうにか暗くなる前に峡谷の上まで到着したが、適当なキャンプサイトを見つけるのにとても苦労した。やっと平らとは言い難い松の葉で覆われた場所を見つけると霧雨が降り始めたので、僕たちはこの旅で初めてシェルターを使うことにした。

Camping in the rain in the Ponderosa forest on the rim. (ポンデロサの森にある山の縁で雨の中キャンプしている様子)

夕食後に雨はさらに激しくなったけれど、ここは砂漠地帯で雨期でもないし、僕たちはすぐにやむだろうを高をくくっていた。ところが雨は夜中激しく降り続けた。砂漠地帯の乾いた土は雨に流れやすく、テントのペグは刺してもすぐに浮いてきてしまった。雨のせいでよく眠れず、朝になっても動きたくなかった。いずれやむだろうと思い、テントを出る気にもなかなかならなかった。結局いつもより一時間遅く出発したけれど雨脚が弱まることはなく、一時間もしないうちに僕らはずぶ濡れになり、体も冷えきってしまった。

稜線上には強く風が吹き抜け、気温は3℃しかなかった。僕たちは今日の目的地である暖かな峡谷の底へ着くのが待ちきれなかったが、そこへと導いてくれるトレイルはなかなか見つからなかった。辺りは雲で覆われ、視界は悪く、地図は見るたびに水分を吸い込んでびしょ濡れになっていく。やがて小屋が見えてくると、中から子供が飛び出してきて「Hola!(こんにちは)」と言った。わざわざ乾いた家から雨の中へ飛び出してずぶ濡れになっている子供が、僕たちにはクレイジーとしか思えなかった。その子の両親も小屋のドアまで出て来てたので道を訪ねたけれど、言葉のギャップであまりよくわからなかった。僕らの体は雨で凍りつき、我慢ができず早く足を進めることにしたが、子供はずぶ濡れになりながらついてきた。僕たちにはその子にあげる物が何もないと説得すると、走って家に戻っていった。

その後、どうにか峡谷の下へと続くトレイルを見つけた。1時間後バトピラスまで残り19km地点の道の上に到着し、日没1時間前に町には到着できたが、最後まで雨はやまなかった。町を流れるバトピラス川は増水して茶色く濁り、雨の影響は町全体に及んでいた。どうにか屋根のある場所にたどり着き、ずぶ濡れになったギアを広げることができたが、快適なホテルの部屋とは裏腹に雨はその晩も降り続けた。

■DAY 19, 20 & 21/シンフォローザ・キャニオンへ

翌朝、目を覚ましてもギアや服は乾いておらず、豪雨の影響はまだ街のそこかしこに残っていたものの、少なくとも太陽は顔を覗かせていた。使い古された常套句だけれど、まさに「たった一日で世界は変わる(what a difference a day can make)」のだ。バトピラスの町の歴史的な建築物を見物し、食料を補給して情報を集め、町を出発した。道を進むと地図に載っていない未舗装路があり、それから数日間歩く予定だった道が新しく作られたその道に置き換わったことがわかった。僕たちは計画を変更して翌日翌々日と車通りがない道を進み、小さな村々を巡ることにした。峡谷の底から這い出て、少し大きめの町でレストランを見つけランチを食べた。

Downtown Batopilas after the rain cleared.(雨がやんだ後のパトピラスのダウンタウン)

すでにこの旅の最後の峡谷であるシンフォロ―ザ・キャニオンまですぐの場所まで来ていた。午後の間ずっと舗装路を歩いて24kmほど峡谷を下り、日が沈む頃に峡谷の底にたどり着いた。バトピラスの川はここ最近の大雨の後でまだ水嵩が高くとても徒渉は無理そうで、河を渡る良い案がないか考えながら僕たちは眠ることにした。

■DAY 22, 23, 24 & 25/ドラッグ農場

目を覚ますと、厚い霧が毛布のように峡谷の底を覆っていた。出発に向けてパッキングを始めると、霧のせいで寝袋にもたっぷりと露がついている。当初、僕たちはバトピラス川沿いに130kmほど進む予定だったけれど、川の水位を見る限りそれは得策とは思えず、舗装路を辿ってすこし離れた町へ行き情報収集をした上で、他の手段を探ってみることにした。

霧が晴れてきたころとてもフレンドリーな男性に会い、彼の家でコーヒーをご馳走されることになった。コーヒーを飲みながら辺りの様子について話を聞くと奥さんを紹介してくれ、彼女は僕らに手作りのタマレス(コーンの粉で出来たメキシコ版ちまき)をご馳走してくれた。更には彼の隣人も参加して色々と現地の情報を教えてくれた。僕らは彼らの助言に従ってバトピラス川の支流に沿ってふたたび峡谷の上に登り、洪水状態の川を迂回することにした。

Sunrise and fog in the canyon. (峡谷に昇る朝日と霧)

しばしばトレイルは消えかけていたり入り組んでいたりして、そのたびに僕たちは分かれ道をどちらに行くか選ばなければならなかった。支流を進むと何かの栽培農場と小屋があり、十代の少年たちいた。話しかけてみるとまったく友好的でなく、その態度にここがドラッグの栽培農場であることは間違いなかった。急いでその場を離れ峡谷の上へと登っていくと、地図に載っていないのによく整備されたトレイルに出た。おそらくドラッグを運ぶために新しく作られたものだろう。

峡谷の上まで登り振り返ると、シンフォロ―ザ・キャニオンと川の支流の驚くべき眺めが見下ろせた。日暮れまで僕たちはさらに未舗装路を数km歩き、その夜はドラッグ関係者やギャングたちに見つからぬよう、道から見えない場所でキャンプをした。

Expensive truck broken down and abandoned in the middle of nowhere, presumably from the drug trafficking in the area.(壊れてタイヤも取られた高級トラック。おそらく周辺のドラッグ取引で使われたのだろう)

A hidden campsite along the dirt road walk. (未舗装路の脇で隠れてキャンプした)

Copper Canyon 500 mile Hike #4 by Justin Lichter

Days 14, 15 & 16

We took a rest day in Creel to fuel up for the remaining sections of the hike. This was our last time that we’d be able to access our duffel bag and swap out gear, as well as get any of the food that we had brought from home. It was a Sunday, so we had American Football playing in Spanish on the TV as we organized and reorganized our gear. We ate pizza, ice cream, and the traditional Mexican cuisine throughout the day.

Monday morning we were ready to leave but the first bus back to Divisadero wasn’t until mid morning. We got dropped off right where we had been picked up a couple of days before, and started hiking along the canyon rim. Due to the high water in the Urique Canyon we decided to stay along the rim for about 45 miles, before dropping to the town of Urique.

We started off following paved roads, which led to the railroad tracks, and then to dirt roads. On the evening out of town, we were following the railroad tracks. There were multiple long tunnels that we had to pass through. They had little room on either side of the train tracks. Luckily our timing was good and no trains blazed through.

The next morning we turned south onto a dirt road and followed it for a few hours through a couple of small villages.While passing through one town, men in normal jeans, cowboy boots and shirts were standing around conversing in front of the little store and half of them had AK assault rifles slung over their shoulders. We swiftly walked past and continued on until the road dead-ended a bit past the town.

We then started going cross-country through Ponderosa forests along a ridgeline. Every now and again we would pick up a trail or a faint two track to follow. We came to rock ledge and believed we were at the location where we needed to start dropping the nearly 5000 vertical feet to the river at the bottom of the canyon. We picked our way down very steep terrain with no trail. Within 30 minutes we were surrounded by rock faces and could not descend anymore. We climbed back up and scanned the scenery, realizing that we were not where we thought we were. We decided to turn the GPS on to verify our location. We had mistakenly read the map and needed to go a little bit farther before descending.

We hit a dirt road, that wasn’t on the map but seemed to be heading the right direction. We followed it for a couple of miles before realizing that we needed to ascend a little before we could descend and the road dead end and leave us on top of a cliff face.

We picked a faint animal trail to follow and climbed up the hillside. The trail became better and we reached a small area that had been cleared and previously farmed.We looked around for the continuation of the trail and couldn’t find anything. We crossed the field and stood out on 5000 vertical feet above the river bottom with a steep wall below us. We could see that we needed to drop about 2500-3000 feet to the town below us, and then a dirt road picked up that would take is straight in to the historic town of Urique, our goal for the night, although we had hoped to get there in the early afternoon.

We looked around for a trail that would lead us down the rock face. There was nothing. We decided to try to make our way down without a trail. We picked our way down the steep mountainside. After a few hundred yards we came across a cattle trail and a downed log. It seemed like someone had put the log there to prevent cattle from crossing it. We decided to follow the cattle trail to the left. A few hundred feet later we crossed another downed log acting as a gate, this one much more noticeably a human made creation. Our hopes were rising that we might actually be able to make it down this sheer wall and get to town for dinner.

About a quarter mile later the trail improved once again and was now clearly going to bring us down. We were on a solid mule trail, well graded with switchbacks and all. The trail weaved left and right and picked the only possible route through the cliffs. If we didn’t stumble onto the trail there would have been no way that we would have been able to descend this face.

With about thirty minutes of daylight left and our legs like Jello from descending, we came out on to the dirt road and through the first town. There was no doubt we were going to hike in the dark to get to Urique in time for a late dinner.

After two and half hours of night hiking we cruised in to the historic town of Urique, lying along the Urique River. The streets were dark but we found the Plaza Restaurant open and willing to serve us dinner and rent us a hotel room. The owners were amazingly friendly and hospitable, and the food was great. We sat there talking to the owners, a couple in their late 60’s, who had lived in Urique their whole lives. They have been there since long before the winding road was put in to connect the village with the outside world. They spoke of Caballo Blanco, the legendary trail runner made famous from the book Born to Run, who used to frequent the restaurant and Urique. It was an interesting dinner and we couldn’t wait to see the time in the daylight.

The next morning we rose and packed up and walked around the town. The streets were clean and the charm of the town was tangible. There was even a small monument for Caballo Blanco in the plaza in front of the government offices. We had breakfast at the Plaza Restaurant and then headed out of town. Within the first 20 minutes we had multiple people come up and try to sell us marijuana. One guy even tried to hand us a bunch that he pulled out of a shopping bag as he walked down the road. It was awkward but we politely declined.

Day 17 and 18:

The route from Urique to Batopilas, two historic and primary destinations in the Copper Canyon region, has long been one of the more popular hiking routes in the region. It is about 45 miles between the towns. You cross from the Urique River to the Batopilas River, climbing over 5000 feet and then dropping straight in to the other canyon. We could tell immediately that the route had lost some of its luster. The trail started off in great condition until we reached a house in an idyllic setting. After the house, the trail quality got worse and it was noticeable that the trail no longer received much traffic.

We stopped and talked to the owner of the house, since the owners of the Plaza Restaurant told us that he would have the most information for our upcoming days.He picked some mandarins off his tree while we talked to him. He had banana trees, grapefruit trees, and avocados. You name it, he had it growing in his hidden paradise. He told us that in the early 1990’s and before, there were over 3000 hikers per year hiking the Urique to Batopilas hike. Now there were less than 20 per year. He believes it is mostly because of the drug situation in the area and the perceived danger, along with a road that the government put in that covered up a third of the popular trek.

We thanked him and headed on to try to reach the rim before dark. We were hoping to camp on the rim and make the descent to Batopilas quickly the next day, so we could have the afternoon to relax and discover the town.We ascended 5000 vertical feet and hit the rim right at dark. The one night it would matter, we struggled to find a descent campsite. We settled on a semi-flat area covered in pine duff. It had started to drizzle a little during the last half hour so we set up our shelters for the first time on the entire trip. After eating dinner it started to pour.

We were in the desert and it wasn’t even the rainy season but it was raining nonstop. We kept thinking it would let up, but it was relentless. It came down hard all night. Our tent stakes kept popping out of the sandy soil. It was a fitful night of sleep and we weren’t eager to get moving in the morning. We both expected it to let up at any time. It continued to rain without stopping, so we finally broke camp about an hour later than normal. Within an hour we were sopping wet and chilly.

The wind ripped across the rim and the temperature struggled to hit 40 degrees Fahrenheit. We couldn’t wait to descend into the balmy, tropical river bottom, but we couldn’t find the trail that led us down. We were up in the clouds and the lack of visibility wasn’t helping. Every time we took our map out, it absorbed the water and got soggier and soggier.

Finally we came across a small hut on a dirt road and a child ran out to say “hola”. We thought he was crazy for leaving his dry roof to get all wet. His parents peered out the door and we asked for directions. They pointed the way and gave us a bit of convoluted directions. We were eager to get moving since we were already frigid. The child ran along with us getting completely soaked, before we convinced him that we didn’t have anything to give him and he ran back home.

We found a trail and started to descend. An hour later we hit a dirt road that would take us the remaining 12 miles to Batopilas. The rain still hadn’t let up when we walked in to Batopilas an hour before dark. The river running through town was running dark and huge. The water was dirty brown from the flooding. We quickly learned that the power was out in the entire town. At least we would be able to get a roof over our head for the night and spread out our wet gear. From the comfort of our hotel room the rain continued all night.

Day 19, 20 & 21

When we woke up the next day nothing had dried and the power was still out, but at least the sun was shining. It sounds cliché, but what a difference a day can make.

Before we headed out we walked around the town checking out the old buildings and buying a few items to restock our packs. We gathered some info on the upcoming days. There was a dirt road that had been built that was not on our map. It went exactly where we were going and the trail that used to go there was no longer used and is non-existent.

We changed plans and followed the dirt road for the next day and a half, passing through small villages and remote areas and not once having a car drive by. We climbed out of the canyon bottom to a slightly larger town, found a restaurant, and ate lunch. We then followed the road, which dropped immediately into the Sinforosa Canyon, our last canyon. We descended all afternoon on the road, around 15 miles, until we were just above the canyon floor and ran out of daylight. From our vantage point we could tell that the river was still running very high and it would be nearly impossible to ford after the recent deluge. We went to sleep mulling over the options.

Day 22, 23, 24 & 25

We awoke to a thick blanket of fog covering the canyon floor. Our sleeping bags had heavy dew on them as we stuffed things into our packs. We had originally planned to follow the river and the canyon bottom upstream for about 80 miles from here. After viewing the water levels again, we decided to follow the road a bit further to a small town and the end of the road, to try to get some information on the river, canyon, and potential alternates.

As the fog started to burn off, we met a very friendly man who invited us in to his house for some coffee. We asked him about the area as we drank a cup of coffee. He proceeded to have his wife bring us some fresh made tamales too. His neighbor also came over to give us some local’s insight. We took their suggestions and followed a trail up a tributary. It was to lead us back to the rim so we could bypass the flood staged river, without retracing our tracks.

The trail was often faint and convoluted with splits that we had to choose from.In the tributary we came upon a small house and growing fields. We saw some teenagers walking around the fields. We tried to make conversation and ask directions but they weren’t very friendly. It was clear they were growing drugs in this remote side canyon. We hurried out of the area and decided to try to ascend up to the rim.

We found a well-graded mule trail that wasn’t shown on the map. It was obvious we were on a new drug transportation trail. We made it up to the rim with astounding views down to the Sinforosa and the steep tributaries. We hit a dirt road a few miles later and continued pressing on as the light started to wane. With hints of the drug trade in full effect we found a protected spot out of sight from the dirt road to camp.

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